少年愛 (しょうねんあい,独語:
Knabenliebe,英語:
Pederasty,希:
Παιδεραστια) とは、
成人男性と
思春期前後の
少年のあいだの
恋愛関係、性的関係である。
プラトニックなものもあるが、一般に
性的交渉が前提となっている。文化的背景において規定された「年長者対少年の制度的理想型」が基本的な定義である。
Wikipedia画像へのリンク(夭折せるポリュデウキオン師は少年を神として称えた)
# この「理想型」を参照して、年長男性と少年のあいだで成立する広義の恋愛関係が、一般的な少年愛の概念となる。この場合、感情や行為の現象的形態としては
性嗜好の
少年愛とほぼ重なる。この意味での少年愛は、
同性愛の一種とも解釈できる。
# また、ここより更に意味が展開して、同年齢、あるいは年齢の近接した少年同士のあいだに成立する恋愛、性的関係にまで至った関係を少年愛と見做す考えもある。
# 1970年代以降、少女漫画において、少年同士の友情を越えた恋愛関係が主題として現れ、これを少年愛と呼んだ。更に、1980年代以降には、「やおい・ボーイズラブ」等が小説・漫画等で一般化し、このようなメディアでの作品主題がまた「少年愛」と呼ばれた。
古典ギリシアでの理想範型に見られるのは、年長者である立派な市民が、
教育目的で少年愛に携わることである。このような見地からは、少年愛は
同性愛の一種ではない。男性同性愛者が性的嗜好ないし
性的指向として、少年や若い青年を対象とするとき、見かけ上、少年愛に見える。しかし、少年愛におけるエラステース(年長男性)は、大概の場合、
両性愛である。
歴史と概説
古典的な意味の少年愛は、世界中のあらゆる社会で存在したと考えられる社会
制度である。それはとりわけ、
戦士社会において顕著であり、年長の戦士と若い戦士のあいだを結びつける互いの信頼関係は、しばしば少年愛の関係において成立した。
このような少年愛は、男性同士の結束と青少年の
教育(παιδεία、
EN)という目的と、いま一つに、現代的な表現では、青少年を指向する
男性同性愛の目的や意味を持っていた。パイデイア(教育)とは、青少年を一人前の男性・
共同体の成員としての男性に育成するのが目的で、
中世西欧や
近代における市民教養としての教育とは意味が違っていた。
範型としての少年愛は性的指向としての少年愛と直交関係にあり通約不能であるが、他方、現象的な表現としては両者は重なっているのが通常で、広義の同性愛の一種と見なすのが妥当な面がある。しかし、この二つの位相が根源的に分離し難く構造化されているのが少年愛で、性的指向の面だけを念頭する場合、それは
性嗜好の少年愛と呼ぶべきであろう。
古典ギリシア
Wikipedia画像へのリンク(口づけをかわす少年と男性(
ルーヴル美術館))
少年愛としては、
古代ギリシアの「少年愛(パイデラスティア paiderastia )」が著名であるが、これは当時の代表的な
ポリスである
アテナイでは、暗黙に認められた市民の義務であった。アテーナイに較べ、より戦士社会として厳格な
文化や
制度を持っていた
スパルタにおいては、少年愛は男性市民(スパルタでは、それは戦士であることを意味した)にとって法文化された義務であった。
古典ギリシアにおける少年愛における「少年」は、
思春期またはそれより若い年代の少年(パイス, παις )ではなく、むしろ戦士としての訓練を受ける青年(エペーボス)であったが、これは文化制度としての「少年愛」での建前であった。(古典ギリシアの少年愛は、原義としての「
エペーボピリア」に近いが、10代はじめの少年との関係も含んだので、「青年愛」許りとは言い切れない)。
プラトンは「
徳(アレテー)」について語っているが、「アレテー(arete, αρετη )」とは
ギリシア語では、「男性としての優秀性」という意味がある。知性において、知識において、また戦士としての肉体の素晴らしさや、その戦闘技能の卓越性、更に
