みんなで哲学を語ろう

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因果倶時Re: 科学哲学 現象学

投稿者:エスティさん  2017/05/28 09:49  MLNo.19944   [メール表示]

呟き尾形さん。こんにちは。エスティです。

回答ありがとうございました。

呟き尾形さんの因果に関する説明を読んでいて、
仏教における「因果倶時」「因果異時」という理念を思い出しました。

ところで、呟き尾形さんが尊敬する哲学者はおられますか?

☆★☆



>因果に関する理念について、洋の東西を問いませんので、
>参考にされた哲学者や宗教などが有りましたら、教えてください。

 因果という言葉の意味によりますが、仏教的な意味での因果、
前に行った善悪の行為が、それに対応した結果となって現れる
とする考えであれば、まさに仏教というところではあります。
 ただ、話題の流れから原因と結果ということであれば、宗教というよりお科学哲学ということになるかと思います。
 科学哲学とは、科学を対象とする哲学的な考察です。 

>また、呟き尾形さんが注目している哲学者、あるいは、
>論理があれば教えてください。

 少し漠然として、範囲が広すぎるので、なんともどうこたえてい
いのか迷います。
 ただ、哲学において、現象学は念頭においています


Gg[ubN}[N

最新の10件 1 2
  • MLNo.19950   川上明馬さん  (1) 2017/05/31 02:00  [メール表示する]
    こんばんは、みなさん、呟き尾形さん、川上明馬です。

     呟き尾形さんに質問です。あなたが尊敬する哲学者として名前を
    あげた哲学者の古典(クラシック)といえる著作(むろん日本語へ
    の翻訳がなされたものでしょうが)をどれだけ読んでいますか?
    できれば読んだ著作とその簡単な感想を述べてください。私の勝手
    な予想では、呟き尾形さんは古代や中世の哲学者はともかく、近世
    以降の哲学者の原典はほとんど読んでいないと思うのですが。

    みなさまの平安をお祈りいたします。

     川上明馬 拝

    (なお僕の家の居候、アレクサンドル・フロリアン・ジョゼフ・
    プリンス・コロンナ=ヴァレフスキ2世殿下は、皇女凌辱の計画
    が当局の露見し、取り調べのため連行されました。彼はハチャ
    メチャなエロクマですが、僕も本命さんに彼ぐらい積極的になれ
    たらなと羨ましく思うところもあります。)

    -----Original Message-----
    From: post-01061999-akibak=jcom.zaq.ne.jp@…
    [mailto:post-01061999-akibak=jcom.zaq.ne.jp@…] On Behalf Of 呟
    き尾形
    Sent: Tuesday, May 30, 2017 10:41 AM
    To: ept@…
    Subject: [ept:19949] 尊敬する哲学者

    みんなで哲学を語ろう


    ------------------------------------------------

    こんにちわ。エスティさん。呟き尾形です。

    [ept:19944]因果倶時Re: 科学哲学 現象学
     へのレスです。


    >ところで、呟き尾形さんが尊敬する哲学者はおられますか?
     いっぱいいますね。
     ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ディオゲネス、
    エピクロス、オッカムのウィリアム、マキャベリ(一般的に
    は哲学者であるという風にはいわれていませんが)、デカルト、
    カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサールというところで
    しょうか。


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    「言うまでもありませんが、脅し文句などの乱暴な言葉は禁止します。
     マナーを守り、良識的な交流をお願いします」

  • MLNo.19953   呟き尾形さん  (15) 2017/05/31 07:19  [メール表示する]
     こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    アラシはスルー中ですので、アラシ行為を反省していると宣言いただければ、内容にレスポンスします。

  • MLNo.19955   川上明馬さん  (1) 2017/06/01 19:58  [メール表示する]
     こんばんは、みなさま、呟き尾形さん、川上明馬です。

     呟き尾形さん、僕ももちろん、アレクサンドル・フロリアン・
    ジョゼフ・プリンス・コロンナ=ヴァレフスキ2世殿下の、呟き
    尾形大先生のいうところのアラシ行為は反省しています。彼の投
    稿は僕がきちんと管理をしていれば防げていたことですから。
     その代わり、僕がきちんと反省した以上、呟き尾形さんには内容
    あるレスポンスを求めます。みなてつが学術的なメーリングリスト
    でないことを理由にしたくだらないレスポンスは許しません。僕の
    哲学における真理を追究する心持は本心です。多少時間がかかって
    もかまいませんので内容のある返信を期待しています。

     それでは、みなさまの平安をお祈りいたします。

    (僕の本命さんは先日まで休暇でしばらく会っていません。今日から
    彼女は休暇から復帰していると思いますから、今後、僕と顔をあわせる
    機会があるかもしれせんが、どう接していいのかがわかりません。
    アレクサンドル・フロリアン・ジョゼフ・プリンス・コロンナ=
    ヴァレフスキ2世殿下がいれば、ハチャメチャかもしれませんが何か
    アドバイスが聞けたかと思うと残念です。)

    -----Original Message-----
    From: post-01061999-akibak=jcom.zaq.ne.jp@…
    [mailto:post-01061999-akibak=jcom.zaq.ne.jp@…] On Behalf Of 呟
    き尾形
    Sent: Wednesday, May 31, 2017 7:20 AM
    To: ept@…
    Subject: [ept:19953] アラシはスルー中ですので、アラシ行為を反省していると宣
    言いただければレスポンスします。

    みんなで哲学を語ろう


    ------------------------------------------------

     こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    アラシはスルー中ですので、アラシ行為を反省していると宣言いただければ、内容に
    レスポンスします。


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  • MLNo.19956   呟き尾形さん  (15) 2017/06/02 05:55  [メール表示する]
    こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    [ept:19955]Re: アラシはスルー中ですので、アラシ行為を反省していると宣言いただければレスポンスします。
     へのレスです。

    > 呟き尾形さん、僕ももちろん、アレクサンドル・フロリアン・
    >ジョゼフ・プリンス・コロンナ=ヴァレフスキ2世殿下の、呟き
    >尾形大先生のいうところのアラシ行為は反省しています。
     了解しました。
     反省受け取りました。

    > その代わり、僕がきちんと反省した以上、呟き尾形さん
    >には内容あるレスポンスを求めます。
     どのレスポンスがほしいのか、引用していただけるとレスポンス
    できるかと思います。
     当面は、
     さて、
    http://www.freeml.com/ept/19950
    >呟き尾形さんに質問です。あなたが尊敬する哲学者として名前を
    >あげた哲学者の古典(クラシック)といえる著作(むろん日本語へ
    >の翻訳がなされたものでしょうが)をどれだけ読んでいますか?
     の回答です。
     別に読んでないですよ。

    >みなてつが学術的なメーリングリストでないことを理由にしたく
    >だらないレスポンスは許しません。
     とのことですが、どの話なのかわかりませんので、発言のログの
    URLか文章の引用などをして、どの話か明確に頂かないとなんと
    も判断できません。

     ともあれ、
    >僕の哲学における真理を追究する心持は本心です。
     とのことですが、別段みなてつもそのような目的はないし、
    私もそのような目的も欲求もありません。
     つまり、川上明馬さんとは違うものを哲学に求めていると
    いうことです。
     それゆえ、川上明馬さんの求めるものに付き合うつもりはあり
    ません。逆に、川上明馬さんのこれまでの言動から、私が哲学に
    求めるものを川上明馬さんがもとめているかというと、そういう
    ことはないと判断しています。
     実際、川上明馬さんはいつ、どこで川上明馬さんの哲学を語ら
    れていたでしょうか? 引用してみてください。おそらくは、
    他者や哲学者を評価する文章、および悪ふざけはたくさんありま
    すが、それ以外は少なすぎて私には見つけられませんでした。悪
    ふざけが哲学である。
     というのであれば、それは一つの認識であり、否定はしません
    が、私は付き合うつもりはありません。
     他者や哲学者の評価も同様です。

     質問されれば、回答しますが、川上明馬さんが質問の仕方に
    工夫しながら、回答から創意工夫してそういう流れを作ろうと
    労力を割こうというのなら別ですが、これまでの意見交換から
    そいうことはないと判断しています。

     みなてつは、哲学を楽しむ場であり、草野球のようないわば、
    草哲学の場です。
     つまり、野球が上手な人も下手な人も野球が好きな人があつまり、
    野球を楽しむ、野球を通してコミュニケーションととるということの
    ように、哲学に詳しい人も、詳しくない人も哲学が好きな人が集まり
    哲学を楽しむ、哲学を通してコミュニケーションをとるということで
    すので、その点ご理解ください。

  • MLNo.19982   川上明馬さん  (1) 2017/06/08 04:05  [メール表示する]
    こんばんは、呟き尾形さん、みなさん、川上明馬です。

    >実際、川上明馬さんはいつ、どこで川上明馬さんの哲学を語ら
    >れていたでしょうか? 引用してみてください。
     
     とのことですので、引用します。

    ★★★ここから★★★

    ミシェル・フーコーの倫理思想
            『監視することと処罰すること』の読解と批評

              埼玉大学 教育学部 社会科学講座 倫理学研究室
                        21534 川上 明馬

    序章
                     
     わたしにつきまとって離れない問いがある。それはたとえば「人間は
    なんのために生きるのか」といった問いである。わたしはこの問いを小
    学一年生のとき、教師との交換日記のようなノートに書いた覚えがある。
    教師は「ずいぶん哲学的なことを考えるのですね」といったコメントを
    つけてノートを返してくれたとわたしは記憶している。おそらくそれが
    わたしの哲学的な探求の始まりだったのだろう。
     このような哲学的な問いをカントは次のように整理した。いわく、
    「人間は何を知ることができるか」、「人間は何をすべきか」、「人間
    は何を望むことが許されるのか」、そして「人間とは何か」である。
     1926年生まれのフランスの哲学者、ミシェル・フーコーもこうした根
    源的な問いに答えようとしたのだった。しかし彼は、カントの問いを次
    のように変換する。すなわち、「どうしてわたしは今あるようなわたし
    になったのだろう」、「なぜこうしたわたしのあり方に悩むのだろう」
    といった問いにである。そしてこれはニーチェの問いでもある。
     自らも認めるニーチェ主義者であったフーコーはこうした問いに答え
    るべく、やはりニーチェが提示した方法を採用する。それは「系譜学」
    という方法である。系譜学とは、「系譜」という言葉から連想されるよ
    うな、起源をたどり本質を明らかにするという方法ではない。それは様
    々な真理が歴史的にどのように形成されたかを探る方法である。そして
    フーコーがこの方法に従い、その哲学的な問いに答えるべく刑罰の歴史
    という題材を取り上げて書いた著作が、彼の最高傑作といわれることも
    多い、『監視することと処罰すること―監獄の誕生―』である。なおこ
    の本は邦訳タイトルでは『監獄の誕生―監視と処罰―』となっており、
    主題と副題が逆になっている。また原著は1975年、邦訳は1977年の出版
    である。
     わたしのこの論文では『監視することと処罰すること』の読解と批評
    を目標としている。そうすることがわたし自身の哲学的な問いの探求に
    なると考えるからである。そこで『監視することと処罰すること』の内
    容の検討に入る前に一つ、注目すべき概念について説明しておこうと思
    う。それはフーコーの「権力」に対する新しい考え方である。それは伝
    統的ないわゆるマルクス主義的な理解とは異なっている。伝統的な権力
    に対する考え方では、権力とはまず国家権力であり、ある支配的階級が
    所有するものと考えられる。またその代表的な現れ方は禁止や排除とい
    った消極的(ネガティヴ)な形である。それに対しフーコーの考える権
    力とは一つの戦略である。それは国家権力だけではなく、親と子、教師
    と生徒、医者と患者といった様々な関係の間に存在する。支配階級が所
    有するというのではなく、支配階級の戦略的立場から総体的に生じる効
    果である。またそれは単に禁止・排除したり抑圧するではなくむしろ生
    産する、積極的(ポジティヴ)なものである。また権力には必ず抵抗が、
    少なくともその可能性がともなう。もし抵抗がありえない権力というも
    のがあれば、それはもはや権力ではなく一方的な支配なのである。そし
    て権力は知と、そして真理と常に結びついているとフーコーはいう。
     ではこうした権力に対する考え方に留意しつつ、『監視することと処
    罰すること』の内容をみていくことにしよう。

