ビートたけし(本名:
北野 武(きたの たけし)、
1947年1月18日 - )は、
東京都足立区出身、
オフィス北野所属の
お笑いタレント、
映画監督、
俳優、
司会者、
東京芸術大学大学院映像研究科
教授、元
漫才師(
ビートキヨシとともに、
ツービートとして活動)であり、日本国外では映画監督としての知名度が高い。また、
立川談志一門であり高座名「立川錦之助」を持つ。
来歴
幼少時代
東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の父(北野菊次郎)と、母(北野さき)の四男(次男が
夭折し、実質は三男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「
武(たけし)」と命名された。
血液型はO型。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、
祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は
「家族・縁戚」を参照)。
足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に
算数と
図画工作が得意だった。小学校卒業後は母親が
進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた
足立区立第四中学校へ入学した。中学卒業後、
東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも
野球部に所属(高校は
軟式野球部)したが、高校時期に
ヨネクラジムでボクシングを習っていたという。なお、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に加入していた。
大学時代
1965年(昭和40年)に 高校を卒業後は母親の薦めで、
明治大学工学部(後の
理工学部)
機械工学科に現役合格し入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、
新宿界隈で当ての無い日々を送るようになる。
学生運動にも参加したが熱心ではなく、
ジャズに傾倒する。“LeftyCandy”や
新宿ACB(アシベ)、
風月堂などに入り浸った。また、
ジャズ喫茶のボーイもしたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、
若松孝二、
小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、
連続射殺事件で逃走中だった
永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという
[後年これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲:泉谷しげる)]。
この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや
実演販売員、ビルの
解体工、
クラブのボーイなどを転々とする。
羽田空港の
荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった
中上健次と共に働いた。のち
通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの
若松プロ初期作品に
端役ながら出演
[小水は『ほしをつぐもの(1990)』で、若松は『エロティックな関係(1992)』で、再びたけしを撮った]したり、学生演劇に参加したが、
ヴォードヴィルのような
軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。
大学は140単位のうち106単位まで取得していたにもかかわらず、結局通学せずに
除籍。しかし、
2004年9月7日、明治大学より「
特別卒業認定証」
[100単位以上を取得しながら何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた
[北野武氏へ明治大学特別卒業認定証ならびに特別功労賞を贈呈、2004年9月]。これにより、最終学歴は明治大学工学部卒業となり、
学校教育法第104条および
学位規則第2条の規定に従って「学士(工学)」の
学位が与えられた。
前座時代
学生運動が収束に向かったこともあって、自身も去就を模索する必要に迫られた。
芸能に興味はあったが、
アングラ演劇には馴染めず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし
演芸なら自分にも理解できるだろう
[『驚きももの木20世紀 - 伝説の浅草芸人・深見千三郎と最後の弟子』朝日放送、1996年]」という理由で、いつしか
芸人を志望するようになった。
1972年(昭和47年)夏、
浅草の
ストリップ劇場・
浅草フランス座で、芸人見習い志願として
エレベーターボーイを始める。当時、たけしと思しき人物を見た
井上ひさしは「不機嫌そうな青年
[ビートたけし『浅草キッド』新潮社〈新潮文庫〉、1992年(文庫版解説) ISBN 978-4101225128]」と、その印象を述べている。やがて、同劇場の経営者兼座長であった
深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太として
コント(軽演劇)を学ぶ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人として
タップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため深見から気に入られた。舞台では
アドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれるようになった。
ツービート結成
フランス座に出入りしていた2年先輩の
兼子二郎から漫才コンビを組むよう誘いを受け、当時フランス座は経営難で給料の支払いすら事欠くようになっていたことや、
背広一つで稼ぐことができる
漫才に魅力を感じていたことから、『松鶴家次郎』の芸名で舞台に上がることを了承した(兼子の芸名は『松鶴家二郎』)。
当初は正統派の掛合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時
コロムビア・ライトの
付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で
空たかし・きよし(
コロムビア・トップ・ライトの一門は皆「青空」の家号を名乗るが、片方の弟子なので「空」だけとなった。)と名乗り
営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方
キャバレーなども回るようになるが、たけしは酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり、
酩酊して舞台に上がることが多かった。また、店を誹謗したり、客や
ホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、度々舞台から降ろされた為、兼子は場繋ぎに使う
奇術ネタを用意していたという。そしてこの頃から「暴走ネタ・危険ネタ」へシフトしていった。
紆余曲折ののち、2人はコンビ名を「
ツービート(
two beat)」へと変更し、兼子は「
ビートきよし」、たけしは「
ビートたけし」を芸名とした。
この頃、大阪で頭角を現して来た
B&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。
服装も
タキシードに
蝶ネクタイから
アイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演で
松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。
毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、
ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。
漫才ブームまで
演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい
抑圧を受け、漫才協団から脱退を求める声すら起きたという
[ビートたけし『午前3時25分!』 『平凡パンチ』平凡出版株式会社、1983年 ISBN 978-4900416000]。
1976年(昭和51年)協団が主催する
NHK新人漫才コンクールにツービートは3年連続で出場したが最優秀賞を獲得することは出来なかった。
1978年(昭和53年)、
新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催したが、この企画をした
高信太郎との繋がりでたけしも、
高平哲郎、
赤塚不二夫、
タモリらと一時期交友関係を持った。その後、「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わずじきに離れた。
1979年(昭和54年)、女流漫才師「ミキ&ミチ」の
内海ミキと
結婚。
犬吠埼(
千葉県)にて
新婚旅行を済ませたのち、
亀有のアパートで生活を始める。
11月、「
花王名人劇場」において、人気落語家・
月の家円鏡(8代目・
橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。古典派から「