弁論の巧みさや、指導力を持ち、
道徳的にも優れた家柄の良い「男子市民」が「アレテーを持つ人」である。
アレテーはこれを持つ優れた男性が、未熟な男性を
肉体的・
精神的に鍛えることで、若い男性を優れた戦士として、また
知性に満ち、高い
倫理を持つ
市民として育て上げることで、次の世代へと伝達されるとされた。アレテーを若い男性、すなわち、青年・少年に授けるための文化制度がギリシアの「少年愛」であった。またこれが社会の「制度的範型としての少年愛」である。
古典ギリシアの少年愛においては、愛する年長の男性を「エラステース(erastes, εραστης )」と呼び、愛され、アレテーを授けられる対象となる青少年を「エローメノス(eromenos, ερωμενος )」と呼んだ。
善か美か
古典ギリシアの少年愛においては、愛される少年に求められる資質は、戦士としての
倫理性であり、精神的な卓越性、則ち「善き少年」であった。少年愛の相手である少年として望まれる資質は、「
善(アガトン)」であった。
ソクラテスは数多くの青少年をくどき落とす達人であったので、「しびれエイ」との綽名を持っていたが、彼が、当時の美青年の代表とも言えた
アルキビアデスをくどき落とした言葉(殺し文句)は、「人々は、君の
肉体の美しさを賛美する。だがぼくは、君の外見の美しさではなく、君の
たましい、つまり君自身の本質を愛しているのだ」という内容であった。
プラトンが記すソクラテスの言葉からは、古典ギリシアにおいては、青少年の「善」を求めるとの制度的建前とは別に、実際は、その肉体の美や容貌容姿の「
美(カロン)」が求められていたことが分かる。「善き少年(アガトス・パイス)」か「美しい少年(カロス・パイス)」か、むしろ、肉体の外見、その「美しさ」が少年愛で少年に求められた。
古代ローマ
Wikipedia画像へのリンク(アンティノウス、130年頃)
古代ローマにおいても、「善き少年」か「美しい少年」かの選択では、少年の「善」を求めるべきであると制度的にはされていた(ローマでは少年愛は制度化されていなかった)が、ローマが
地中海の覇権を掌握し、その国家と市民が豊かとなるにつれ、
美少年・美青年への欲求は抑制のないものとなった。
皇帝ネロは、皇妃ポッパエアの死後、16歳前後であったと考えられる絶世の美少年
スポルスを見出し、これを去勢して女装させ、みずからの第三の妃に据えた。スポルス・サビーナは、ポッパエアと容姿が瓜二つであったとも伝わっているので、ネロは「美しい少年」を求めると同時に、「美しい少女」をも求めて愛したことになる。
五賢帝のなかでも、もっとも英邁で精神の幅に広がりがあったと考えられる
ハドリアヌスは、青年アンティノウスを愛したが、アンティノウスは理由不明なままみずから命を絶った。ハドリアヌスはこれを悲しみ、一つの都市にアンティノウスの名を付け、彼が愛した青年の名を永遠のものとしようした。
ハドリアヌスはまた、10歳の少年マルクスと出会い、この少年に英邁な資質を見出した。為に彼は、マルクスをみずからの後継者の位置に置き、少年は成人して後、皇帝位に就き、哲人皇帝
マルクス・アウレリウスとなった。ハドリアヌスはアンティノウスの肉体の美を愛すると共に、少年マルクスの精神の卓越性、則ちその「
善」と、将来実現される「
徳」を愛した。
しかし古代ローマでは、
性愛のあらゆる分野で退廃が花咲いたように、少年愛でも見境がなくなっていた。紀元
2世紀の
ストラトーン(ストラトー)が
ギリシア語の詩を集めて編んだ詞華集『少年のミューズ(ムーサ・パイディケー,Musa Puerilis)』に収めた自身の詩で、次のようにうたっている:
12歳の花の盛りの少年は素晴らしい。13歳の少年はもっと素敵だ。14歳の少年はなお甘美な愛の花だ。15歳になったばかりの少年は一層素晴らしい。16歳だと、神の相手が相応しい。17歳の少年となると、おれの相手じゃなく、ゼウス神の相手だ、おお!