      第一章 身体刑とその改革

     『監視することと処罰すること』は1757年のダミヤンに対する凄惨な
    処刑場面の描写から書き始められている。そのすぐ後には、ダミヤンの
    処刑から四分の三世紀のちの、「パリ少年感化院のための」規則、起床
    からお祈り、労働、食事、学業など分刻みでスケジュールを定める規則
    が引用されている。対照的なこの二つはそれぞれの時代における刑罰の
    様式の規定である。つまり前者はフーコーの言う古典主義時代、すなわ
    ち十七世紀中葉からフランス大革命までの期間における身体刑であり、
    後者はそれ以降の近代に生まれた新しい刑罰である。『監視することと
    処罰すること』はこの変化がどのように生じたかを述べている。そこで
    まず、古典主義時代における身体刑とはどのようなものであるかみてい
    こう。
     身体刑とは受刑者の身体に物理的な力を行使する刑罰である。例えば、
    鞭打ち、烙印、火刑、車責めといったものであり受刑者に身体的な苦痛
    を与える刑罰である。現代のわれわれから見れば残酷で野蛮と思えるで
    あろう。しかしフーコーによれば、身体刑は法律ぬきの単なる凶暴さな
    どではなく、残酷ではあっても野蛮でも変則的でもないという。その理
    由として身体刑の持つ三つの主要な基準があげられている。一つは身体
    刑が受刑者に与える苦痛は正確には測定できないにしても評価と比較と
    段階づけができるという基準である。例えば死刑にしても、一瞬の苦痛
    しか与えない斬首刑から、絞首刑や火刑、車責め、そしてダミヤンに対
    して行われたようなほとんど無限の苦痛を与える四裂きの刑にいたるま
    での段階がある。次にその苦痛を生じさせるには規則がともなうという
    基準である。受刑者に与えられる苦痛の質・強さ・時間は、犯罪の軽重、
    犯罪者や犠牲者の地位身分などと相関関係に置かれており、法律的に定
    められている。たとえば鞭打ちの回数や火刑の責め苦の時間は細則にし
    たがって計算され、それを決定するのは裁判所なのである。第三に身体
    刑には祭式を構成するという基準がある。身体刑は受刑者の身体に傷痕
    を残し、また華々しい儀式をともなうことによって、刑の犠牲者を不名
    誉な人間とする。受刑者は晒し者にされ、人々はそれを記憶する。他方
    で司法の側は、人々が見物する中で、罪人に暴力を加えるという華々し
    い身体刑の祭式を通して自らの力を誇示することになるのである。この
    ように身体刑は権力の技術、テクノロジーであり、その極端さに権力の
    節約・調整としての経済策全体がもりこまれているという。
     身体刑は犯罪の真実を明らかにする犯罪訴訟の手続きのうちから課せ
    られる。古典主義時代の犯罪訴訟の手続きは秘密に行われた。公衆には
    もちろん被告人自身にもである。これは公開の裁判を原則とする現代の
    われわれのものとは異なっている。弁護士もおらず、司法官が自分一人
    で真実を組み立てるのである。またこの訴訟手続きは文書本位であり、
    裁判官は判決前に被告人に一回しか面接しなくてもよかった。しかしな
    がら、この訴訟手続きは厳密な規則にもとづいて行われている。例えば
    証拠調べにおいて、半ば完全な証拠を二つあわせると完全な証拠となる
    とか、副次的な証拠を食い違わずにいくつか組み合わせると半ば完全な
    証拠となるといった規則がある。絶対的な権力ではあるがその内部にこ
    のような規制はあったわけである。
     さてこの訴訟手続きは被告人の自白を求める傾向がある。その理由は
    自白は文書中心の他の証拠調べを補足することになるきわめてたしかな
    証拠だからである。ところで自白には両義性がある。すなわち、自白は
    たとえそれがなくても被告人を有罪とできるという意味では他の証拠と
    同様に証拠の一つでしかない。しかし一方では被告人が自らの罪を認め
    る自白は誰の目にも明らかなもっとも優れた証拠でもあるということで
    ある。この両義性にはさらに第二の両義性が重なることになる。それは
    もっとも優れた証拠である自白を求めて司法官はあらゆる強制権を行使
    するということと、自白は被告の自由意志によって行われる和解である
    べきだという要請である。こうした自白の二重の両義性から古典主義時
    代の犯罪法が宣誓と拷問という手段を用いたことが説明される。こうし
    て犯罪訴訟の手続きに拷問という形で身体刑が登場することになる。
     その拷問であるが、これは真実を探求する身体刑である。やはり残酷
    であっても野蛮ではなく、きちんと規定された手続きにそって行われる。
    また拷問を命じる裁判官と拷問される容疑者とのあいだの一種の合戦、
    決闘のような部分がある。例えば容疑者が拷問に勝って自白しなかった
    場合、裁判官は辞めなければならなかったり、容疑者を死刑にはできな
    くなったりするのである。ところでなぜまだ訴訟手続きの段階で、真実
    を明らかにして罪を論証する過程において拷問という刑罰が使われるの
    か、後年からみると疑問になる。それは、古典主義時代の犯罪司法にお
    いては、罪を犯したのかあるいはそうではないのかという二元論の仕組
    みではなく、連続的な漸層法の原理に従っていたためである。つまり、
    半ば完全な証拠が一つだけあった場合、容疑者はそれがもう一つの半ば
    完全な証拠と組み合わされない限り無罪となるというのではなく、半ば
    有罪の者となるのである。現代のわれわれの刑事司法制度では「疑わし
    きは罰せず」が原則であるが、古典主義時代においては疑わしければそ
    の程度にもとづいて罰せられるわけである。このように拷問とは真実を
    生み出すと同時に処罰でもある。容疑者の身体をとおして、真実を生み
    出す祭式と処罰を課す祭式が組み合わされている。
     この組み合わせは判決が下された後、刑の執行においても続く。受刑
    者は公衆の面前で処罰されることになるが、その際、自分の犯した罪の
    伝達者とされる。公衆の前で自白をもう一度おこなったり、犯罪がおこ
    なわれたその場にさらされたり、極端な場合、処刑において犯罪そのも
    のの芝居がかった再現がおこなわれたりする。また処刑における受刑者
    の苦痛はある真実を示すことになる。受刑者が処刑の際にどの程度苦し
    むのか、悔悛するか神を冒涜するかといったことから、それを見守る公
    衆は犯罪が真実なのか、裁判官は誤っていないか、犯罪者は善良か邪悪
    か、人々の裁きと神の裁きが一致しているか相違しているかを判断しよ
    うとするのである。
     このように、身体こそが刑罰の典礼における本質となっており、君主
    の行使する権利を中心に秩序立てられる古典主義時代の訴訟手続きの相
    手役をつとめなければならないのである。
     さらに身体刑は単に司法上のものだけでなく政治上の祭式でもある。
    古典主義時代の法においては、犯罪つまり法律違反は、それによって生
    じる損害以上に、法を布告し主張する人間である君主の権利に対する侵
    害なのである。よって犯罪者に対する処罰権は、君主がもつ自分の敵と
    戦う権利の一側面となっている。たとえば処刑場の見張りには軍隊が配
    置されることになる。つまり身体刑は、法律的かつ政治的な機能をもち、
    犯罪によっていったん傷つけられた君主権を再興するための儀式なので
    ある。身体刑が苛酷な刑罰であり、華々しくけばけばしい儀式であるの
    は君主の力の優越性を示すためであって、刑罰についての表象が犯罪の
    利害を上まわるようにするという経済的な考えからではなかったのであ
    る。また処刑そのものも拷問と同じように死刑執行人と死刑囚の決闘の
    要素があり、たとえば処刑が万一失敗した場合、死刑囚は赦免される定
    めになっていた。すると処刑という決闘における国王の代理人が死刑執
    行人なのかというとかならずしもそうではない。むしろ緩慢におこなわ
    れる処刑の最中に国王からの特赦状が届くといったこともあり、これは
    刑の執行も中止も意のままであるという国王の権力を華々しい形でしめ
    すことになるのである。そして最も重い刑罰を課せられるのは国王殺害
    者であり、冒頭に登場したダミヤンも国王を殺害しようとしたのだった。
    ダミヤンに四裂きというほとんど無限の苦痛をあたえる刑罰が課された
    のはそのためだったのである。
     このように君主による犯罪者への報復であり《極度の残忍性》をもっ
    た身体刑はどのような根拠で《人間的である》との名誉を主張する刑罰
    にとってかわったのだろうか。その根拠の一つは、身体刑の儀式におい
    て民衆が中心人物であったことである。身体刑において民衆の参加は法
    律にも定められた義務であったが、しかし一方では権利でもあった。た
    とえば密かにおこなわれる処刑には、人々はそれが厳格におこなわれた
    か怪しみ、抗議するのである。ところで処刑の場に集まった民衆は、処
    罰権力にたいする拒否や反抗をおこすことがあった。特に死刑判決が不
    当であると考えられるとき、たとえば犯人が高い身分の持ち主であれば
    軽い処罰ですむ犯罪で犯人が下層民であるという理由で死刑に処せられ
    るといったときには、こうした拒否や反抗は激しく、暴動の引き金にな
    ることもあった。こうしたことは十八世紀になっておこるようになって
    きたのだが、権力の側には、この身体刑の祭式の効果に政治的な恐れが
    生じてきたのである。
     また処刑の後にはそれを人々に知らせるビラなどが配られることがよ
    くあった。多くの場合、これは君主の側が発行した。しかし人々のこう
    したものの受け取り方は逆に君主にとって都合が悪くなることもあった。
    つまり人々は、苛酷な拷問をうけて罪を自白し神に謝罪した受刑者を聖
    人扱いしたり、残酷な処刑に耐えた受刑者を英雄視することもあったの
    である。

     十八世紀後半になると苛酷な身体刑に対して、ヒューマニズムの立場
    からの抗議の声が強く上がるようになる。しかしこのような心情の叫び
    や感受性の変化が刑罰が変化した主要な理由というわけではない。問題
    となるのは、どのような仕方で《人間性》と刑罰の《尺度》や経済策が、
    よりうまく統治するための一つの戦術の上で結びついていたかというこ
    とである。
     刑罰の変化の背景には、十七世紀末以降からの犯罪自体の質の変化が
    ある。すなわち殺人や傷害のような犯罪が減少し、代わって窃盗や詐欺
    のような所有権の侵害にかかわる犯罪が増大しているのである。こうし
    た変化は社会の複合的な機構全体の変化の一部分である。その機構の変
    化の特色とは、生産力の発達、富の増大、そして所有権に対する法律及
    び道徳面での高い価値付与といったことである。こうした変化は犯罪の
    実情だけでなく処罰の実務をも変化させる。治安を守るための厳重な監
    視手段、住民に対する地区単位の警備網、監視と逮捕と処罰に対する一
    段とみごとに調整された技術が必要とされるようになるのである。
     そうなると刑罰の改革者たち、彼らの多くは法学者・法律家であるが、
    彼らの批判はまず君主制の《超権力》へと向けられる。つまり君主制の
    下では、君主は財政的な理由から裁判官の官職を金で売るなどして、結
    果として無知であったり私利私欲に夢中といった連中が裁判官となった
    りする。また国王が持つ裁判権を臣下へと分け与える結果、領主の裁判
    所や国王の裁判所など各種の裁判所の裁判権が入り乱れることになる。
    結局のところ君主制の刑事司法制度は変則的で統一されていない。これ
    を連続的で普遍的なものへと変えていく必要があるというわけである。
    また一方では《下層権力》も批判される。この下層権力とは社会におい
    て下層民に、生きていくためにたとえ法律では禁止されていても実際に
    は処罰されることのない、放浪やそれにともなう略奪といった違法行為
    がある程度許されていたという事情をさしている。刑罰の改革者たちは
    所有権を守るためにこれを厳格に取り締まるべきだという批判をするの
    である。このような君主の超権力と下層権力の双方に反対するというそ
    の接合点で刑罰の改革はおこなわれたのである。
     ところで身体刑における君主による報復という原理に代わる新しい処
    罰の原理は、社会契約の理論である。つまり犯罪者は社会において皆が
    守らねばならない契約を破ってしまったために処罰を受けるわけである。
    そうなると犯罪者は社会全体の敵であり、彼自身もともと社会の構成員
    なのだから社会に対する裏切り者ともいえる。すると社会を擁護するた
    めに犯罪者を厳しく罰する必要があるということになる。これでは苛酷
    な身体刑を続けるということにもなりかねない。しかし公開の処刑の現
    場を取り巻く民衆は暴動を起こすかもしれないのだ。それで処罰を軽減
    させる原理が必要となる。そのための原理となるのが《人間性》なので
    ある。
     よって刑罰を緩和しようという事態において誰の人間性が考慮されて
    いるのかといえば、それは犯罪者の人間性ではない。刑罰を命じる裁判
    官や見物人たちの人間性なのである。苛酷な身体刑をやめることによっ
    て、どのような苦痛を取り除こうとしているのかといえば、それは受刑
    者が感じる苦痛ではない。社会契約を守って生きている人間たちが処刑
    を命じたり見たりすることで感じる苦痛なのである。そしてこの苦痛を
    なくすことで残忍さになれて暴動が起きたり、逆に犯罪者に憐れみをか
    けてしまう事態は避けられる。つまりどの程度の刑罰を行うのかをうま
    く調整しようとする方策が考えられ、そのための綿密な計算がなされた
    のだ。フーコーはこうした方策や計算結果が《人間性》と名付けられて
    いるのだと皮肉な見方をしている。
     では改革者たちは政治においてどのような技術を用いて、違法行為を
    厳格に取り締まり、犯罪を予防しようとしたのだろうか。フーコーは以
    下の六つの主要な規則があるという。

    1最少限の量の規則
     犯罪をするよりも、犯罪をせずに刑罰を受けないようにするほうが利
    益がいくらか大きいようにする。
    2充分なる観念性の規則
     刑罰は苦しいものであるという観念をできる限り強く人々にいだかせ
    る。
    3側面上の効果の規則
     処罰によって犯罪者以外に影響を与え、犯罪を起こさせないようにす
    る。
    4完璧な確実さの規則
     法を布告し人々に知らしめる。また犯罪をすれば必ず処罰を受けるよ
    うにする。そのために監視機関つまり治安警察をつくる。
    5万人に共通な真実の規則
     被告人は誰の目にも明らかな証拠がある場合にのみ有罪とされ処罰さ
    れる。
    6最も望ましい種別化の規則
    様々な種類の犯罪を規定し分類し、犯罪者それぞれに適した処罰をす
    る。

     このような処罰が実際に機能するためには次のような点に配慮する必
    要がある。

    ・処罰は恣意的なものであってはならない。人々が納得するものでなけ
    ればならない。 
    ・犯罪の魅力を減少させ、処罰の恐ろしさを増大させねばならない。
    ・犯罪者を拘禁し長期間その権利を剥奪する。比較的短期間である拷問
    にかわり、こうした「時間」を利用することで、それを目撃する見物人
    に対するものも含めて、刑罰の効果を高める。
    ・犯罪者を奴隷として公共土木事業に従事させる。これは犯罪者が社会
    や市民に対して及ぼした損害を償わせることになるし、人々がそれを見
    ることは「見せしめ」としての効果がある。道路建設をさせれば流通の
    自由が拡大し経済発展にも有用である。
    ・広報、教育活動によって処罰の意味を広く人々に知らせる必要がある。
    かつてあった犯罪者の英雄視を防ぎ、犯罪は悪であると広める。

