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川崎フロンターレ(かわさき - 、Kawasaki Frontale)は、
日本の
神奈川県川崎市にホームを置く、
日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟する
サッカークラブ。
1955年に
富士通サッカー部として設立。
1997年にJリーグへ準会員加盟し、
1999年に同正式加盟。
ホームタウンは
神奈川県川崎市。ホームスタジアムは
中原区の
等々力陸上競技場。練習は同市内
麻生区の
川崎フロンターレ麻生グラウンドを使用する。
チーム名の「フロンターレ (Frontale)」はイタリア語で「正面の、前飾り」を意味し、常に最前線で挑戦し続けるフロンティアスピリッツ、正面から正々堂々と戦う姿勢を表現したものである。ちなみに富士通には
アメリカンフットボールチームの
富士通フロンティアーズ(
Xリーグ所属。1985年創設・チーム名制定)、女子
バスケットボールの
富士通レッドウェーブ(
Wリーグ・1985年創部)、
富士通バレーボール部(
V・チャレンジリーグ男子)があり、すべて川崎市を本拠地としている。
歴史
前身(1955年〜1996年)
富士通サッカー部は中原区の国鉄(現
JR東日本)
南武線武蔵中原駅前にある川崎工場の従業員を中心に設立され、
1967年の
関東社会人リーグ発足時のオリジナルメンバーとなった。
1972年に
日本サッカーリーグ(JSL)の2部に昇格し、
1976年には
GKで主将を務めた
小浜誠二の活躍もあって同1部に昇格した。しかし1部からは2年後に降格し、その後はJSL2部での活動が続いた。この1部昇格時を含む
1973年から
1991年は
八重樫茂生が監督または総監督を務め(中断期を含む)、富士通サッカー部の基礎を築いた。
Jリーグとしてのトップリーグのプロ化には参加せず、
1992年からは企業内チームのまま
旧JFLに参加した。1988-1995年には元中国代表の
沈祥福(
2002年W杯中国代表コーチ、
2004年アテネ五輪予選中国代表監督)が選手・コーチとして活躍し、他チームのプロ化が進むJFLで中位の維持に貢献した。外国人選手を除くと大学のサッカー部からの選手補強が多く、選手は富士通所属の
社員選手となってアマチュア契約でプレーをしていた。
等々力や大和などで主催試合を行い、特にホームタウンを決めずに活動を続ける富士通を母体としたJリーグクラブ創設の動きは水面下で存在し、富士通の工場がある
栃木県小山市などでは誘致の動きも噂されたが、結局富士通本社は自らの手による川崎市でのJリーグ挑戦を選択した。
1996年シーズンでの「
富士通川崎サッカー部」への改称に続いて、10月にJリーグ参入宣言を行い、11月21日に運営会社「
富士通川崎スポーツ・マネジメント」を設立。チームを法人化し、大型補強を開始すると共に、ブラジルの名門サッカークラブ・
グレミオとの業務提携を行う事も発表した。ちなみに、現在のチームカラーが水色と黒なのは、グレミオのチームカラーを模した名残である。また、この年の第76回
天皇杯では3回戦で
ジェフユナイテッド市原を下し、初めて公式戦でJリーグのクラブを倒した。
1997年〜1998年(JFL)
1997年
1997年には現在のチーム名となり、
Jリーグ準会員と認められた。1976年のJSL1部昇格の中心だった小浜が常務として事実上の責任者となり、富士通からの豊富な資金力を利用して、
名古屋グランパスエイトの
中西哲生や
ベルマーレ平塚の
ベッチーニョ等、多くの選手をJリーグの各クラブから獲得し、富士通川崎時代のレギュラーだった
伊藤彰・
小松崎保・
源平貴久などの富士通社員選手を控えに回して、1年でのJリーグ昇格を目指した。リーグの上位グループに着け、後半戦には