ストラトーンは同性愛者であるが、
ペトロニウスの『サテュリコン』を見れば分かる通り、帝政期ローマの市民は、もはや善なる少年を求める「少年愛」と同性愛の区別もつかなくなっていた。
西欧
西欧社会は、
ゲルマン民族による
ローマ帝国の蚕食と最終的な
西ローマ帝国の滅亡によって、文化が成立したとも言えるが、ローマ辺境域のゲルマンや
ケルトの地には、早くも紀元2世紀には、
キリスト教が布教されていた。当初それは
アレイオス派であったが、やがて
アタナシオスの正統派に転向した。
メロヴィング朝及び
カロリング朝フランク王国を通じて、西欧中央部はキリスト教社会として構成された。このことは、
大ブリテン島でも同様であり、
イングランド(
アングロ・サクソン)に流布したキリスト教は、
スコットランド、
ウェールズへと伝播され、
アイルランドにもまたキリスト教の波は訪れた。
ユダヤ文化の影響を受けたキリスト教文化においては、「同性愛」は
宗教的
禁忌であり宗教上の罪悪であり、ユダヤ律法(トーラー)が記している通り、「女と同衾するように男と寝る者は、殺さねばならない」という規定は、(特に男性の)同性愛を罪悪と明記するもので、無論、行為としては同性愛と区別の付かない少年愛もまた、罪悪であり、少年に対する行為が暴行に近いもので、かつ少年の年齢が幼ければ幼いほど、罪の重さは加重された。
しかし、ケルトには少年愛の制度的伝統が存在したことが知られており、またゲルマン族には、
男性結社の伝統があった。従って、範型としての少年愛は西欧文化の水面下であるいは潜在的に存在していたことになる。
中世カトリック時代
西欧におけるキリスト教は、16世紀の
宗教改革に至るまで、正統派西方教会つまりカトリックであった。
カトリックにおいては、
司教と
司祭による
ヒエラルキー制度が厳密に定められ、司祭の終身独身が規定されており、この伝統は今日のカトリックにおいても継承されている。
キリスト教においては、本来男女は平等であったが、カトリックにおいては女はその男性を誘惑する肉体と、
パウロスの
ユダヤ教的禁欲思想より、男性に比し卑しめられた地位にあった。カトリックにおけるもっとも重要な秘蹟である「
ミサ聖祭」においては、典礼は男性司祭が主導し、男性の手によって進行されるものであった。このため、司祭の典礼執行を助け、補助する役割として、若い男性あるいは侍童としての少年が起用された。
大小のカトリックの教会においては、ミサ聖祭で侍者(acolyte)を務める少年が準備されており、また、
グレゴリオ聖歌の制度化とも相俟って、最初は成人男性の聖歌隊が、後には少年が隊員となる
少年聖歌隊が構成された。一つに、
アルトあるいは
ソプラノの本来は女が担当する声部を男性が担おうとすると、
変声期前の少年の声部が必要であったことがある(この問題の一つの解決として、変声期前の少年歌手を
去勢することで、
カストラートを造ることが行われたが、これは別の問題を引き起こした)。
更に、6世紀頃より制度化のはじまる修道制度は、男子の修道者を前提としており、修道士は司祭同様に、終身の独身と女との交渉を断つことを誓約した。修道士の集団が
修道院というコミュニティを作り、時代と共に、共同体の規模が大きくなるにつれ、修道院は男性子弟の教育機関の役割も果たすようになって来た。それは将来に修道士を目指す、見習い修道士を教育すると共に、やがて俗界に還俗して、世俗生活に戻る者の教育をも担った(女については、女子修道院がこれを担うようになった)。
このように性的禁欲と独身制を定めたカトリックの宗教的共同体のなかで、司祭と侍者、あるいは聖歌隊の少年、また
修道士と修道士見習い(ノーヴィス)のあいだに機会的同性愛が生じるのは必然とも言え、司祭も、修道士も同性愛者でない場合であっても、少年との性的交渉が成立した。また教会の男色禁止の建前とは別に、このような指導する者、すなわち司祭や修道士と、指導される者、すなわち侍童やノーヴィスの少年のあいだの関係は、
古典ギリシアや