     以上のような考えに基づいて刑罰の改革者たちが採用しようとした処
    罰の技術は監禁ではなかった。というより、改革者たちの意見では監獄
    における拘禁は処罰の方法として適当ではないと批判されているのであ
    る。なぜなら拘禁が死刑と軽度の刑罰との間の処罰の全領域を覆い尽く
    すとすれば、先にみた犯罪を分類しそれに応じた処罰をするという種別
    化の規則に反する。それに受刑者を監獄に閉じこめてしまえば見せしめ
    にはならないし費用もかかる。またこれも前にみたように、改革者たち
    は君主制の超権力も批判している。ところでかつて君主が恣意的な権力
    をふるうとき監禁という手法が用いられることが多かったという事情が
    あり、この点からも監禁は批判されていたのである。ところがフランス
    の第一帝政期、1810年の刑法典では監禁が、いくつかの形態があるにし
    ても、死刑と罰金刑以外のほとんどの処罰の領域を占めることになる。
    フーコーはこの変化はほとんど一瞬にして起こったと述べているが、い
    かにしてこのような変化が起こったのだろうか。
     その説明として一般的なのは、それまでに処罰としての監獄の見本が
    オランダ、イギリス、アメリカなどで既に成立していたということであ
    る。こうした見本の最古のものは、1526年創設のアムステルダムの〈研
    磨の獄舎〉である。ここではすでに現代にもつながる主要な三つの原則
    が設定されていた。一つは被監禁者の行いが良ければ行政機関が刑期を
    短くできることである。次に労働を義務として課したことである。最後
    に厳しい時間割や絶えざる監視などによる受刑者に対する再教育である。
    こうした原則は後に設置された施設でさらに発展させられる。ベルギー
    のゲント監獄では経済上の理由もあって、刑罰としての労働、それによ
    る労働精神の教育が重視された。イギリスの監獄では、独房における独
    居により被監禁者を宗教的に改心させるシステムがつくられた。アメリ
    カのフィラデルフィア監獄では厳しい時間割や規則、絶え間ない監視に
    よって受刑者の精神を改造することが目指された。まさに《矯正装置》
    としての監獄の見本が形成されてきたのである。
     このような監獄のシステムと改革者たちのシステムを比較すると、類
    似点として次の点があげられる。すなわちどちらも犯罪の予防、再発防
    止を目指しているし、矯正技術であり、また刑罰をそれぞれの個人に応
    じたものにしている。しかしながら重要な相違点もある。それは刑罰の
    向けられる対象の違いである。つまり改革者たちのシステムではその対
    象は個人が思い描く利害の表象である。つまり人々が犯罪をしようと考
    えたとしても同時にそれに対する刑罰も思い浮かび、利害を計算した結
    果として犯罪を思いとどまるというわけである。このようにして社会契
    約における法的な主体を形成することで犯罪を防ぐわけである。
     それに対して監獄のシステムにおける刑罰の対象はまず身体であり、
    そして時間、動作や行動、さらには精神である。監獄で人々は訓練され
    るのであり、そのための道具の例をあげれば、時間割、規則的な活動、
    ひとりでの瞑想、共同の労働、良い習慣といったものである。こうした
    ことで法的主体というよりは、服従する主体を形作ることが目指される
    のである。
     ここまでの議論を簡単に整理すると次のようになる。一八世紀の末、
    三つの処罰の形式があった。君主制における身体刑、それを改革しよう
    とする法学者たちの計画、管理・矯正装置としての監獄制度である。最
    終的にはこれらのうちで監獄制度が圧倒的なものとなるのだが、それは
    いかにしてなのか。たしかにフランスにおける監獄制度の見本となる制
    度は、アメリカなどに既にあった。しかしこうした見本自体はいかにし
    てできたのか、どのような背景があったのかが問題である。それを解く
    カギとなるのが、フーコーの《規律=訓練(ディシプリン)》に関する
    理論である。

      第二章 規律=訓練と監獄

     規律=訓練について述べるに際し、まずフーコーが取り上げたのは兵
    士の姿の変化である。古代からの伝統では兵士の理想像は、直立した頭、
    広い肩、すらりとした脚部など鍛えられた身体の持ち主であり、遠くか
    らでもすぐそれと見分けがつく人物である。頑健さや勇気を生まれなが
    らに持ち、その身体は力や勇ましさのシンボルである。ところが傭兵制
    から徴兵制へと変わってくる一八世紀の後半にもなると、兵士の身体は
    「人間機械」として作りあげられるものになる。農民たちを集め、その
    物腰を捨てさせ、兵士としての立ち居振る舞いを教え込み訓練するので
    ある。
     このように古典主義時代に、身体が権力の対象・標的として発見され
    たのである。デカルトの動物を機械とする考えを受け継ぎ、ラ・メトリ
    ーは1748年、『人間=機械論』を著したが、これは服従させうる、役立
    たせうる身体、従順な身体を作り上げるための理論書でもあった。
     もちろんどのような社会でも、その権力は身体に拘束や禁忌や義務を
    課している。しかしこの従順な身体を生み出す図式、技術にはある新し
    さがあった。この技術は身体のすべてにいきわたるべくその細部にまで
    働きかける。また身体の表面的な部分でなく、その内面を対象とするた
    め、訓練を重視する。さらに身体の活動の結果よりもその過程に留意し
    て、時間・空間・運動を詳細に管理する。こうした綿密な取り締まり、
    役に立ち従順な身体を作りあげる管理の方法が《規律=訓練》と名付け
    られるものである。この規律=訓練の方法が一般的になったのは十七、
    十八世紀からである。それは奴隷制のような絶対的な身体の占有関係と
    は異なる。また主人の気まぐれな意思に支配される奉公人の主従関係と
    も違う。「御恩と奉公」による君主と臣下の関係でもない。さらに修道
    院の自分自身の身体の統御を目的とする禁欲苦行とも異なっているので
    ある。
     規律=訓練の方法が始まったのは私立学校からであり、小学校、施療
    院へと拡がり、数十年のうちに軍隊組織をこの方法で再構造化した。さ
    らに私立学校から公立高等中学校へ、軍隊から大工場へと、産業上の改
    革や伝染病の流行、鉄砲の改良やフリードリヒ大王率いるプロイセン軍
    の勝利といった時代背景のなかで拡がっていったのである。
     規律=訓練の権力は「些細なもの」にこだわり見逃さず「従順な身体」
    をつくりあげようとする。具体的にはまず大きく分けて次の四つの技術
    がある。1配分の技術、2活動の取り締まり、3段階的形成の編成、4
    さまざまな力の組立、である。このそれぞれについてみていくことにし
    よう。

    1配分の技術
     これは空間を配分するということである。まず寄宿舎学校、兵営、守
    衛が入退出を管理する工場などの閉鎖的空間の技術がある。これをさら
    に発展させ、碁盤割りの管理の技術を用いて各個人の位置を決定する。
    これにより逃亡や勝手な移動、反抗につながるような集団的な結合を防
    止できる。この碁盤割りの管理は修道院の独房の性格がある。しかし実
    際の修道院では壁が独房を仕切っているのに対して、碁盤割りの管理で
    はその仕切りは理念的なものとなっていくのである。さらには機能的な
    位置決定の技術がある。ロッシュフォール軍港の海軍病院では伝染病の
    流入を警戒する必要もあって、病人の人数、病人の識別、病人の氏名の
    確認、その出入りなどが帳簿を使って管理されるようになった。十八世
    紀末にはこうした空間配分の技術は工場において使われるようになった。
    これにより、労働者それぞれの技量や勤勉さを評価、記録、分析できる
    ようになった。さらに規律=訓練の施設では基本的要素の置き換えが可
    能である。例えば学校では成績・品行によって個人の順位を序列化し、
    学級を編成して教育をする。この序列はその時々で置き換えが可能であ
    る。伝統的な教育方法では一人の教師が一人の生徒を教えるとき、他の
    生徒は遊んでいた。しかし、こうした系列本位の空間編成により、教師
    がそれぞれの生徒を管理し、一斉に勉強させられるようになったのであ
    る。こうした配分の技術は規律=訓練の基礎となっている。
    2活動の取り締まり
     これは時間の管理の技術である。学校や工場で分単位の細かい時間割
    がつくられるようになる。時間厳守は鉄則となり、有益に時間を使うた
    め、おしゃべりや冗談は禁止される。軍隊で例をあげると、それまで太
    鼓の調子にあわせて歩けばよかった行進が、四種類に分けられる。小股
    歩き・並足・早足・途足と分けられて、それぞれ秒単位、センチメート
    ル単位で、速さや歩幅が規定される。また学校では例えば上手に字を書
    くための書き取りの身振りが厳密に規定される。こうした身体と身振り
    の相関化により、時間の正しい使用が可能になるというわけである。身
    体とそれが扱う道具との関係も規律=訓練によって厳密に規定される。
    兵士による銃の扱いがその例となる。このように時間を細分化して活用
    し、人々に速やかな行動をさせるのである。
    3段階的形成の編成
     これは各個人に段階的な教育をほどこすということである。つまり姿
    勢、行進、銃の扱いといった具合におこなわれる兵士への段階的な教育
    や、カリキュラムの編成による学校での教育のことである。十八世紀の
    二つの発見、すなわち社会が進歩発達するということと、個人が段階的
    に形成され
    るということは、規律=訓練の技術と結びついているのである。
    4さまざまな力の組立
     ここではマルクスの結合労働日についての文章が引用されている。労
    働者が個々別々に働くよりも、結合して働くほうが生産力は大きくなる
    のである。軍隊でいえば、歩兵連隊の戦闘力は各歩兵個人の戦闘力の単
    純な総和よりも大きい。つまり新しい機械や兵器の発明・発達により、
    個々の力を組み合わせることで、全体の力が大きくなるという現象の重
    要性が増したのである。その結合した力をうまく発揮させるには正確な
    命令組織が必要となる。この命令組織によって、個々の身体を部品とし
    て、空間的・時間的に組み合わせるのである。

     このように規律=訓練が従順な身体を作り上げる諸技術について説明
    した後、フーコーは興味深い指摘をしている。クラウゼヴィッツは『戦
    争論』のなかで、「戦争とは異なる手段による政治の延長である」とい
    った。たしかに戦略としての戦争はそうかもしれない。しかしフランス
    の軍人・戦術家であるギベール(1743-90)は「規律・訓練を国民的なもの
    にする必要があるにちがいない」といったのだった。つまり逆に、政治
    が戦争の延長として理解されることもあったとフーコーは指摘している
    のである。これは要するに国家が内乱を防止し、秩序を維持するために、
    軍隊における身体の調教という戦術を用いるということである。ナポレ
    オン体制以降、現代にまで続く政治形態を準備したのは法学者たちだけ
    ではなく、軍人をはじめとする規律=訓練の技術者たちでもあったので
    ある。

     しかし単に従順な身体をつくりあげるだけが規律=訓練の技術ではな
    い。社会において、その意図に応じて自発的に行動する個人を作り上げ
    ることが重要である。その調教は身体から精神へと効果を及ぼす必要が
    ある。そのために、次の技術が使われる。すなわち、1階層秩序的な監
    視、2規格化を行う制裁、その両者の組み合わせである3試験である。

    1階層秩序的な監視
     規律=訓練には、視線の作用によって強制を加えるという仕組みが前
    提としてある。こうした監視を行うためには適切な施設が必要とされる
    だろう。そのモデルとして適当なものがあった。それは軍隊における野
    営地である。野営地では通路やテントを幾何学的に適切に配置すること
    で、階層秩序的な監視網を形成する。兵士を下士官が、下士官を小隊長
    が、小隊長を中隊長が監視するといった具合にである。こうした監視は、
    例えば伝染病を警戒する必要のある病院でも、患者を隔離し観察すると
    いうように行われるようになる。また工場でも監視は行われる。理念的
    な完璧な監視装置としては円形の建物が考えられた。中心からのただ一
    つの監視で済むから効率がいいというわけである。しかし実際には大工
    場などではピラミッド型の監視のほうがより効率的であるとして用いら
    れた。もちろん学校でも監視は重要である。建物としての学校ではガラ
    スの仕切りが用いられる。初等教育では、教師が優秀な児童の中から
    「かかり」を選んで他の児童を監視させるといったことが行われるよう
    になるのである。

    2規格化を行う制裁
     規律=訓練的な組織においては、法律による通常の刑罰制度が適用さ
    れない些細な罪に対しても独自の刑罰制度が機能する。例えば遅刻や欠
    席、怠慢、反抗、不作法、不潔、下品といったものに対して、軽い体罰
    や没収、加辱といった処罰が行われる。しかし処罰の対象はこれだけで
    はない。規則に反すること、逸脱すること、水準に達しないことも処罰
    の対象である。児童が課題をなしとげる力がないことは罪とされる。銃
    の取り扱いを正確に学んでいない兵士は処罰を受けるのである。そして
    その罰は、逸脱をなくすという機能をもつために矯正的・義務的であり、
    繰り返し行われる。例えば課題をなしとげられない児童には、なしとげ
    られるまで宿題という罰が課せられるのである。また処罰は、褒賞と一
    体となっている。教師が怠惰な者に罰を与えるよりも、勤勉な者に褒賞
    を与えるほうが児童・生徒をより勤勉にさせる場合もある。そしてこの
    処罰と褒賞という二つの要素を組み合わせることで、個人の行為や成績
    を相互に比較し階層序列的に評価できる。そのうちこの序列自体が、階
    級や席次といった形で、褒賞や処罰と等しくなるだろう。このように賞
    罰を含む制裁(サンクション)を用いることで、個人を標準化、規格化
    するのである。
    3試験
     試験は階層秩序的な監視と規格化を行う制裁を組み合わせたものであ
    る。試験は病院では診察や検査という形をとって行われる。近代的な医
    学はこうした病院で成立したのである。また学校は「中断のない一種の
    試験装置」となる。教育学はこのような学校ができてはじめて成立した
    のだった。試験には次のような特徴がある。
     まず試験は視線を、見るものと見られるものとを転倒させる。伝統的
    な権力とは、見られるもの、自分の力を誇示するものであった。例えば
    君主は戴冠式や戦争からの凱旋パレードといった儀式において見られる
    客体である。ところが試験を行う規律=訓練の権力においては、逆に権
    力は自分を不可視にする。そして繰り返しおこなわれる試験において見
    られる客体となるのは受験生である。たえず見られることで個人は服従
    を強制されるのである。
     また試験は個人性を記録文書の対象とする。様々な試験の結果・成績
    は集められ、分類され整理される。こうした記録の集成により、個人は
    それぞれ一つの《事例》となる。この《事例》とは記述し評価される、
    他の個人と比較されうる個人である。また訓育され、分類され、規格化
    され、排除される個人でもある。しかしこれは試験によって個性のない、
    画一的な個人が作られるということを必ずしも意味しない。むしろ試験
    によって、それぞれの個人の適性や能力を分析し、それを社会にとって
    有益な形で伸ばすこともできるのである。