野口幸司と
長谷部茂利を追加補強し昇格を狙いに行ったが、同9月の上位チームとの直接対決で
コンサドーレ札幌(5月に続き
バルデスが
ハットトリック)・
東京ガスサッカー部(
アマラオの4ゴール)・
本田技研サッカー部に3連敗。
斉藤和夫監督が辞任するなど終盤でチームが傾き、最終成績で札幌・東京ガスに次ぐ3位に留まり、わずか勝ち点1の差でJリーグ昇格を逃した。
1998年
捲土重来を期した
1998年シーズンには何人かの元Jリーガーが退団する一方、
鹿島アントラーズから
鬼木達が加わり、シーズン序盤にゴールを量産した
ヴァルディネイや途中退団のベッチーニョに代わって入団した
ツゥットなどのブラジル人
FWが活躍した。グレミオ留学から復帰した
佐原秀樹も試合に出場し、社員選手でも
川元正英や
久野智昭がレギュラーを獲得し、チームの総合力向上に成功した。最終節の
ソニー仙台FC戦で敗れてJFL優勝は東京ガスにさらわれたが、JFL準優勝となり、
J1参入決定戦に参戦した。しかし、アウェイでの一発勝負となった1回戦の
アビスパ福岡戦(
東平尾公園博多の森球技場)では、後半ロスタイムに同点とされると、延長前半13分に
Vゴールにより逆転負けを喫し、再びJ1参入を逃すことになった(
博多の森の悲劇)。
1999年(J2)
Jリーグディビジョン2 (J2) で迎える事になった
1999年は
岩本輝雄の補強が注目されたが、前年の昇格失敗でも契約を延長した
ベット監督のチームは序盤で出遅れた。しかし、
メキシコシティオリンピックで銅メダルを獲得し、そのチームの主将だった八重樫から就任を要請された
松本育夫新監督が4月の第6節から指揮を執ると一気に盛り返し、新加入の
ティンガや
柏レイソルから途中補強した
DF森川拓巳などが勝利に貢献した。
松本監督の構想から外れた岩本などの出場機会が減ることもあったが、チームは順調に勝ち点を伸ばし、
11月5日の
サガン鳥栖戦(等々力)で
浦田尚希が延長
Vゴールを決めて2-1と勝利し、J2の2位以内を確定して悲願のJ1昇格を果たした(
11月8日には
FC東京が
大宮アルディージャに敗れ、他力でのJ2優勝も決定)。開幕当初の岩本に代わり、松本新監督により再び主将に任命された中西による
インターネット上の日記は、前年のJ1参入決定戦を取り上げた
金子達仁のルポルタージュと合わせて『魂の叫び』として出版され、引退後の中西がメディアで活躍する契機となった。また、この年には初のマスコットとして
ふろん太が発表され、5月には練習場が東京都
稲城市にある富士通南多摩工場の敷地内の「富士通南多摩グラウンド」(2005年の工場閉鎖後に稲城市営南多摩スポーツ広場に移管・改称)から、川崎市
麻生区片平にある
麻生グラウンド(旧・
大東学園高等学校グラウンド)に移転。さらに市内全体での広報活動を強化し、川崎市も市民後援会を発足させるなど行政の後押しも加わった。
2000年(J1)
J1での活躍が期待された
2000年シーズンは惨憺たる結果となった。松本監督は社長となり、後任としてブラジル人ヘッドコーチの
ゼッカが新監督に就任。現有戦力の大幅な見直し(岩本のヴェルディ川崎移籍など)と有力選手の大量獲得(鹿島から
鈴木隆行・
マジーニョ・鬼木達(再移籍))、
パラグアイ代表MFアルバレンガ、元
日本代表FW
森山泰行等)を行ったが、従来の選手と新加入選手との融合が全く図れず、実権のない社長に棚上げされた松本と副社長兼強化責任者の小浜の対立が表面化し、富士通出身の
杉本聰ゼネラルアドバイザー(前社長)により小浜副社長中心の体制で運営を進めることが確認されるなど、チーム内での不協和音が増加した。
また、外国人を入れ替える方針によりFC東京へと放出(