ゲルマンの少年愛の範型をなぞるものでもあった。
カトリック教会は司祭や修道士における、少年とのあいだの男色関係を概ねにおいて黙認したと考えられる。また、王侯貴族や有力な豪族の公然とした同性愛行為や少年愛もまた、これを黙認し、更に一般庶民であっても、一定の範囲のものは、司祭に告白し、罪の赦しを願う限りはこれを許容したとも考えられる。
同性愛は文化や時代に関係なく多少なりとも存在して来た。同性愛行為を理由とする処罰や処刑の記録は存在するが、それ以上多数の告発されない、また免罪された事例が存在したと見られる。事実上、王侯貴族や富者の行為はよほどのことがない限り大目に見られていた。また庶民のあいだでは、
中世の生活では、寝所は藁の上で雑魚寝している場合が普通で、寝台があっても複数の同性の人と共用したため夜間照明の少ない中世では、同性同士の性的関係が起こり得る環境にあった。
カトリック教会が「男色」の罪を断罪するのは、キリスト教的社会の秩序を乱す者、または乱す恐れのある事態に対してである。
中世における異端論争において、誰が
正統か
異端か不明な場合、両者は対する陣営、人物を、「男色家」「
マニ教の徒」と非難するのが通常であった。従って、異端と決まった者は、教会の側が正式に、「男色家・マニ教徒」との罪状認定が行われた。
更に、中世の
騎士道の理想形では、
騎士は無論、多くの従者や家臣を従えるが、同時に、身分ある少年を「騎士見習い」として身近に置き、これを武勇と道徳において鍛錬するとされたが、このような関係は、肉体関係の有無とは別に、精神的には制度的な「少年愛」の関係とも言い得る物だった。
宗教改革と近世ルネッサンス
西欧における
宗教改革は、起源を遡れば
シトー会の修道院改革や、
ドミニコ会、
フランシスコ会などの
托鉢修道会の発足にもその端緒が窺えるが、13世紀より14世紀にかけてのアリストテレス・ルネッサンスの展開とも並行して進んでいたと言える。
教皇権と
皇帝権の争いを通じて、両者の権力が共に後退して行ったと同時に、世俗領主や
商人階層の力の増大がもたらされた。
このような社会的な権力の推移を背景として、従来弾圧されて来た西欧の
異端運動は、教会権力に対抗する後ろ盾を備えるようになり、
カトリック教会の統制から脱する。16世紀に至って、
ドイツの
ルターの背景には世俗領主の庇護があり、
ジュネーヴの
カルヴァンは富裕商人階層の支持があり、そして
イングランドにおいては、カトリックの権力に反抗する
ヘンリー8世はみずから王権を持っていた。
教皇権が衰退し、都市商人階層の力が優越した
イタリアに、
文芸復興(
ネオプラトニズム・ルネッサンス)が起こり、
フィチーノなどが、
古代ギリシアや
ローマの古典を翻訳し、まさに「
マニ教」の教えに通底している『
ヘルメス文書』の翻訳を行い、
魔術・
錬金術・
数秘術・
占星術などが、
哲学思想や文芸と共に、イタリアを通じて西欧に広まって行った。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、都市の支配者の庇護のもと、
異端の研究を行い、美少年の弟子を持ち、女と交わることがなかった。ダ・ヴィンチが描いた『
ジョコンダの微笑』(『モナ・リザ』)に描かれているのは、女ではなく、若い青年ではないのかという推測がある。また、明らかに同性愛者であった
カラヴァッジョの絵画には、少年愛の指向が窺える。
ダヴィデの彫像や、システィナ礼拝堂の天井画を描き称賛された
ミケランジェロは、若い男性の裸体の美を表現し、賛美した。
イングランドにおいては、少し遅れて、宗教改革後の自由な雰囲気のなか、多くの野心的な詩人や文学者が登場し、なかでも
ウィリアム・シェイクスピアは、
戯曲において画期的な作品を多数生みだした。当時の戯曲の上演では、女の役は少年が演じていたことが知られている。また
ソネットにおいて、シェイクスピアは青年の美しさを賛美し、女に対する恋愛と同様の熱烈な恋情を作中の青年に寄せている。このような例は、