     フーコーはこのように規律=訓練の権力の分析を進め、最後にその原
    理を建築として表現したパノプティコン(一望監視施設)について言及
    する。これはイギリスの法学者・哲学者で功利主義の主唱者として知ら
    れるベンサムが構想した施設である。これは監獄だけでなく工場や学校
    にも応用可能である。その原理は次のようなものである。すなわち周囲
    に円環状の建物を配置して、中心には塔を設置する。周囲の建物は独房
    になるよう区切られる。それぞれの独房には、中心の塔の側に窓が一つ
    と、外側に明かりを取り入れるための窓が一つある。そして独房に囚人
    を、中心の塔に監視人を一人置くのである。重要なのは塔からは独房の
    囚人の様子がよく見えるが、独房からは塔の監視人の様子がまったく見
    えないことである。この施設はどのような効果をもたらすのか。
     囚人は常に見張られている。そういう意識を植え付けられる。一方、
    監視人は誰でもよいということになる。施設の責任者がいなければ、そ
    の家族でも、友人でも、訪問者でもよいのである。そしてこの装置は権
    力を自動化する。つまり囚人は見張られているという可能性から、自分
    で自分を監視するようになる。そうなればもはや監視人は不要である。
     こうしたパノプティコンの原理は一般化が可能なモデルである。それ
    は次のような事態をもたらす。第一に規律=訓練の機能の逆転である。
    もともと規律=訓練は危険の除去や、怠惰の防止といった消極的なこと
    が目標であった。しかし今では、軍隊の戦闘力を強め、労働の生産力を
    増し、訓育としての教育技術を高める、積極的な目標に向けて規律=訓
    練は機能する。第二に規律=訓練の諸機構の分散移転である。学校では
    生徒を監視するだけでなく、たとえば家庭訪問といった形で生徒の家族
    まで指導する。病院は単に治療するだけでなく、伝染病を警戒するなど、
    住民を医療的に監視する。第三に規律=訓練の諸機構の国家管理である。
    治安警察(ポリス)は規律=訓練の権力と一体となって発達し、国家を
    隅々まで監視するようになるのである。古代は多数者に少数の対象を見
    せる見世物の社会であったが、近代は少数者が多数者を見る「監視社会」
    である。ナポレオンが歴史的にみて興味深い人物であるのは、彼がこう
    した変化の接合点に位置しているからである。彼は見世物中心の権力の
    古い面をとどめつつも、帝国全体を治安警察などを通じて細部まで監視
    したのであった。
     さらにフーコーは規律=訓練的な社会の形成を、経済的、法律=政治
    的、学問的な歴史過程と結びつけて考察している。経済的な面では、規
    律=訓練的な社会は、資本主義経済の発展にともない、その要請をうけ
    て形成されてきたといえる。しかし軍隊で発達した規律=訓練的な技術
    が産業組織へと移し替えられた面もある。これは史的唯物論の問題、下
    部構造と上部構造の関係をどう見るかということであろうが、フーコー
    はどちらが先というのではなく両義的な見方をしている。続いて法律=
    政治的な面である。啓蒙の時代である近代は自由、平等といった理念か
    らその法律をつくった。しかし啓蒙思想は自由と同時に規律=訓練をも
    発見したのである。そして政治的には規律=訓練はいわば「下部の法律」
    として、現実に身体を統治し管理する原理となった。だが規律=訓練は、
    その拘束関係が自由や平等といった理念とは相容れないように、実際に
    は「反=法律」なのだと考える必要があると、フーコーは指摘している。
    最後に学問的な過程では、規律=訓練のそれぞれの方式の知識は組み立
    てられ一般化されたという。単に病院・学校・工場が規律=訓練によっ
    て秩序化されたというだけではない。臨床医学・精神医学・児童心理学・
    心理的教育学・労働合理化といった学問が形成され発展することになっ
    たのである。
     かつての古典主義時代における身体刑の最も極端な形は、国王殺害者
    の身体を切り刻むことであった。近現代の刑罰制度の理想とは無限の規
    律=訓練、つまり、終わりなき尋問、終わりなき試験、終わりなき規格
    化である。こうして誰もが引用せずにはいられない有名な一節が述べら
    れることになる。「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうし
    たすべてが監獄に似かよっても何にも不思議ではないのである」。

     議論を元に戻すことにしよう。つまり他の処罰の形式ではなく、なぜ
    監獄が今日の処罰の形式の圧倒的領域を占めることになったのか、とい
    う問いにである。一つの答えは、今まで見てきたように、すでに規律=
    訓練の技術が監獄以外の場所、つまり病院・兵営・学校・工場で発達し
    ていたからというものである。もう一つの答えとしては、発達する資本
    主義社会が必要とする労働力を監獄が供給できるから、というものであ
    ろう。さらに監獄には罰金などにはない利点がある。つまり自由の剥奪
    という形で誰にでも平等な刑罰である点である。また刑期を変えること
    で重い罪から軽い罪にまで対応できる刑罰なのだ。
     しかし監獄はその成立の当初から繰り返される批判にさらされている。
    つまり、監獄は犯罪者に教育を与え更正させる施設であるはずなのに、
    実際には監獄から出所しても再び犯罪をするものが多いということであ
    る。というよりむしろ、監獄は犯罪者を再生産する装置であるとすらい
    えるのではないか。こうした事情を変えようと、監獄を改革する案は百
    五十年前から幾度も出されている。しかし監獄は変わらない。結局、監
    獄は失敗なのではないか。
     そうではないとフーコーはいう。つまり監獄の目的は犯罪・法律違反
    を完全になくすといったものではないのである。実は監獄による刑罰制
    度とは、自由な行動と違法行為との境界を示し、ある人々は閉じこめ、
    排除しつつ、他の人々は役立たせ、そこから利益を得る、そういう方法
    なのである。このほうが違法行為を完全に取り締まるよりずっと巧妙で、
    経済的なやり方なのだ。ここで重要になるのが非行性、非行者(=不良)
    という考え方である。裁判所は犯罪者を法律違反者として監獄へと送る。
    しかし監獄は受け取った囚人を単なる法律違反者として扱うのではない
    のだ。彼らを生活態度の悪いもの、邪悪な性質・本能を持つもの、倫理
    観に欠けたもの、つまり非行者として扱うのである。だから囚人が監獄
    から出ても矯正されない場合が多いのは不思議ではない。監獄は効率よ
    く社会を統治するためにむしろ非行性を生み出す装置なのである。
     こうした事情を具体的に説明するため、フーコーは三人の人物を登場
    させる。一人目のヴィドックは詐欺や喧嘩、賭博といった法律違反をし
    た犯罪者であり、また非行者である。しかし後に彼は警察の治安関係の
    班長となる。つまり警察に飼い慣らされた「いぬ」「密告者」となった
    のである。このように非行者の中に警察が協力者をつくることで、その
    取り締まりは容易になる。また犯罪者の多くが前科者であれば、犯人の
    資料がそろっているのだから逮捕するのは簡単である。
     第二の人物は「殺人詩人」ラスネールである。マルセル・カルネ監督
    の映画『天井桟敷の人々』にも登場するこの人物は、典型的な非行者と
    いえる。彼は殺人者として一見、社会にとって危険な人物にみえる。し
    かしそれほどでもないのである。1800年生まれの彼が、もう一世代早く
    生まれていたとしたら、社会にとって真に危険な人物、つまりロベスピ
    エールのような革命家となっていたかもしれない。しかし、実際のラス
    ネールはこせこせした犯罪を下手にやることしかできない、社会にとっ
    て「心配無用」の人物なのである。彼が特権階級にもてはやされたのは
    こうした理由からであり、さらに文学の世界に移されてより無害な人物
    となるのである。
     第三の人物は前の二人ほど有名人ではない。フーリエ主義者の新聞、
    『ラ・ファランジュ』紙がとりあげたこの人物、ベアスは、放浪罪とい
    うとるにたらない罪で、非行者とされることになった十三歳の少年であ
    る。その裁判における彼と裁判長のやりとりは大変興味深い。それは以
    下のやりとりである。

    裁判長 人間は自分の家で眠らなければならないのです。
    ベアス 自分の家なんかない。
    裁判長 あいも変わらずいつまでも放浪生活をするのかね。
    ベアス 生活を立てるため働いてるんだよ。
    裁判長 きみの職業は?
    ベアス 仕事ですかい、少なく見ても三十と六つぐらいしこたまありま
    さ、それに人様のとこで働いてる。しばらく前から出来高払いでのんび
    りやってるんだ。昼も夜も仕事をかかえてな。昼間だと通行人に無料の
    刷り物をくばったり、乗合馬車がくるあとを走って小包をはこんでやっ
    たり、ヌイイ通りでトンボ返りをして見せたり、夜には芝居の仕事があ
    って、劇場の出入口をあけに行ったり、外出券(劇場を一時外出すると
    きの)を売ったり、なかなか忙しい。
    裁判長 ちゃんとした店に勤めて徒弟奉公したほうが身のためになるん
    だぞ。
    ベアス とんでもない、ちゃんとした店やら徒弟奉公なんか、うんざり
    だ。それにまた、お金持てえのはいつもどなりちらすし、おまけに自由
    がない。
    裁判長 父親はきみを呼びもどさないのかね。
    ベアス 親父はもういないわな。
    裁判長 では母親は?
    ベアス もういない、親類も友達もありはせん、自由で一本立ちなんで。
    二年間の懲治矯正の宣告を聞くとベアスは「ひどいしかめ面をし、や
    がて上機嫌にもどって《二年といえばたったの二十四カ月。さあ出発》
    というしまつ」。*1

     このやりとりで裁判長は、違法行為を裁くというより、ベアス少年を
    非行者としてみているのであり、教育者としての顔がのぞいている。一
    方ベアス少年は、ぞんざいな口調で、非行者とされることが実は生き生
    きとした自由なのだと主張している。ベアス少年の主張は、基本的人権
    として尊重されるべきものではないだろうか。

     『監視することと処罰すること』は最後に、監獄の中にいる人々の声
    に「戦いのとどろきを聞かねばならない」とし、そこにつけられた注に
    よれば「中断」されている。もっとも再び書き続けられることはなく、
    1984年、フーコーは死んだ。


      第三章 どのように抵抗できるのか

     フーコーによって批判的に描き出された近代そして現代の社会、つま
    り規律=訓練が社会を隅々まで覆い尽くし、自分で自分を監視するよう
    仕立て上げられるこういった社会でいったいわれわれはどうすればよい
    のだろうか。われわれにこの管理社会や規格化から逃れ、自由を確保す
    るような方策はあるのだろうか。この『監視することと処罰すること』
    を読み終えるとそういった疑問がわいてくる。
     しかしその疑問よりも前に、考えておくべきことがある。つまりフー
    コーの主張は正しいのか。これは歴史的な研究であるが、史料の取り扱
    いは客観的になされているのか。フーコーの描く歴史に間違いはないの
    か、そういう疑問である。
     フーコーをその著書で激烈に批判している思想家で外交官でもあった
    J・G・メルキオールは、『監視することと処罰すること』の欠点をいく
    つも挙げている。例えば、フランスにおける刑罰の歴史を述べるに際し、
    どうみても重要な位置を占めると思われる大事件、ギロチンが猛威を振
    るったフランス大革命についてフーコーはほとんど何も説明していない。
    また、啓蒙主義の暗黒面ばかりを強調し、規律=訓練に反対する動きに
    ついて故意に無視している。さらにフーコーの議論は先に結論があり、
    それに向けて史料を恣意的に利用しているのではないか、といった具合
    である。メルキオールだけでなく、歴史家たちからもこうした反論が寄
    せられている。
     こうした批判を厳密に検証する力はわたしにはない。しかしかなり当
    たっているとわたしには思える。ではフーコーの主張は単なる間違いで
    あり、「陰謀の理論」として葬りさるべきなのだろうか。フーコー自身
    はこうした批判にどう反論しているのだろうか。
     フーコーはあるインタビューで次のように発言している。これはフー
    コーの次の著作である『性の歴史?・知への意志』についてのインタビ
    ューであるが『監視することと処罰すること』にも当てはまると思われ
    る。

    わたしはこれまでに虚構以外のものはいっさい書いたことはありませ
    。はっきりそう自覚しております。が、だからといってそれが真理の外
    にある、というつもりはない。虚構を真理のなかで働かせ、虚構の言説
    をもって真理の効果をもたらす可能性はある、と思っています。*2

     つまりフーコーは自分の著作が通常の歴史家の著作ではないこと、す
    なわち史料を客観的に取り扱い歴史上の事実を明らかにする、といった
    ものではないことを充分にわかっていた。いわば確信犯的に、他の歴史
    家たちから批判されることは覚悟の上で、虚構=フィクションを多分に
    含んだ歴史を書いたのである。しかしそれが「真理の効果をもたらす可
    能性はある」とはどういうことなのか。フーコーの狙いは何なのだろう
    か。
     別のインタビューでフーコーは自分の著作の狙いについて次のように
    語っている。

    わたしの計画とはまさしく、彼らが「もはや何をしたらよいかわから
    ない」ようにすることであり、それまで彼らに当り前のことのようにみ
    えていた行為、身ぶり、議論が、問題をはらんだ、危険で困難なものと
    なるように仕向けることにあるのです。*3