レンタル移籍)したFWツゥットが大活躍し、同期昇格ながら低迷する川崎とは対照的にFC東京がJ1で躍進した原動力となった事も、サポーターから生じた厳しい批判の一因となった。チーム再建を目指した二度にわたる監督の交代なども逆に混乱を増幅させ、結局J1の年間総合順位では最下位(16位)となって、わずか1年でJ2へ降格することになった(Jリーグで入れ替え戦始まって以来、初の1シーズン降格チームとなった)。この年の川崎の失敗は大量補強による機能不全の悪例として、その後のJ1昇格クラブへの反面教師となった。
また、この年限りで
東京都調布市の
東京スタジアム(現:味の素スタジアム)への本拠地移転を表明していたヴェルディ川崎(現
東京ヴェルディ)との「
川崎ダービー」がようやく実現したものの、さほど盛り上がりは見られなかった。
しかし、
ヤマザキナビスコカップでは鹿島に次ぐ準優勝となり、入団2年目のFW
我那覇和樹が優秀新人賞を獲得した。ファーストステージ最終節では当時首位だった
セレッソ大阪を浦田の延長Vゴールにより2-1で下して眼前での優勝を阻止し、1stステージでは関西4チームに負けなかったなど、明るいニュースもあった。
そして、このシーズン後に再びチーム改革が行われ、松本社長・小浜副社長のほか、この年の主将だった
奥野僚右、JFL時代からチームの顔だった中西など、多くの選手やスタッフがクラブを去った。
2001年〜2004年(J2)
2001年
2001年には、チーム再生プロジェクトが始動し、新監督・
堀井美晴のもと、前年に札幌へレンタル移籍していたブラジル人FW
エメルソンを
サンパウロFCから完全移籍により獲得して1年でのJ1返り咲きを狙った。しかし、前半戦で黒星を重ねて昇格争いから事実上脱落すると、シーズン後半の7月からは
石崎信弘新監督の就任、エメルソンの
浦和レッドダイヤモンズ移籍で再出発を強いられた。その中で、新人DFの
伊藤宏樹がJ2リーグ最終戦の出場停止以外、全ての公式戦にフル出場したのは好材料だった。そしてこの年の11月、約半数の選手を戦力外とする異例の人事を断行したが、その後に行われた第81回天皇杯ではベスト4の成績を収めた。その際に出場したメンバーの半数以上が戦力外通告を受けていたため「
リストラ選手の活躍」と話題になった。なお、最終節の
モンテディオ山形戦では
浦上壮史の好セーブ連発と我那覇の延長Vゴールにより1-0で勝利し、山形のJ1昇格を阻止した
[正確には、0-0のまま延長戦に突入した時点で山形のJ1昇格失敗とベガルタ仙台の逆転昇格が決定していた]。
一方、クラブでは経営陣のトップが一新された。富士通からの支援資金が削減される中、新社長の武田信平をはじめとした首脳陣は長期的視野に立った運営に着手、2002年には運営会社名を「富士通川崎スポーツマネジメント」から「株式会社 川崎フロンターレ」へ変更し、川崎市や他企業およびサポーター持株会などからの資本受け入れを実施した。また、川崎市も資本参加に本格的に乗り出し、他方で市民後援会とフロンターレファンクラブの統合などによりクラブとの関係を強化していった。
2002年
2002年、
ベンチーニョ、
マルキーニョ、
マーロン、
アレックスなどのブラジル人選手が攻撃を担い、中盤には
ヴィッセル神戸からレンタル移籍した
茂原岳人が加わった。さらに、
岡山一成をDFとして獲得し守備力を強化。石崎監督のプレス戦術も浸透し、勝ち点を多く積み上げたが、前半戦の出遅れが最後まで挽回できず、終盤で昇格争いから脱落した。
2003年
2003年はブラジルの
パルメイラスから獲得したFW
ジュニーニョが我那覇とともに前線で活躍、また鹿島から移籍したDF
アウグストも攻守にわたりチームをまとめ上げた。またかつての強敵だった元札幌のFWバルデスを獲得したが、既に高齢だった事もあり十分な活躍は出来ず、シーズン途中で退団した。日本人の新加入選手では、前年J1に昇格した