エリザベス朝の詩において、シェイクスピア以外にも
マーロウなどが存在し、当時、美女に対すると同様に美青年を賛美し愛を述べることが黙認されていたと考えられる。
近代
イギリスでは、女王
エリザベス1世の崩御により
テューダー朝は断絶し、
ステュアート朝の
ジェイムズ1世が
イングランド王となった。彼は同性愛の嗜好があり、美青年であった
ジョージ・ヴィリアーズを寵臣として
公爵位を彼に授けた。こうして誕生した英国宰相バッキンガムは、「寝室で手柄を立てた」とも言われ、政治家として軍人として無能であった。バッキンガムは次の
チャールズ1世のときにもなお王の重用と権力を保持したが、彼の無能さが
清教徒革命の遠因ともなった。
(続く)
アラブとペルシア
Wikipedia画像へのリンク(シャー・アッバスと少年)
詳細については、
イスラーム世界の少年愛 を参照。
アラブにおいては、その遊牧社会は同時に戦士社会でもあったので、当然、制度的な少年愛が存在したと考えられる。しかし、それが資料的に確認できるのは別の形においてである。
イスラム教は、
ムハンマドの
メッカ攻略を境に、一気に勢いを増し、一世紀と経ないうちに、
アラビア半島は無論、
サーサーン朝ペルシアを滅ぼして
メソポタミアを版図に置き、更に、北アフリカの
マグレブ領域に進出し、
イベリア半島にまで上陸した。
フランク王国はイスラムの進撃を
ピレネー山脈で辛うじて食い止めた。
軍事国家
イスラム帝国は、しかし征服戦争の途上、多数の戦士の死を引き受けなければならなかった。征服者アラブ族においては、成年男子の数が極端に減少し、戦死した夫を持つ寡婦が非常に多数を占めた。為に、ムハンマドは『聖
クルアーン』において、神よりの律法であるとして、男性は妻を六人まで正式に持ってよいとした。
一夫多妻を公式に認めた結果、アラブ族の男女比が通常に戻った時代においては、有力な男性が女を公式に独占するという事態が起こった。『聖クルアーン』は更に、女について、その身体の美を外部に露呈することを厳しく禁じ、素肌や身につけた装飾を、夫や家族以外の男性には、決して見せてはならないと規定した。
旧約聖書を啓典の一つとするイスラム教においても、同性愛は禁じられていた。しかし、男性の性欲は存在するのであり、女の素肌を見ることもできず、資力がなければ妻を得ることもできない状態では、貧しい男は代償的に同性愛へと向かった。より女に似て、髭などが生えておらず、滑らかな肌の可愛い男と求めて行けば、それは必然的に、若い青年、そして少年への性的要求となる。
アラブ伝承文学の集大成とも言える『
千夜一夜物語』には、男女の性愛のパターンが登場するが、そのなかにあって、美しい少年たちと酒を飲み、酔って戯れる詩人の話が出てくる。詩人はカリフの怒りに触れ、罰を受けるが、見事な才知で自己の窮地を救うという話であるが、説明のないこの「美しい少年(若者)たち」とは何であるのか。
『聖クルアーン』はまた精神を刺激・陶酔させる飲食物の摂取を禁じ、酒を飲むことを明確に禁じている。しかしアラブの社会において、公然と酒店が存在し、経営者は
ユダヤ人などが多かったとしても、客は紛れもなく
イスラム教徒であった。
詩人
アブー・ヌワースは、酒を飲むことの喜びを公然とうたい、その作品は今日も残っているが、うたのなかで、当時の酒店には、紅顔の美少年が酒の汲み手として酒席にあり、美少年と同性愛を堪能したことが謳歌されている。
ペルシアの大学者であり詩人である
オマル・ハイヤームは、また『
ルバイヤート』のなかで、酒を飲む喜びを高らかにうたい、サーキー(酒姫)が差し出す酒杯の甘美さをうたう。またサーキーの愛らしさや魅力を褒め称える。サーキーとは、イスラム教世界にあっては、当然に女ではなく、紅顔の美少年であり、ここに同性愛というより、むしろ「少年愛」が公然と存在したことが間接的に判明する。
…
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