     ここでの「彼ら」とは「たとえば監獄の制度的枠組みにのっかって仕
    事をしている人たち」のことであるが、教師なども含まれるといえるだ
    ろう。要するにフーコーの狙いは、たとえば狂気、正常、病気、犯罪、
    処罰といったことに関する、これまで常識とされていた考えをいくらか
    でも覆すことにあった。規格化に抵抗するよう呼びかけ、そうすること
    でわれわれの生きる社会を少しでも変えていこうとする政治的な狙いが
    あったのである。
     フーコーの狙いをこのように理解して、それを真剣にうけとめるとす
    るならば、議論ははじめに戻ってくる。われわれは規格化に反対するた
    めに何をすればよいのかという問いである。しかし『監視することと処
    罰すること』にはその答えらしきものはほとんどない。この本は代案な
    き現状批判といえるだろう。では他の著作なども含めて、フーコーは現
    代の管理社会に変わる、どのような社会を目指すべきだというのだろう
    か。
     この問題を考えるのに興味深いのは1971年、オランダのテレビで行わ
    れた、フーコーとアメリカの言語学者チョムスキーとの討論である。こ
    の討論でチョムスキーは理想の社会モデルとして、「連邦制で、地方分
    権の自由連合のシステム」を主張した。これに対してフーコーはそうし
    た理想の社会モデルを描くことをいっさい拒否したのである。そしてフ
    ーコーのこの考えは死ぬまで変わらなかったようである。
     フーコーがあくまで理想の社会モデル、われわれが目指すべきユート
    ピアといったものを描かなかったことは、彼の「知識人」に対する考え
    方と関連している。それは次のようなものである。
     フーコーは知識人を二種類に分ける。一つは普遍的知識人、なんでも
    知っている知識人である。ヴォルテールがその古典的なモデルであり、
    フーコーの同時代人でいえばサルトルがその代表である。彼らは真理と
    正義の名においてどんな問題にでも口を出す。大衆の代表であり、理想
    の社会モデルを描く知識人である。ところでフーコーはこうした知識人
    のあり方を批判している。たとえば彼らはどのような根拠をもって、真
    理と正義が自分たちの側にあると主張するのだろうか。また彼らは理想
    の社会モデルを描きそれをめざす、要するに多くの場合、マルクス主義
    によって疎外のない社会をめざすということであるが、その過程におい
    て例えば党とその知識人が無知な大衆を指導するといった形で抑圧や規
    格化があり、結果として人々の自由を奪っているのではないか。フーコ
    ーはそういう批判をしている。
     ではフーコーはどういう知識人のあり方を目指すのか。それは特定領
    域の知識人、特殊な知識人である。これには精神科医、医者、弁護士、
    判事、教師、作家、技師、技術者などが含まれる。フーコー自身も自分
    は特定領域の知識人であると言っている。彼らは真理や正義の名におい
    て行動するのではない。自分の専門である限定された分野で、具体的、
    直接的な形で管理社会や規格化する権力に対し抵抗・闘争するのである。
    例えば多国籍企業や司法・警察機構などを相手にしてである。そしてか
    つての普遍的知識人においては、サルトルが作家であったようにものを
    書くということが重要な活動であったが、もはやそうではなくなる。代
    わりに特定領域の知識人たちは互いに違う分野の知識人たちと相互に結
    びつきネットワークを作っていく。そうすることで社会を変えていくこ
    とができるというのである。
     フーコー自身のこうした特定領域の知識人としての活動で、代表的な
    のがGIP(監獄情報集団)の設立、運営である。1971年にできたこの
    集団は監獄に入れられている拘禁者に自分のことを、監獄での待遇など
    を含めて話してもらうことを目的にしていた。フーコーはあくまで一人
    のメンバーという立場で、七十年代前半この運動に熱心に取り組んでい
    たという。このことは『監視することと処罰すること』が書かれた背景
    にもなっている。
     このようにフーコーは「特定領域の知識人」という考え方で、規律=
    訓練や、規格化する権力に抵抗する方法をある程度示している。しかし
    具体的な抵抗や闘争の方法は、それぞれの特殊な知識人が自分たちで考
    えていかねばならない。またその抵抗や闘争が最終的に何を目指すかに
    ついては今まで述べたようにほとんど何もいっていない。というより目
    指すべき理想などなく、抵抗や闘争をひたすら繰り返す他はないとフー
    コーはいっているのである。また抵抗や闘争をする根拠そのものも示し
    てはいない。つまりなぜ規律=訓練や規格化に抵抗しなければならない
    のかという理由は示されていないのだ。もっとも抵抗してはいけない理
    由もないのだが。また知識人ではない人々はどうすればいいのだろうか。
    フーコーは知が権力とは切り離せないものであると言っているが、知識
    人でなければ勝ち目のある抵抗などできはしないということなのだろう
    か。残された課題はあまりに多く、わたしは途方に暮れてしまうのであ
    る。

     途方に暮れてしまったという学生に対し、フーコーは次のように答え
    ている。フーコーを講演に招待した、アメリカの歴史学者シミアン・ウ
    ェイドの回想である。

     若者のひとりが、自分はすっかり途方に暮れていると哀しげに言った。
    「〈若いときは、途方に暮れたほうがいい〉」とウェイドの回想によれ
    ばフーコーは答えた。
    「〈途方に暮れないとすれば、さほど本気でやろうとしていないという
    ことなのだ。それは良い兆候だよ。ぼくも若いころは、途方に暮れてい
    た〉」。
    「〈自分の人生を賭けるようなことを思い切ってやってみるべきでしょ
    うか〉」とその学生は熱心に尋ねた。
    「〈是が非でも!危険を冒したまえ。危ない橋を渡ることだ!〉」。
    「〈でもぼくは解決策が欲しいのです〉」。
    「〈解決策などない〉」とフランスの哲学者はきっぱりと言いきった。
    「〈それじゃ、少なくとも答をいくつか〉」。
    「〈答などない!〉」とフーコーは語気を強めて言った。*4

    また『監視することと処罰すること』の拾い読みした箇所に衝撃を受
    け、大胆にもフーコー本人に「芸術家は無力なのか」といった質問をぶ
    つけたアメリカの芸術家志望の学生に対し、フーコーは次のように言っ
    ている。

    自由は見つけられる。しかしつねに、ある文脈においてだが。不断の
    闘いの原動力を作動させるのは権力だ。それから逃れることはできない。
    しかしそのゲームは君自身が行うものだと知ることに自由が存在する。
    権威におもねってはいけない。真理は君自身の内にある。怖がってはい
    けない。自分を信じなさい。生きるのを恐れてはならない。そして、死
    ぬのを恐れてはならない。勇気をもちたまえ。やらなければと君が感じ
    ることをやりたまえ。望み、創造し、超越しなさい。君はゲームに勝て
    るだろう。*5

     哲学的な問いとは簡単に答えがでるようなものではない。というより
    答えなどないのかもしれない。しかしフーコーは一生をかけてそうした
    問いと苦闘したのだった。わたしも今は途方に暮れているとしても、フ
    ーコーによればそれは本気になって哲学的な問いと向き合い、自分の人
    生を生きるために必要な準備なのである。



    *1ミシェル・フーコー『監獄の誕生―監視と処罰―』田村俶訳、新潮社、
    1977年、p.287
    *2桑田禮影、福井憲彦、山本哲士編『新装版 ミシェル・フーコー 
    1926-1984』新評論、1997年、p.177
    *3 上掲書、p.159
    *4 ジェイムズ・ミラー『ミシェル・フーコー/情熱と受苦』田村俶、
    雲和子、西山けい子、浅井千晶訳、筑摩書房、1998年、p.297
    *5 上掲書、p.372−373

    ★★★ここまで★★★

     です。

     呟き尾形さんはこの文章を読んで、『他者や哲学者を評価する文章』
    と一言で切って捨て、僕が僕自身の哲学を語っていないとでもいうの
    ですか?もしそうであれば、呟き尾形さんは僕と同じ惑星の住人では
    ないのでしょう(この表現、以前も使いましたがフーコーの引用です)。

     また

    >  みなてつは、哲学を楽しむ場であり、草野球のようないわば、
    >草哲学の場です。
    > つまり、野球が上手な人も下手な人も野球が好きな人があつまり、
    >野球を楽しむ、野球を通してコミュニケーションととるということの
    >ように、哲学に詳しい人も、詳しくない人も哲学が好きな人が集まり
    >哲学を楽しむ、哲学を通してコミュニケーションをとるということで
    >すので、その点ご理解ください。

     ですから、呟き尾形さんには単なる『悪ふざけ』にしかみえない僕の
    文章も、僕なりに哲学を楽しんだ結果として書かれた文章です。単なる
    冗談のなかに古典からの引用が含まれていたりするのです。呟き尾形さん
    は自らもお認めのように知的能力が低い上にほとんど何も古典(クラシ
    ック)といえる書物を読んでいないから理解ができないだけです。
     またアレクサンドル・フロリアン・ジョゼフ・プリンス・コロンナ=
    ヴァレフスキ2世殿下ですが、この名前、実在の人物から採られています。
    このことをご存知でしたか?『ソフィア』嬢ほどすぐにわかる名前では
    ありませんが、ネット検索で調べられますよ。
     はっきり申し上げれば、呟き尾形さん、あなたは無知なくせにいい気に
    なりすぎです。哲学のメーリングリストをやっているのであれば、もっと
    謙虚に他者から学んでください。議論に負けないためだけに、訳のわから
    ない詭弁をくりかえし、他者に対抗するつもりはない、といいながら、
    他者への攻撃を繰り返す呟き尾形さんにエスティさん以外の多くのメン
    バーが呆れていると僕は思いますよ。
     呟き尾形さんに、いきなりフーコーを読めといっても無理でしょうし、
    興味が無いのでしょうから、せめてヘーゲルの『哲学入門』くらいは読ん
    で下さい。僕は大学のゼミで読みました。ヘーゲルは呟き尾形さんの尊敬
    する哲学者の一人だそうですし(著作があるのにそのうちの一冊すら読んだ
    ことのない哲学者を『尊敬』できる神経が僕には理解できませんが)、その
    大哲学者ヘーゲルが書いた哲学のわかりやすい入門書であり、当然難解な
    「ヘーゲル哲学」の入門書にもなっている素晴らしい本の一つです(こう
    書いておけば呟き尾形さんは意地でもこの本を読まないわけで、死ぬまで
    『哲学の強化』とやらの有力な手段の一つを失うわけです。)
     また呟き尾形さんは、『草哲学』と『草野球』という言葉で、哲学と
    野球を対比させました。『草野球』を楽しむためには『野球』が好きなだ
    けでなくその基本的なルールを知っていなければなりません。そして野球
    についてさらによく知っていればいるほどより草野球も楽しめるのでは
    ありませんか?哲学についても同様でしょう。『草哲学』を楽しむために
    はただ哲学が好きというだけでなく、哲学の基本を知らなければならず
    (そもそも哲学について何も知らなければ哲学が「好き」なはずがない)、
    そして、おそらくは『ソフィーの世界』ぐらいを読めば哲学の基本はおさ
    えたと呟き尾形さんは考えているのでしょうが[もちろん僕も大学のゼミ
    で読みました。良い本ですし、そのとき書いたレジュメを今も持っています])、
    僕に言わせればせめて三冊ぐらいは一流の哲学者(つまり呟き尾形さんが
    尊敬しているとして名前をあげたような哲学者)の書いた古典(クラシック)
    を読んでいなければ話ならないし、草哲学すら楽しめないと僕は考えます。
     では呟き尾形さんには、いつものように、訳のわからない詭弁だらけの
    反論を期待しています。

     みなさまの平安をお祈りいたします。
     
     川上明馬 拝

    (今聴こえたアレクサンドル・フロリアン・ジョゼフ・プリンス・コロンナ=
    ヴァレフスキ2世殿下の『ねごと』は「メルシールー」でした。どういう意味
    だろう?)


    -----Original Message-----
    From: post-01061999-akibak=jcom.zaq.ne.jp@…
    [mailto:post-01061999-akibak=jcom.zaq.ne.jp@…] On Behalf Of 呟
    き尾形
    Sent: Friday, June 2, 2017 5:56 AM
    To: ept@…
    Subject: [ept:19956] アラシ行為の反省、了解しました。

    みんなで哲学を語ろう


    ------------------------------------------------

    こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    [ept:19955]Re: アラシはスルー中ですので、アラシ行為を反省していると宣言いた
    だければレスポンスします。
     へのレスです。

    > 呟き尾形さん、僕ももちろん、アレクサンドル・フロリアン・
    >ジョゼフ・プリンス・コロンナ=ヴァレフスキ2世殿下の、呟き
    >尾形大先生のいうところのアラシ行為は反省しています。
     了解しました。
     反省受け取りました。

    > その代わり、僕がきちんと反省した以上、呟き尾形さん
    >には内容あるレスポンスを求めます。
     どのレスポンスがほしいのか、引用していただけるとレスポンス
    できるかと思います。
     当面は、
     さて、
    http://www.freeml.com/ept/19950
    >呟き尾形さんに質問です。あなたが尊敬する哲学者として名前を
    >あげた哲学者の古典(クラシック)といえる著作(むろん日本語へ
    >の翻訳がなされたものでしょうが)をどれだけ読んでいますか?
     の回答です。
     別に読んでないですよ。

    >みなてつが学術的なメーリングリストでないことを理由にしたく
    >だらないレスポンスは許しません。
     とのことですが、どの話なのかわかりませんので、発言のログの
    URLか文章の引用などをして、どの話か明確に頂かないとなんと
    も判断できません。

     ともあれ、
    >僕の哲学における真理を追究する心持は本心です。
     とのことですが、別段みなてつもそのような目的はないし、
    私もそのような目的も欲求もありません。
     つまり、川上明馬さんとは違うものを哲学に求めていると
    いうことです。
     それゆえ、川上明馬さんの求めるものに付き合うつもりはあり
    ません。逆に、川上明馬さんのこれまでの言動から、私が哲学に
    求めるものを川上明馬さんがもとめているかというと、そういう
    ことはないと判断しています。
     実際、川上明馬さんはいつ、どこで川上明馬さんの哲学を語ら
    れていたでしょうか? 引用してみてください。おそらくは、
    他者や哲学者を評価する文章、および悪ふざけはたくさんありま
    すが、それ以外は少なすぎて私には見つけられませんでした。悪
    ふざけが哲学である。
     というのであれば、それは一つの認識であり、否定はしません
    が、私は付き合うつもりはありません。
     他者や哲学者の評価も同様です。