邪道」と言われた円鏡と、「邪道漫才師」ツービートを競演させ、「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、「花王名人劇場」での「
激突!漫才新幹線」制作への布石となり、のちの漫才ブームへ繋がった。
漫才ブーム
1980年『
マンザイブーム』(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)が起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に
B&B、
ザ・ぼんち等と共に一躍知名度を上げた。
速射砲さながらに喋りまくり、時おり
弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻るたけしの姿は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのは
ジジイ・
ババア・
ブス・カッペ(田舎者)で、さらに
ウンコと
ヤクザと
ガキが頻繁に登場した。また、
金属バット殺人事件や
深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいちはやくギャグに取り入れた。これらの不謹慎ネタは「
残酷ギャグ」等と批判を受けることもあったが、それに対してたけしは「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。
日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」「赤信号みんなで渡れば恐くない」等の一連の
標語ネタは「
毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。
1980年6月、ネタ本『ツービートのわッ毒ガスだ』を発刊し、年末までに約85万部の売上となったが、当初事務所側はせいぜい3万部程度の売り上げと見込み、印税全額を二人が受け取る契約を結んでいたため大金が転がり込んだという。
この時期に、ツービートとして出演していた『スター爆笑座』(TBS)の司会であった
せんだみつおと楽屋で雑談中に、たけしの代表的ギャグとして知られる「
コマネチ!」のギャグが生まれた
[せんだみつお『ナハ』東京書籍、2002年 ISBN 4487797144]。
1981年1月、TBSで『
二百三高地』の連続ドラマが製作され、ツービートは兵卒役として出演したが、たけしは乱戦の最中『コマネチ!』で自己主張をはかり監督以下の顰蹙を買った。後年
ヴェネツィア国際映画祭で
金獅子賞を受賞した際には、『コマネチ!』という記念本に寄せてコマネチ本人から祝福の手紙が贈られた。
1981年10月、フジテレビは漫才師による昼の帯番組『
笑ってる場合ですよ!』で、ツービートは火曜日のレギュラーとなった。1982年10月、ブームの終焉と共に番組も終了したが、最終回でたけしは客に対し「何でもゲラゲラ笑いやがって! 本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と語った(なお、フジテレビからオファーのあった後番組の司会をたけしは断り、代わりに『
笑っていいとも』が開始された)。
1982年の夏にはブームは完全に収まったが、“タレント・ビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。
漫才ブーム以後
漫才ブームを生き残ったたけしは自身のスタイルを大きく転換させる。毒舌家というパブリックイメージはそのままに、ネタに依存する消耗度の高い喋りを捨て、
パーソナリティを軸とした芸風に移行していく。
また、1981年元旦から
ニッポン放送(LF)系のラジオ番組『
ビートたけしのオールナイトニッポン』、同年5月から
フジテレビ(CX)系の『
オレたちひょうきん族』がそれぞれ開始された。
1982年から1984年にかけて番組出演中に弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)が押しかけ、相当の数が集まった事(
たけし軍団)から、集団で行うバラエティを模索し
NTV系『
スーパージョッキー』、
TBS系『
笑ってポン』等が始まった。また、博識が評価されTBS系『
世界まるごとHOWマッチ』等で文化人的な出演要請も増えた。
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NTV=スーパーJOCKEY
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NTV=天才!たけしの元気が出るテレビ
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EX=ビートたけしのスポーツ大将
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TBS=風雲!たけし城
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NTV=OH!たけし
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TBS=世界まるごとHOWマッチ(MBS制作)
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CX=オレたちひょうきん族
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LF=オールナイトニッポン
上記は1985年当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV、
EX、TBS、CX全ての20時台の最高視聴率をマークした。なお、たけし城、元気、スポーツ大将は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム企画も行った。この頃より、
タモリ・
明石家さんまとともに、「
日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。
映画監督「北野武」
『
その男、凶暴につき』(
1989年)は、監督:
深作欣二 主演:ビートたけしで映画化を予定し、配給の
松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は1989年に予定通り公開された。
1997年、映画『
HANA-BI』が、第54回
ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる
金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めよう」と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。
第52回カンヌ国際映画祭(
1999年)コンペティション部門に正式参加した映画『
菊次郎の夏』で約5分間の
スタンディングオベーションを受けた。
2005年4月、
フランスの『
カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、
ジャン=リュック・ゴダール[「ここ四、五年、私が素晴らしいと思っている、北野武の映画があります。『HANA-BI』という作品です。私が『HANA-BI』を好きなのは、それが日本映画だからではなく、普遍的な映画だからです。そこに登場するほとんどの人物たちが一重瞼の細い目をしていることに気づかないほど、普遍的な映画だと思います」と言及された事がある。(『週刊読書人』 2002年11月22日号)]
(300号)、
ヴィム・ヴェンダース(400号)、
マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。
2005年4月、
東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので兄弟で教授となった。
2007年5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画「To Each His Own Cinema」(それぞれのシネマ)に世界5大陸25ヶ国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。
2007年8月、
第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作「
監督・ばんざい!」に基づき「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設され、表彰式に出席した。
2008年6月19日、第30回
モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。
2003年の
新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。
自著「時効」によると、「40代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が
毒舌を期待していたためギャップで悩んだ。もう若いときのような毒舌は出来ないからテレビに出る時は面白いおじさん的な立場で出られればいい」と述べている。
…
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