大分トリニータから石崎監督のためにと移籍し再びJ2でプレーした
山根巌、新人ながら主に途中交代要員として全試合でベンチ入りした
中村憲剛などのMFが多くの試合に出場した。だが、シーズンを通じての引き分けの多さが響き、最終的にはまたしても「勝ち点1」差での3位に終わり、石崎監督はこの年限りで辞任した。しかし天皇杯ではJ1クラブを次々と倒し、2002年はベスト8、2003年もベスト16とその実力を示し、「カップ戦に強いフロンターレ」を印象付けた。
2004年
石崎の後任監督として鹿島でコーチを務めていた
関塚隆を招聘、また同じく鹿島で長年プレーしたベテランDF
相馬直樹を獲得。さらに
アルビレックス新潟から2年連続でJ2リーグ得点王に輝いた
マルクスを補強し、戦力に厚みを増したこのシーズンは、前年以上の圧倒的な攻撃力で開幕直後からJ2で首位を独走。同年
9月26日に
那珂市・
笠松運動公園陸上競技場での
水戸ホーリーホック戦に2-1で勝利し、残り8試合というスピード記録で5年ぶりのJ1昇格を決定した。さらに同年
10月2日に地元で開かれた
横浜FC戦にも4-0で完勝し、1999年以来5年ぶり2度目のJ2優勝を確定。これも残り7試合というスピード記録だった。また同シーズンはジュニーニョがハイペースでゴールを量産、最終的には39試合出場で37得点を記録してJ2得点王に輝いた。
その後は「勝ち点100、得点100」を目標に残りゲームを戦ったが、
11月23日のホームゲーム最終戦となる
ヴァンフォーレ甲府戦での3-0の勝利でこれを達成し、リーグ最終戦となる
11月26日の鳥栖戦(
鳥栖)も3-0で勝利して、最終勝ち点105、得点104の「ダブル・トリプル」でシーズンを締めくくった。また、この年の天皇杯では4回戦で神戸を3-2で降し、5回戦では鹿島に敗れベスト16に終わったものの、一時は2点差のリードを奪うなどJ1チームを相手に互角の勝負を展開した。
2005年〜2009年(J1)
2005年
J1昇格を機に、地域密着にさらに力を入れるため、エンブレムから「FUJITSU」という企業名を外し、5年ぶりのJ1シーズンを迎えた。
2000年の反省を踏まえ、前年J2リーグを圧倒的な力で勝ち抜いた現有戦力をベースにし、若干名の補強選手を加えて臨んだが、序盤戦は試合終了間際に失点を喫する試合が続き、中盤戦は攻撃陣に怪我人が相次いだ影響もあり勝ちきれない試合が多かった。しかし、8月の中断期間中に行ったキャンプで戦術を熟成した結果チーム状態が好転、終盤戦ではチーム新記録となる6連勝を記録し、鹿島に初勝利するなどの快進撃を見せた。その間には、地元
川崎市出身のDF
箕輪義信が日本代表に招集され、一躍注目を浴びた。最終戦で
ガンバ大阪に敗れ(この勝利でガンバは逆転優勝を決めた)、最終成績は8位。福家三男GMがシーズン当初に掲げた目標の5位とは勝ち点差3、賞金獲得圏の7位以内には得失点差1でわずかに及ばなかったが、最低条件の「J1残留」を裕にクリアする成績は翌シーズンへの弾みとなった。その後天皇杯でも2年ぶりにベスト8へ進出するなど、昇格初年度としては健闘が目立った一年だった。
2006年
アウグストが退団、相馬・久野が現役を引退し手薄となった左サイドに新外国人
マルコンを獲得。開幕戦の新潟戦で我那覇のハットトリックなどにより6-0、第2節の
京都パープルサンガ戦でもジュニーニョのハットトリックを含む7-2で下し、開幕2試合で13得点のJリーグ新記録を打ち立てて好スタートを切った。
3月末には所属選手の不祥事が発覚するトラブルがあったもののその後も好調をキープし、
ドイツW杯前の中断期間を暫定ながら首位で折り返した。中断期間中に攻撃の要の1人だったマルクスが東京Vに移籍したが、その補充としてMF
マギヌンを獲得し、引き続き厚みのある攻撃力を武器に優勝争いを繰り広げた。ドイツW杯終了後に