     質問されれば、回答しますが、川上明馬さんが質問の仕方に
    工夫しながら、回答から創意工夫してそういう流れを作ろうと
    労力を割こうというのなら別ですが、これまでの意見交換から
    そいうことはないと判断しています。

     みなてつは、哲学を楽しむ場であり、草野球のようないわば、
    草哲学の場です。
     つまり、野球が上手な人も下手な人も野球が好きな人があつまり、
    野球を楽しむ、野球を通してコミュニケーションととるということの
    ように、哲学に詳しい人も、詳しくない人も哲学が好きな人が集まり
    哲学を楽しむ、哲学を通してコミュニケーションをとるということで
    すので、その点ご理解ください。


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  • MLNo.20008   呟き尾形さん  (15) 2017/06/20 07:08  [メール表示する]

    こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    [ept:19982]Re: アラシ行為の反省、了解しました。
    http://www.freeml.com/ept/19982
     へのレスです。


    ★★★ここから★★★

    ミシェル・フーコーの倫理思想
            『監視することと処罰すること』の読解と批評

              埼玉大学 教育学部 社会科学講座 倫理学研究室
                        21534 川上 明馬
    ★★★ここまで★★★
     それについては、
    http://www.freeml.com/ept/19302
     にて、
    ★★★ここから★★★
     感想だけ言えば、私は経済学者ではないから、面白み
    も感じませんでした。
     実際、スレッドの論点にふれてすらありませんから
    あまり関心ももてないし、関連もないのでそのくらいの
    感想しかありません。

    ★★★ここまで★★★
     と述べましたよ。

    > 呟き尾形さんはこの文章を読んで、『他者や哲学者を評価する文章』
    >と一言で切って捨て、僕が僕自身の哲学を語っていないとでもいうの
    >ですか?
     まぁ、川上明馬さん自身が、いろいろ一言で切って捨てる
    レスポンスが多いので、それに合わせています。
     実際、論文のタイトルは、ミシェル・フーコーの倫理思想
            『監視することと処罰すること』の読解と批評とあり、
    まさに、他者や哲学者を評価する文章です。
     フーコーの哲学の評価する文章ではないかと読解しました。
     仮に、他者や哲学者を評価ではないとして、どのような哲学を語られ
    たのでしょうか?
     ご自身の論文でしょうから、解説願います。
     
     そもそも、みなてつ宛に書いた文章ではないわけではありません。
    それも、過去に書いた論文で、それが哲学だというのであれば、
    川上明馬さんは、みずから、当時の哲学から何ら進まず、止まってい
    るということを示しているのではないかと思います。
     みなてつの話題に合わせて書き直すわけでもなく、何度も
    短くもない同じ論文を出されるのも手抜きに感じますし、
    哲学というものを感じません。
     哲学というものがあるのなら、同じ論文を何度もコピペ
    するのではなく、書き換えるか、ポイントで抜粋するぐらい
    のことが必要かと思います。

    > ですから、呟き尾形さんには単なる『悪ふざけ』にしかみえない僕の
    >文章も、僕なりに哲学を楽しんだ結果として書かれた文章です。
     草野球において、草野球に参加せず、プレーする選手をバカに
    するようなやじを哲学だと言い張られるのであれば、そのバカに
    するようなヤジが一般的なマナー違反であり、公序良俗に反する
    という話です。
     そういう哲学は一人でやっていただきたいし、他人を傷つける
    ような誹謗中傷になるような言動はやめてほしいというのが私か
    らのお願いです。

    > はっきり申し上げれば、呟き尾形さん、あなたは無知なく
    >せにいい気になりすぎです。
     と、いいますと、どこがどのようにいい気になっている
    のでしょうか?
     私の文章を引用し、いいきになっているところをご説明
    ください。できないのなら、単なる言いがかりかと思います。
     まぁ、そもそも、哲学は無知の知がスタートといわれて
    います。
     知ったかぶりの人ほど、無知なことを自覚している人に
    イライラし、知っていると思い込んでいることを説明を
    迫られ、説明できない事実があるだけかと思います。
     それがいい気になっていると勘違いされているだけかと
    思います。

    >議論に負けないためだけに、訳のわからない詭弁をくりかえ
    >し、他者に対抗するつもりはない、といいながら、他者への
    >攻撃を繰り返す呟き尾形さんにエスティさん以外の多くのメン
    >バーが呆れていると僕は思いますよ。
     私がいつどこで詭弁を述べたか、引用しどこがどのような
    詭弁であるかを述べたか説明してください。
     できないなら、単なる言いがかりです。
     ついでにいえば、議論以前の問題です。
     対抗もなにも、こちらは、質問を受け、回答し、誤解され
    ていることについて、誤解について説明させていただいてい
    るだけの話です。
     私が述べていることに対して、間違った解釈でご意見を
    述べていれば、別段、私が述べていないことなので、
    私としては的外れなことをいわれているので、議論以前の
    問題になるのです。
     カラスは黒ですという文章を、カラスが鳥ではないなん
    て言うんではないという指摘を受ければ、そんなこと述べ
    ていませんというのは、至極当然です。
     単純に、川上明馬さんがわたしの文章に書いていないこ
    とを妄想されて、その妄想を真としているから、私の発言
    が詭弁だと感じるだけかと思います。
     対抗ではないくて、述べていないことを述べたといわれ
    たので、違いますよと述べているだけの話です。

    >著作があるのにそのうちの一冊すら読んだことのない哲学者を
    >『尊敬』できる神経が僕には理解できませんが
     別に、尊敬するのに、著作物を読まなければいけない理由など
    ありません。
     著作物の中に哲学者は哲学を込めたでしょうが、著作物そのもの
    だけが哲学者の哲学というわけではありません。
     ヘーゲルであれば、どんな矛盾があろうとも、哲学の無限の可能
    への信念は尊敬しておりますが、それは、著作物を読むということに
    よるものとはまた別です。というだけの話です。

    > また呟き尾形さんは、『草哲学』と『草野球』という言葉で、
    >哲学と野球を対比させました。『草野球』を楽しむためには
    >『野球』が好きなだけでなくその基本的なルールを知っていな
    >ければなりません。そして野球についてさらによく知っていれ
    >ばいるほどより草野球も楽しめるのではありませんか?
     では、そもそも、哲学にどんなルールがあると川上明馬さんは
    思われているのですか?
     説明できないとすれば、川上明馬さんもそのルールをしらない
    ということになりますね。
     そして、川上明馬さんの定義する哲学のルールにおいて、
    私はどんなルール違反をしているのでしょう?
     そして、その川上明馬さん独自の哲学のルールはみなてつ独自の
    ルールと一致する理由をしっかり述べてください。
     これらができないなら、川上明馬さんは単純に、川上明馬さん
    はみなてつで適用されないルールを、川上明馬さん独自のルールに
    あてはまらないと一方的に指摘しているのにすぎません。

     哲学にルールがあるとするなら、それは、当たり前のことであっても
    問うことと、論理的に抽象化するということかとは思います。
     そんなこともしらないの? バカじゃない?
     と相手をバカにするのは、ある種ルール違反といえるでしょうし、
    知識の多さが哲学の深さと勘違いするのもまたルール違反と言える
    でしょう。
     また、論理の前提を無視した極端な具体例を持ち出して、抽象化さ
    れた論理に反論するのもまたルール違反でしょう。
     なぜなら、そこに、哲学に問うというルールがあり、あとは、
    問う対象によって、個別のルールが設けられるだけの話です。
     私は、川上明馬さんの発言に多くの相手をバカにするような言動を
    見ています。抽象化された論理に対して、前提を無視した極端な事例を
    捏造し反論することも見ています。
     そして、知識の多さが、哲学の深さと勘違いされている節もありま
    す。
     私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされています。
     そのルール違反をすると、相手の文章を正しく解釈することはで
    きなくなるのは必然です。
     
     

  • MLNo.20009   川上明馬さん  (1) 2017/06/21 03:16  [メール表示する]
    こんばんは、呟き尾形大先生、みなさま、川上明馬です。

     まず、大先生に質問ですが、僕が哲学のルール違反をしているとの
    ご指摘ですが、そもそも大先生の考える『哲学のルール』とは一体ど
    のようなものですか?その根拠も含めて、きちんとした、哲学的かつ
    論理的な説明をしてください。僕自身は、哲学とは自由な学問で、学
    術論文であるとか学会において発表するといった場合や、侮辱罪や名
    誉棄損罪当たる場合なら別ですが、それ以外なら何を発言しようが全
    くの自由であり、『哲学のルール』など簡単には定義できないと考えま
    すが?

     また、僕の『論文』についての、大先生の感想ですが、

    > 感想だけ言えば、私は経済学者ではないから、面白み
    >も感じませんでした。
    > 実際、スレッドの論点にふれてすらありませんから
    >あまり関心ももてないし、関連もないのでそのくらいの
    >感想しかありません。

     とのことですが、

     まず、『経済学者ではないから、面白みも感じませんでした』という
    部分がピント外れもいいところです。この文は事前に僕の論文が『副
    査である経済学の教授から評価された』という内容の記述に大先生が
    反応して書かれたものだと僕は想像(大先生の用語では『妄想』)しま
    すが、その経済学の教授は教育学部の経済学の教授です。僕の在籍した
    埼玉大学には経済学部もありますから、経済学を専門とする教授は大勢
    いるのですが、教育学部にいるのは、当時、その副査の先生だけでした。
    そして僕の在籍した、「社会科学講座」は僕が所属した倫理学のゼミだけ
    でなく、その教授の経済学のゼミ、さらの社会学と法学のゼミもありま
    した。そしてそれぞれのゼミの先生および学生に密接な交流がありました。
    (例えば二年次に学ぶいわゆる『入門ゼミ』では、20人に満たない学生に
    対して、先に挙げた4人の先生も全員が参加して議論します。このゼミに
    は単位として認められるわけでもないのに、教養学部の学生や早稲田大学
    の学生までいわゆる『モグリ』で参加していました[とても良い学びがで
    きるから、単位などとは関係なく参加する他学部や他大学の学生までいた
    ということです]。そして、そのゼミで学んだことを活かして、各々の学生
    は、自分の所属する研究室を決めるのです)、つまり、その経済学の教授は
    僕の論文を『経済学』の観点だけから評価したわけではないのです。その
    先生によれば、「自分も関心があってフーコーの著書を読んだことがあるが、
    フーコーが何を言いたいのがよくわからなかった。しかし、君の論文を読ん
    で、フーコーが何を言いたいのかわかったような気がする。これを読むと
    フーコーの難解な本を一冊読んだかのようだ。君の論文は良かった」との
    ことでした。これは経済学の観点からの評価ではないことは明らかです。
    呟き尾形さんは、そもそも僕の論文をちゃんと読んで理解できたのですか?
    正直に言って、大学で専門的に学んだ事がない人には、論理を追って読み
    通すことも、理解もできない内容だと僕は考えますが。ただ大先生は僕の
    論文を理解できないから、『関心がない』と言って逃げているだけではない
    のですか?もしそうでないのなら、きちんと読んだことが分かるような質問
    や感想を述べてください(大先生には無理だろうと僕は思いますが)。

     また大先生に質問ですが、なぜ大先生は単に「想像」と書けばよい
    と僕には思われるケースでも「妄想」という表現をなさるのでしょうか?
    これは自分と異なる考え方をする他者に対する侮辱であると僕は考え
    ますが、この点に関する大先生の見解をご披露願います。

     他にも書きたいことはあるのですが、こんなどうでもよいメーリング
    リストに関わっている時間はあまりないので、このくらいにしておきます。
    (馬鹿の相手をするのは疲れます。)

     みなさまの平安をお祈りいたします。

     川上明馬 拝

     (僕の本命さんが直接担当する商品なので、必死になって倉庫整理など
    の作業をしたら、本命さんは他の担当に異動らしいのです。なんか虚しい
    感じです。)
     
    -----Original Message-----
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    き尾形
    Sent: Tuesday, June 20, 2017 7:09 AM
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    Subject: [ept:20008] 私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされてい
    ます

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    こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    [ept:19982]Re: アラシ行為の反省、了解しました。
    http://www.freeml.com/ept/19982
     へのレスです。


    ★★★ここから★★★

    ミシェル・フーコーの倫理思想
            『監視することと処罰すること』の読解と批評

              埼玉大学 教育学部 社会科学講座 倫理学研究室
                        21534 川上 明馬
    ★★★ここまで★★★
     それについては、
    http://www.freeml.com/ept/19302
     にて、
    ★★★ここから★★★
     感想だけ言えば、私は経済学者ではないから、面白み
    も感じませんでした。
     実際、スレッドの論点にふれてすらありませんから
    あまり関心ももてないし、関連もないのでそのくらいの
    感想しかありません。

    ★★★ここまで★★★
     と述べましたよ。

    > 呟き尾形さんはこの文章を読んで、『他者や哲学者を評価する文章』
    >と一言で切って捨て、僕が僕自身の哲学を語っていないとでもいうの
    >ですか?
     まぁ、川上明馬さん自身が、いろいろ一言で切って捨てる
    レスポンスが多いので、それに合わせています。
     実際、論文のタイトルは、ミシェル・フーコーの倫理思想
            『監視することと処罰すること』の読解と批評とあり、
    まさに、他者や哲学者を評価する文章です。
     フーコーの哲学の評価する文章ではないかと読解しました。
     仮に、他者や哲学者を評価ではないとして、どのような哲学を語られ
    たのでしょうか?
     ご自身の論文でしょうから、解説願います。
     
