| 件名: | 哲学議論について |
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| MLNo. | [ept:16995] |
| 差出人: | オクラさん <topun17…> |
| 送信日時: | 2008/03/06 07:25 |
| 本文: |
皆さん、おはようございます
哲学議論というものは、理屈だけで行うものではないということ。 議論は人間相手に行うものです。物事を問う議論でありながらも、人 間を相手に行うものです。よって、その人間の表現したものが、相手 に不快を与える表現だと、その場でそれを指摘しなくとも心内でうっぷ んをためていきやすいものです。 そこでは発言者の態度が問題になります。この態度を考えることこそ また別の哲学ともなります。 思うに、議論中にこの相手の態度、対応の在り方の表現上の問題と いうものは、避けられない事態だと考えます。いつかも言ったように、 この発言者の気持ちというものは、問題対象が、単に物事自体、内容 自体であっても、そのことを表現する場合のその表現のやり取りの在り 方と密接につながりを持ち、とりもちのようにくっついてくるものです。 理工系の人は、特に、この物事自体、内容自体を議論するという形式 に慣れていられるために、哲学議論の際もその在り方が通用すると思い がちです。 けだし、前にも言ったように、理工系の問題は、答えが一つしかない問 題の議論です。そういう議論の場合は、私情は控えられやすいものです。 つまり、そのひとつの真理に行きつけば、それに反対であった者も文句 は言えません。ちょうど、将棋の勝敗と同じく、チェックメイトキングされて 詰めになった時は、敗者は何も弁解できずにその負けを認めねばならな いのと同じです。 ここでは、勝手な私的考えは許されません。 ところが、哲学的議論はそうではないということです。このことが、特に 理工系の人にはどうしてもわからないのでしょう。 このことを分かっている人は、このMLに何人おられるのか、極めて疑 わしい。 前に、誰かにも言いましたように、マルクス弁証法やその他の現象学批 判者の出す本質と、フッサールの現象学の出す本質とは異なったもので した。ここには一つの本質の意味が予めあるのではないのです。 多分、両者とも自分たちの言う本質こそ、真の本質だというように思い込 んでいるというようなことでしょう。だから、論敵のいう本質は、本質ではない という否定的態度をとるのです。これが哲学論争なのです。 哲学論争にはあらかじめの事実はないのです。 哲学は一つの答えを出すとしながらも出しえない状態で、次々に新しい 見方が提唱され、真理というものが、確定しえない展開を取っていく歴史 的経過の中に、厳密な学とはなりがたい思惟の発展を見出していく学問 です。いいかえると、独断論、独我論という傾向を常に持ちうる学問なの です。だからこそ、哲学のそういう定まりのつかぬ哲学的真理の変転の様 相に対して、「真理などはない」という言が出てくるのであります。 早い話が、哲学的議論は、議論が起こること自体、両者は別の真理を 見つめているとさえいえるものなのです。言い換えると、解釈の仕方の相 違をもって一つの事柄について考えているということです。その場合、どち らが正しいかということなのではありません。 要は、その見方の食い違い、相違を明らかにすればいいものなのです。 だからこそ、プラグマティズムもいうように、「相手の意見は認めてやる」 という態度が必要になるのです。 哲学議論は将棋ではないのです。勝者も敗者もいないということです。 理工系の人は、この辺を決定的に誤解されており、分かっていないと思 われるのです。 だからこのような事情ですので、単に理屈のつじつまだけが問題ではな いのです。その発言態度も問われてきます。 何故なら、真理は一つではないからです。見方は一つではないからです。 言い換えれば、一つの真理をめぐっての議論なのではないということです。 たとえば、自分はこう思う、と言って論理を展開する時、それを自分の見 方でこう思うというだけで、相手からすれば、別の見方が真理と見えるもの なのです。 そこを分かっていただけなければ、哲学的議論は行いえません。 自分が述べようとすることを決定論風な態度で決めつけるように議論される と、それはすでに哲学議論の態度ではないのです。哲学的議論を行う上 での態度の在り方は、自分の見方はこうだが、相手の見方とどう違うのだろ うという受け入れ態勢がないとだめなものであるということです。 だから、そういう用意のない決めつけの対応は、そのような受け入れの 態勢がないものとみられるので、思わず、「哲学議論を知らない」という ことを見抜かれてしまうのです。 哲学議論は一つの動かしようのない真理事実に一致させるために行う のではありません。 哲学議論はお互いの見解意見のかみ合わせなのです。 または意見の統一でもあります。それが真理といえば真理です。 統一されたものが真理です。 だからこそ、お互いの意見が否定されたり、虐げられたりする傾向があると、 気持を害されることになります。そこで、その対応の在り方、態度の在り方が 浮上して、是正すべく相手のことを問題にする必要に迫られてくるのです。 ここが面倒なところであり、通常の理工系的議論とは異なるところなので す。 今日はここまで。 |
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