野元様
件名: 桜里さんへ
(MLNo.9384 http://www.freeml.com/qualia/9384)
へのレス、ということになります。
>桜里さんの投稿が改善する方向に向かうのではと
>微かな期待をもって応答したのでしたが、
>期待はずれでした。
>たぶん自分がムダ話をしているという自覚がないのでしょうね。
私の投稿を、
野元さんのご期待に沿うような方向に、
改善することが出来なかったことについては残念に思います。
しかし、
野元さんの投稿に、
わざわざレスをつけるという行為を選択しているという時点で、
自分が「ムダ話」をしているのだという自覚は持っておりましたよ。
さて、私自身は、
野元さんのご期待に沿う形での「改善」を達成出来ませんでしたが、
今回の野元さんの投稿には、
これまでの投稿からは思いもよらぬ「改善」点を見出し、
喜びをもって読むことが出来ました。
一言で言えば、
文章が要を得て簡潔である、
ということですね。
野元さんの投稿、
件名: カント的人工知能
(MLNo.9379 http://www.freeml.com/qualia/9379)
では、
>ひと言だけ言っておきたいと思います。
という言葉の後に、
なんと40行を超える要領を得ない文章が続いておりました。
今回は16行の文章の中に、
無駄なく、
野元さんのメッセージは収められております。
やれば出来るんですね!!
今後も、
要を得て簡潔にお考えをまとめた上で、
このMLへの投稿を続けていただくことを期待いたします。
ところで、
野元氏ご自身が「エクリチュール脳」について、
どのようにお考えになっているのかは存じませぬが、
ここでは、今回の野元氏の文章をネタに、
「エクリチュール」としての言語について考えてみたい。
人間の言語活動における、
音声言語と文字言語の対比について、
ということだ。
文字言語において顕著なことのひとつは、
その「編集可能性」であろう。
いわゆる「推敲」という行為である。
もちろん、
音声言語においても既に、
「ああでもないこうでもない」という形での思考は可能なのであり、
そこに、
思考の編集可能性をもたらすツールとしての言語、
は存在していたわけである。
しかし、音声言語はその特性上、
現れた瞬間に消え去るという意味で定着不能であり、
思考を対象化することにおいて、
後に出現する「エクリチュール」としての文字言語に比較すれば、
大きな弱点を抱えていた、と考えることが出来る。
文字言語においては、
思考は定着可能であり、
その対象化の可能性の上に、
音声言語とは比較にならぬほど大きな、
編集可能性という事態が成立する。
要するに、そこでは、
その時点での自らの思考が、
視覚を通して、
対象化可能になり、
繰り返し参照化可能になるのである。
自らの思考が外部存在となるのだ。
そこに音声言語から文字言語への飛躍がある。
「エクリチュール脳」として設定される脳の状態を考える上で、
どちらに焦点を合わせるのかが問われるだろう。
(飛躍なのか連続性なのか)
もちろん、思考を外部化することにより達成されるのは、
自身による批判への大きな可能性である。
「編集」は、自身への批判行為そのものなのである。
書き連ねられた自身の文章を前にして、
自己陶酔という事態に陥る時、
編集可能性=推敲という行為は忘れ去られ、
自己陶酔の記録が、
永遠に参照可能なものとして残されてしまうのだ。
「エクリチュール」オソルベシ!
以上、umasica :桜里、でございました。