     そもそも、みなてつ宛に書いた文章ではないわけではありません。
    それも、過去に書いた論文で、それが哲学だというのであれば、
    川上明馬さんは、みずから、当時の哲学から何ら進まず、止まってい
    るということを示しているのではないかと思います。
     みなてつの話題に合わせて書き直すわけでもなく、何度も
    短くもない同じ論文を出されるのも手抜きに感じますし、
    哲学というものを感じません。
     哲学というものがあるのなら、同じ論文を何度もコピペ
    するのではなく、書き換えるか、ポイントで抜粋するぐらい
    のことが必要かと思います。

    > ですから、呟き尾形さんには単なる『悪ふざけ』にしかみえない僕の
    >文章も、僕なりに哲学を楽しんだ結果として書かれた文章です。
     草野球において、草野球に参加せず、プレーする選手をバカに
    するようなやじを哲学だと言い張られるのであれば、そのバカに
    するようなヤジが一般的なマナー違反であり、公序良俗に反する
    という話です。
     そういう哲学は一人でやっていただきたいし、他人を傷つける
    ような誹謗中傷になるような言動はやめてほしいというのが私か
    らのお願いです。

    > はっきり申し上げれば、呟き尾形さん、あなたは無知なく
    >せにいい気になりすぎです。
     と、いいますと、どこがどのようにいい気になっている
    のでしょうか?
     私の文章を引用し、いいきになっているところをご説明
    ください。できないのなら、単なる言いがかりかと思います。
     まぁ、そもそも、哲学は無知の知がスタートといわれて
    います。
     知ったかぶりの人ほど、無知なことを自覚している人に
    イライラし、知っていると思い込んでいることを説明を
    迫られ、説明できない事実があるだけかと思います。
     それがいい気になっていると勘違いされているだけかと
    思います。

    >議論に負けないためだけに、訳のわからない詭弁をくりかえ
    >し、他者に対抗するつもりはない、といいながら、他者への
    >攻撃を繰り返す呟き尾形さんにエスティさん以外の多くのメン
    >バーが呆れていると僕は思いますよ。
     私がいつどこで詭弁を述べたか、引用しどこがどのような
    詭弁であるかを述べたか説明してください。
     できないなら、単なる言いがかりです。
     ついでにいえば、議論以前の問題です。
     対抗もなにも、こちらは、質問を受け、回答し、誤解され
    ていることについて、誤解について説明させていただいてい
    るだけの話です。
     私が述べていることに対して、間違った解釈でご意見を
    述べていれば、別段、私が述べていないことなので、
    私としては的外れなことをいわれているので、議論以前の
    問題になるのです。
     カラスは黒ですという文章を、カラスが鳥ではないなん
    て言うんではないという指摘を受ければ、そんなこと述べ
    ていませんというのは、至極当然です。
     単純に、川上明馬さんがわたしの文章に書いていないこ
    とを妄想されて、その妄想を真としているから、私の発言
    が詭弁だと感じるだけかと思います。
     対抗ではないくて、述べていないことを述べたといわれ
    たので、違いますよと述べているだけの話です。

    >著作があるのにそのうちの一冊すら読んだことのない哲学者を
    >『尊敬』できる神経が僕には理解できませんが
     別に、尊敬するのに、著作物を読まなければいけない理由など
    ありません。
     著作物の中に哲学者は哲学を込めたでしょうが、著作物そのもの
    だけが哲学者の哲学というわけではありません。
     ヘーゲルであれば、どんな矛盾があろうとも、哲学の無限の可能
    への信念は尊敬しておりますが、それは、著作物を読むということに
    よるものとはまた別です。というだけの話です。

    > また呟き尾形さんは、『草哲学』と『草野球』という言葉で、
    >哲学と野球を対比させました。『草野球』を楽しむためには
    >『野球』が好きなだけでなくその基本的なルールを知っていな
    >ければなりません。そして野球についてさらによく知っていれ
    >ばいるほどより草野球も楽しめるのではありませんか?
     では、そもそも、哲学にどんなルールがあると川上明馬さんは
    思われているのですか?
     説明できないとすれば、川上明馬さんもそのルールをしらない
    ということになりますね。
     そして、川上明馬さんの定義する哲学のルールにおいて、
    私はどんなルール違反をしているのでしょう?
     そして、その川上明馬さん独自の哲学のルールはみなてつ独自の
    ルールと一致する理由をしっかり述べてください。
     これらができないなら、川上明馬さんは単純に、川上明馬さん
    はみなてつで適用されないルールを、川上明馬さん独自のルールに
    あてはまらないと一方的に指摘しているのにすぎません。

     哲学にルールがあるとするなら、それは、当たり前のことであっても
    問うことと、論理的に抽象化するということかとは思います。
     そんなこともしらないの? バカじゃない?
     と相手をバカにするのは、ある種ルール違反といえるでしょうし、
    知識の多さが哲学の深さと勘違いするのもまたルール違反と言える
    でしょう。
     また、論理の前提を無視した極端な具体例を持ち出して、抽象化さ
    れた論理に反論するのもまたルール違反でしょう。
     なぜなら、そこに、哲学に問うというルールがあり、あとは、
    問う対象によって、個別のルールが設けられるだけの話です。
     私は、川上明馬さんの発言に多くの相手をバカにするような言動を
    見ています。抽象化された論理に対して、前提を無視した極端な事例を
    捏造し反論することも見ています。
     そして、知識の多さが、哲学の深さと勘違いされている節もありま
    す。
     私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされています。
     そのルール違反をすると、相手の文章を正しく解釈することはで
    きなくなるのは必然です。
     
     


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  • MLNo.20011   川上明馬さん  (1) 2017/06/22 02:10  [メール表示する]
    こんばんは、呟き尾形大先生、みなさま、川上明馬です。

    > ですから、呟き尾形さんには単なる『悪ふざけ』にしかみえない僕の
    >文章も、僕なりに哲学を楽しんだ結果として書かれた文章です。

     という、ぼくの文に対して、大先生は次のように述べています。

    > 草野球において、草野球に参加せず、プレーする選手をバカに
    >するようなやじを哲学だと言い張られるのであれば、そのバカに
    >するようなヤジが一般的なマナー違反であり、公序良俗に反する
    >という話です。
    > そういう哲学は一人でやっていただきたいし、他人を傷つける
    >ような誹謗中傷になるような言動はやめてほしいというのが私か
    >らのお願いです。 

     呟き尾形大先生は『公序良俗に反する』という言葉で、他者(つま
    り僕、川上明馬)の言動を非難しておられますが、例えばかつての大
    日本帝國の時代の日本で『公序良俗』の名の下に、政府に反対する
    言論がいかに弾圧され抹殺させられようとしたか、そういった歴史的
    事実を考慮したことがあるのでしょうか?例えば、『宮武外骨』という
    明治から昭和にかけて活動したジャーナリストを大先生はご存知でしょ
    うか?(もし知らなかったならそうだと正直に述べて、ネットで検索する
    なりして、彼の生涯について学んで下さい)。彼は自分の思想を『まず
    猥褻主義です』と述べ、一貫して権力の腐敗を糾弾し続けました。大先
    生には理解できないのかもしれませんが、もし今、彼のような人がいてく
    れたら、安部政権の暴走をどのように批判してくれるのか、と僕には思
    わせるまさに反骨精神を持った、ジャーリストの鏡となる人物です。お
    そらく大先生は彼のような人物には共感できないのでしょう。つまり、
    呟き尾形大先生は、たんに知的能力に欠けるだけでなく、ご自分の言動
    が現政権(つまり憲法改悪へと暴走する安部政権)を間接的に擁護する
    ものであることすら理解できない、まさに『バカ』としか僕には言いよ
    うがない人物なのです。

     また大先生は僕の、

    > はっきり申し上げれば、呟き尾形さん、あなたは無知なく
    >せにいい気になりすぎです。

     という発言に対し、

    > と、いいますと、どこがどのようにいい気になっている
    >のでしょうか?
    > 私の文章を引用し、いいきになっているところをご説明
    >ください。できないのなら、単なる言いがかりかと思います。
    > まぁ、そもそも、哲学は無知の知がスタートといわれて
    >います。
    > 知ったかぶりの人ほど、無知なことを自覚している人に
    >イライラし、知っていると思い込んでいることを説明を
    >迫られ、説明できない事実があるだけかと思います。
    > それがいい気になっていると勘違いされているだけかと
    >思います。

     と反論しておられます。では大先生がいかに『いい気に』なって
    いるか次の文章を引用します(繰り返しですが)。

    >>ところで、呟き尾形さんが尊敬する哲学者はおられますか?
    > いっぱいいますね。
    > ソクラテス、プラトン、アリストテレス、ディオゲネス、
    >エピクロス、オッカムのウィリアム、マキャベリ(一般的に
    >は哲学者であるという風にはいわれていませんが)、デカルト、
    >カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサールというところで
    >しょうか。

    >>呟き尾形さんに質問です。あなたが尊敬する哲学者として名前を
    >>あげた哲学者の古典(クラシック)といえる著作(むろん日本語へ
    >>の翻訳がなされたものでしょうが)をどれだけ読んでいますか?
    > の回答です。
    > 別に読んでないですよ。

     これがまさに『いい気になっている』証拠ですよ。呟き尾形大先生が
    日常生活で接する人物には、大先生より哲学に詳しい人物などまずいない
    でしょうから(大先生は、東北の田舎で介護職員をしているのだから当然
    の事でしょうが)、哲学者の名前を列挙し、しかもご丁寧にマキャベリは
    一般的には哲学者といわれていないなどと[大学で哲学を学んだ人間に
    とっては常識以前の事なのですが]注釈までつければ、大先生が身近に
    接する周囲の人物は大先生に一目置く結果となるのでしょう。しかし、大
    学で専門的な学問を学んだ僕からすれば、大先生は原典をほとんど読まず
    に、それらの哲学者を評価しているわけですから、まさに『無知なくせに
    いい気になっている』としか見えないのです。ところで呟き尾形大先生に
    質問ですが、大先生が『尊敬する』として取り上げた人物について、なぜ
    尊敬するのか、簡潔なもので構いませんから述べてください。また、マル
    クス、フーコー、レヴィナスといった人物が尊敬する人物に含まれていない
    事についても、それらの人物について知らないだけなのか、他に尊敬できな
    い理由があるのか、簡潔なもので構いませんから述べて下さい。

     それと、ついでではありますが、

    > また、論理の前提を無視した極端な具体例を持ち出して、抽象化さ
    >れた論理に反論するのもまたルール違反でしょう。

     この発言がいかに愚かか呟き尾形大先生には理解できないのでしょうか?

     (バカと議論するのは本当に疲れます。)

     みなさまの平安をお祈りいたします。

     川上明馬 拝

    -----Original Message-----
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    き尾形
    Sent: Tuesday, June 20, 2017 7:09 AM
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    Subject: [ept:20008] 私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされてい
    ます

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    こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    [ept:19982]Re: アラシ行為の反省、了解しました。
    http://www.freeml.com/ept/19982
     へのレスです。


    ★★★ここから★★★

    ミシェル・フーコーの倫理思想
            『監視することと処罰すること』の読解と批評

              埼玉大学 教育学部 社会科学講座 倫理学研究室
                        21534 川上 明馬
    ★★★ここまで★★★
     それについては、
    http://www.freeml.com/ept/19302
     にて、
    ★★★ここから★★★
     感想だけ言えば、私は経済学者ではないから、面白み
    も感じませんでした。
     実際、スレッドの論点にふれてすらありませんから
    あまり関心ももてないし、関連もないのでそのくらいの
    感想しかありません。

    ★★★ここまで★★★
     と述べましたよ。

    > 呟き尾形さんはこの文章を読んで、『他者や哲学者を評価する文章』
    >と一言で切って捨て、僕が僕自身の哲学を語っていないとでもいうの
    >ですか?
     まぁ、川上明馬さん自身が、いろいろ一言で切って捨てる
    レスポンスが多いので、それに合わせています。
     実際、論文のタイトルは、ミシェル・フーコーの倫理思想
            『監視することと処罰すること』の読解と批評とあり、
    まさに、他者や哲学者を評価する文章です。
     フーコーの哲学の評価する文章ではないかと読解しました。
     仮に、他者や哲学者を評価ではないとして、どのような哲学を語られ
    たのでしょうか?
     ご自身の論文でしょうから、解説願います。
     
     そもそも、みなてつ宛に書いた文章ではないわけではありません。
    それも、過去に書いた論文で、それが哲学だというのであれば、
    川上明馬さんは、みずから、当時の哲学から何ら進まず、止まってい
    るということを示しているのではないかと思います。
     みなてつの話題に合わせて書き直すわけでもなく、何度も
    短くもない同じ論文を出されるのも手抜きに感じますし、
    哲学というものを感じません。
     哲学というものがあるのなら、同じ論文を何度もコピペ
    するのではなく、書き換えるか、ポイントで抜粋するぐらい
    のことが必要かと思います。

    > ですから、呟き尾形さんには単なる『悪ふざけ』にしかみえない僕の
    >文章も、僕なりに哲学を楽しんだ結果として書かれた文章です。
     草野球において、草野球に参加せず、プレーする選手をバカに
    するようなやじを哲学だと言い張られるのであれば、そのバカに
    するようなヤジが一般的なマナー違反であり、公序良俗に反する
    という話です。
     そういう哲学は一人でやっていただきたいし、他人を傷つける
    ような誹謗中傷になるような言動はやめてほしいというのが私か
    らのお願いです。

    > はっきり申し上げれば、呟き尾形さん、あなたは無知なく
    >せにいい気になりすぎです。
     と、いいますと、どこがどのようにいい気になっている
    のでしょうか?
     私の文章を引用し、いいきになっているところをご説明
    ください。できないのなら、単なる言いがかりかと思います。
     まぁ、そもそも、哲学は無知の知がスタートといわれて
    います。
     知ったかぶりの人ほど、無知なことを自覚している人に
    イライラし、知っていると思い込んでいることを説明を
    迫られ、説明できない事実があるだけかと思います。
     それがいい気になっていると勘違いされているだけかと
    思います。

    >議論に負けないためだけに、訳のわからない詭弁をくりかえ
    >し、他者に対抗するつもりはない、といいながら、他者への
    >攻撃を繰り返す呟き尾形さんにエスティさん以外の多くのメン
    >バーが呆れていると僕は思いますよ。
     私がいつどこで詭弁を述べたか、引用しどこがどのような
    詭弁であるかを述べたか説明してください。
     できないなら、単なる言いがかりです。
     ついでにいえば、議論以前の問題です。
     対抗もなにも、こちらは、質問を受け、回答し、誤解され
    ていることについて、誤解について説明させていただいてい
    るだけの話です。
     私が述べていることに対して、間違った解釈でご意見を
    述べていれば、別段、私が述べていないことなので、
    私としては的外れなことをいわれているので、議論以前の
    問題になるのです。
     カラスは黒ですという文章を、カラスが鳥ではないなん
    て言うんではないという指摘を受ければ、そんなこと述べ
    ていませんというのは、至極当然です。
     単純に、川上明馬さんがわたしの文章に書いていないこ
    とを妄想されて、その妄想を真としているから、私の発言
    が詭弁だと感じるだけかと思います。
     対抗ではないくて、述べていないことを述べたといわれ
    たので、違いますよと述べているだけの話です。

    >著作があるのにそのうちの一冊すら読んだことのない哲学者を
    >『尊敬』できる神経が僕には理解できませんが
     別に、尊敬するのに、著作物を読まなければいけない理由など
    ありません。
     著作物の中に哲学者は哲学を込めたでしょうが、著作物そのもの
    だけが哲学者の哲学というわけではありません。
     ヘーゲルであれば、どんな矛盾があろうとも、哲学の無限の可能
    への信念は尊敬しておりますが、それは、著作物を読むということに
    よるものとはまた別です。というだけの話です。

    > また呟き尾形さんは、『草哲学』と『草野球』という言葉で、
    >哲学と野球を対比させました。『草野球』を楽しむためには
    >『野球』が好きなだけでなくその基本的なルールを知っていな
    >ければなりません。そして野球についてさらによく知っていれ
    >ばいるほどより草野球も楽しめるのではありませんか?
     では、そもそも、哲学にどんなルールがあると川上明馬さんは
    思われているのですか?
     説明できないとすれば、川上明馬さんもそのルールをしらない
    ということになりますね。
     そして、川上明馬さんの定義する哲学のルールにおいて、
    私はどんなルール違反をしているのでしょう?
     そして、その川上明馬さん独自の哲学のルールはみなてつ独自の
    ルールと一致する理由をしっかり述べてください。
     これらができないなら、川上明馬さんは単純に、川上明馬さん
    はみなてつで適用されないルールを、川上明馬さん独自のルールに
    あてはまらないと一方的に指摘しているのにすぎません。

     哲学にルールがあるとするなら、それは、当たり前のことであっても
    問うことと、論理的に抽象化するということかとは思います。
     そんなこともしらないの? バカじゃない?
     と相手をバカにするのは、ある種ルール違反といえるでしょうし、
    知識の多さが哲学の深さと勘違いするのもまたルール違反と言える
    でしょう。
     また、論理の前提を無視した極端な具体例を持ち出して、抽象化さ
    れた論理に反論するのもまたルール違反でしょう。
     なぜなら、そこに、哲学に問うというルールがあり、あとは、
    問う対象によって、個別のルールが設けられるだけの話です。
     私は、川上明馬さんの発言に多くの相手をバカにするような言動を
    見ています。抽象化された論理に対して、前提を無視した極端な事例を
    捏造し反論することも見ています。
     そして、知識の多さが、哲学の深さと勘違いされている節もありま
    す。
     私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされています。
     そのルール違反をすると、相手の文章を正しく解釈することはで
    きなくなるのは必然です。
     
     


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  • MLNo.20027   呟き尾形さん  (15) 2017/07/01 06:28  [メール表示する]
    こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。

    [ept:20009]Re: 私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされています
    http://www.freeml.com/ept/20009
     へのレスです。

    > まず、大先生に質問ですが、僕が哲学のルール違反をしているとの
    >ご指摘ですが、そもそも大先生の考える『哲学のルール』とは一体ど
    >のようなものですか?
     すでに、
    http://www.freeml.com/ept/20008
    ★★★ここから★★★
    哲学にルールがあるとするなら、それは、当たり前のことであっても
    問うことと、論理的に抽象化するということかとは思います。
     そんなこともしらないの? バカじゃない?
     と相手をバカにするのは、ある種ルール違反といえるでしょうし、
    知識の多さが哲学の深さと勘違いするのもまたルール違反と言える
    でしょう。
     また、論理の前提を無視した極端な具体例を持ち出して、抽象化さ
    れた論理に反論するのもまたルール違反でしょう。
     なぜなら、そこに、哲学に問うというルールがあり、あとは、
    問う対象によって、個別のルールが設けられるだけの話です。
     私は、川上明馬さんの発言に多くの相手をバカにするような言動を
    見ています。抽象化された論理に対して、前提を無視した極端な事例を
    捏造し反論することも見ています。
     そして、知識の多さが、哲学の深さと勘違いされている節もありま
    す。
     私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされています。
     そのルール違反をすると、相手の文章を正しく解釈することはで
    きなくなるのは必然です。
    ★★★ここまで★★★
     と述べております。
     書いてあることを質問するということは、読んでもいないんですね。

     で、自由だからルールがない思い込むのはご自由ですが、
    所詮思い込みです。
     むしろ、自由であることは、一定のルールがあるからこそ、自由で
    あるということです。
     一般にルールがないときは放縦ないし、混沌と言われます。
     ま、上記の私の考えについて、反論があれば、どうぞ。

    > まず、『経済学者ではないから、面白みも感じませんでし
    >た』という部分がピント外れもいいところです。
     まぁ、興味もないし、面白くないので、その程度の感想
    という話です。

    > また大先生に質問ですが、なぜ大先生は単に「想像」
    >と書けばよいと僕には思われるケースでも「妄想」と
    >いう表現をなさるのでしょうか?
     妄想だと思うからです。

     想像と妄想の使い分けですが、一般に想像は、実際に
    知覚に与えられていない物事を心の中に思い浮かべている
    ことです。それに対して、妄想は、根拠のない想像をし、
    その想像を事実であると思い込んでいることです。
     妄想の部分を想像と書けば異なる文脈になりますので、
    妄想と表現しました。
     実際、私が妄想と指摘していることは事実であることは、
    川上明馬さんが根拠となる私の文章が引用できないこと、
    引用があっても、それは思い込みによる間違った解釈
    であったことからも、妄想であることはあきらかかと
    思います。
     事実無根の想像は、思い込みであるのですから、それは
    妄想であることは、侮辱ではなく事実です。
     侮辱とは相手を軽んじ貶める行為ですが、議論の流れ
    において、事実無根の想像を事実だと思い込んで指摘
    されたことは妄想であることは事実です。意見交換
    のなかで、妄想されたことを妄想だと指摘するのは
    侮辱ということにはならないかと思います。
     どうしても、妄想はいやだというのであれば、
     無根拠な想像をさも事実として間違った認識。
     という風に解釈してください。
     想像とは異なりますので、ご理解ください。
     無根拠な想像をさも事実として間違った認識ではない。
     と反論されたければ、根拠となる事実、つまり、私の
    文章を引用し、事実に基づくものなら反論なさればよろ
    しいかと思います。
     妄想と指摘され反論できないなら、妄想ではないかと
    判断せざるを得ないかと判断します。
     そもそも、私は川上明馬さんをかろんじ、はずかしめたり
    見下して名誉を傷つけるといった侮辱する意図はありません。
     そもそも、侮辱するならもっと違う効果的な表現をします。

    >こんなどうでもよいメーリングリストに関わっている時間は
    >あまりないので、このくらいにしておきます。
     そうですか。
     どうでもいいなら、レスポンスされない方が、時間を無駄に
    しないと思います。
     であれば、時間を大切にしてください。

  • MLNo.20030   呟き尾形さん  (15) 2017/07/02 21:28  [メール表示する]
     こんにちわ。川上明馬さん。呟き尾形です。
    [ept:20011]Re: 私から見たら、川上明馬さんは哲学のルール違反をされています
    http://www.freeml.com/ept/20011
     へのレスです。

     別に、公序良俗に反する言動をしているのは、川上明馬さんで
    あり、それは事実にすぎません。非難するなら、やめてくださるよう
    お願いするという言動にはなりませんので、私が川上明馬さんを
    『公序良俗に反する』という言葉で、川上明馬さんの言動を非難
    はしていません。そんな甘い言葉で非難するほど私は甘くはあり
    ません。
     単なる勘違いです。

     日本帝國の時代の日本を引き合いに出していますが、私の
    言動との共通点を論理的に説明してください。できないなら、
    単なる川上明馬さんの根拠のない思い込みにすぎず、共通点
    のない的外れな比較となり、妥当性のない指摘にすぎません。
     つまり、単なる勘違いです。

     川上明馬さんの言動にジャーナリズムもありませんし、そもそも
    私には権力はありませんし、日本帝國の時代の日本と私が共通して
    いるとすればあっさりと退会処分にすればいいだけの話です。
     退会処分にせず、自由に発言している状態は、まさに言論の自由
    が守られている状態だということに気が付けていないのですね。

    > これがまさに『いい気になっている』証拠ですよ。
     いい気になっているとは、得意になって自慢している様のことを
    述べているようですが、尊敬する人哲学者を聞かれて回答するだけ
    でいい気になるというのは、聞いたこともありません。
     証拠になるわけがないし、説明もすべて川上明馬さんのおもい
    こみによる憶測にすぎず、その憶測すら現実とはかけ離れている
    ので、単純に川上明馬さんの勘違いをぜんていとしなければ成立
    しない説明なので、ぜんぜん説明ができていないことになります。

     哲学者が複数いればいい気になっているというのは奇妙奇天烈
    な詭弁です。
     むしろ、聞かれもしないのに、詳しくうんちくと専門用語を並
    べ、そんなことも知らないのかと、相手をバカににして得意になる
    態度が横柄になっていると思います。
     質問されて回答されただけで、いい気になっていると判断する方
    が私は横柄だと思います。
     まぁ、だから、まとはずれでナンセンスな指摘をして、その都度
    ナンセンスですと反論されているだけなんでしょうね。

     ともあれ、質問されたので回答します。
     ソクラテス、プラトン、アリストテレスこの3人は、
    私の中では、哲学を構築するのに重要な役割をもっていると
    認識しています。
     ソクラテスは、無知の知、私自身、川上明馬さんのように知ったか
    ぶりをしていないか自戒するために意識し続けています。プラトンは
    イデア論、物事の本質というものを見失わないために常に意識してい
    ます。川上明馬さんのように論点をずらしまくらないためには非常に
    役立ちます。アリストレスは論理学。川上明馬さんが支離滅裂なこと
    を述べている時、整理するときに役立ちますが、そうしたことが哲学
    の世界に提示したわけですから、尊敬に値します。
     ディオゲネスは、”徳”が人生の目的であり、欲望から解放
    されて自足すること、動じない心を持つことを説いたわけですが、
    その哲学に共感します。川上明馬さんのように欲望に目がくらまない
    ようにするのには役立ちます。
     エピクロスは、四種の薬、つまり
    ・神を恐れることはない。
    ・死を思い煩うことはない。
    ・善はたやすく得られる。
    ・恐怖にはたやすく耐えられる。
     というをもちいれば、さまざまな心配事を解消できるという
    哲学に共感し尊敬しています。川上明馬さんのように悩み事が
    多くならないのには非常に役立ちます。
     オッカムのウィリアムは、オッカムのカミソリの鋭さです。
    川上明馬さんの公序良俗に反する発言に感情的にならず、
    川上明馬さんの存在しない無根拠な思い込みをカミソリで
    そぎ落とそうと分析する際役立ちます。
     正直、中世のキリスト教をベースにする哲学にはなかなか
    共感できない中でのオッカムのカミソリの鋭さは尊敬します。
     マキャベリは、君主論に共感し、尊敬しています。
     アラシ行為に対応する時に役立ちます。
     デカルト、カント、ヘーゲルについては、近代哲学の系譜
    デカルトは合理主義、とくに、方法的懐疑において、論理の
    中に根拠のある論理なのか、川上明馬さんのように無根拠な
    思い込みによる間違った論理なのかを判断するときに役立ち
    ます。カントは道徳や規律に対する信念。川上明馬さんの
    ような一貫性のない無秩序な主張に対して役立ちます。
    ヘーゲルは二律背反という哲学の無限の可能性の提示。川上
    明馬さんはたま〜にではありますが、鋭い指摘をすることが
    あります。もちろん川上明馬さん以外の方の方が多いのですが、
    強力な反論を受けたとしても、それに対する哲学への姿勢、
    主張への姿勢をとる上で役立ちます。
     ニーチェはルサンチマンの提示。フッサールは現象学とい
    う風なところに、共感し尊敬しています。
     マルクス、フーコー、レヴィナスといった人物が尊敬する
    人物に含まれていないのは、哲学について理解はするが、
    共感できないので尊敬できないだけです。
     ま、共感し尊敬できる人が複数いるからいい気になっている
    というのは非論理的な説明なので別に私がいい気になっている
    ということが、説明できないわけですね。
     実際、現実世界では哲学の話は嫌がられますからよほど特殊
    な事情がなければ哲学者の名前はださずに、かみ砕いてお話
    します。むしろ、逆ってことですね。
     単純に川上明馬さんの思い込みにすぎません。
     これは、聞かれたから回答しているのにすぎません。
     いい気になっていれば、聞かれもしないのにうんちくを語る
    でしょうし、そんなこともしらないのかとろくに理由もなく、
    説明もなく、一方的に相手をバカにするものです。
    また、質問ばかりして、内容のないうわべの話をし、説明を
    迫られると黙るか、論点をずらすということをするのが、いい気に
    なっている人に良くある特徴かとおもいますし、自分がいい気に
    なっていると、相手もそうだと決めつける傾向もあるかと
    思います。
     

    > この発言がいかに愚かか呟き尾形大先生には理解できない
    >のでしょうか?
     はい。
     理解できないので、説明してください。

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