イビチャ・オシム監督が就任した日本代表に我那覇、続いて中村憲剛が初招集され、それぞれ代表デビューを果たした。終盤浦和やG大阪との直接対決で一時調子を落とすも、最終節でG大阪を抜いて2位で終了。J1昇格2年目とは思えない結果を残した。ジュニーニョ、我那覇、中村、
谷口博之の4選手がリーグ戦で2ケタ得点を挙げるなど、チーム合計84ゴール(リーグ1位)という圧倒的な攻撃力を全国に知らしめた。中村と谷口は同年のJベストイレブンに選出。また、シーズン18得点を叩き出した我那覇が日本人得点王(タイ記録)となった。
昨季の天皇杯で優勝し既に
AFCチャンピオンズリーグ(ACL)出場権を得ている浦和がリーグ戦で優勝したため、規定により
2007年度のACLへの出場権を獲得した(天皇杯前年度優勝クラブとJ1年間リーグ優勝クラブが同一クラブの場合、J1の年間準優勝クラブが繰り上げ出場となるため)。
2007年
シーズン前最初の練習試合で新加入の
フランシスマールが左膝
靱帯断裂の重傷を負ったが、3月3日のJ1リーグ開幕戦(等々力)で鹿島アントラーズを下し、4月15日の第6節(等々力)にはチーム史上初めて清水エスパルスに勝利、続く4月21日に
埼玉スタジアム2002で行われた第7節では、浦和レッズのホーム連続不敗のJリーグ記録を25試合で止めた。
[同年、ガンバ大阪がタイ記録を樹立。]
ところが、浦和戦でシーズン初ゴールを決めた我那覇和樹が、試合後の23日に受けた疲労回復の静脈注射(点滴)がJリーグの
ドーピング(禁止薬物使用)規定違反と認定され、自粛期間を含めて公式戦6試合の出場停止、チームにも1000万円の罰金となった。我那覇は5月19日の第12節・大分トリニータ戦から復帰したが、その後も精彩を欠き、年間を通じて1ゴールのみに終わった。この問題はその後も尾を引き、結局は2008年に
スポーツ仲裁裁判所で審理される事になったが,仲裁の結果は我那覇にドーピングの事実が認められないとされ、かつ、Jリーグ側に仲裁費用の負担を求める異例の裁定となった。
勢いに冷水を浴びせられた川崎は、以後のリーグ戦で安定感を欠いた。
多摩川クラシコとして共同キャンペーンを展開し盛り上げを計ったFC東京戦の2試合(5月6日・第10節(等々力)で5-2、10月28日・第30節(
味の素スタジアム)で7-0)など大量点で圧勝する試合と、守備が耐えきれずに接戦で勝ちきれない試合が錯綜した。名古屋から獲得したGK
川島永嗣は全34試合フル出場を果たし、我那覇に代わり先発で起用されたプロ2年目の
鄭大世は12ゴールと飛躍、22ゴールのジュニーニョは2004年のJ2に続きJ1でも得点王に輝いたが、我那覇のゴール相当分が減少しながら66得点でリーグ2位の攻撃力と、リーグ11位の48失点のアンバランスが解消できず、8月から9月の不調でリーグ優勝が遠のいてしまった川崎は、前年を下回る5位でシーズンを終了した。
一方、初出場のAFCチャンピオンズリーグ(ACL)のグループリーグでは順調に勝ち点を重ねた。5月11日の第5節、等々力での
アレマ・マラン戦に3-0で勝利し、F組1位でJリーグ勢初のグループリーグ突破を決めた。
[この試合後にはサポーターが選手らと一緒になって、応援席に吊るされたくす玉を割り、フジテレビジョン『あいのり』のパロディー「はつのり」と書かれたTシャツを着用して祝福した。]しかし、9月19日と26日の準々決勝では
セパハンにPK戦で敗退した(国際試合の項も参照)。
また、この合間に行われた9月23日のJ1リーグ第26節・柏レイソル戦では、アウェー・イスファハンでの
セパハンとの第1戦から先発選手8人を入れ替えて臨み、0-4と大敗した。イランからの帰国時に
UAEのドバイまでのチャーター便費用を補助していたJリーグ専務理事(当時)の
犬飼基昭は、ACLプロジェクトチームを主宰していたこともあり「ベストメンバーの出場を求めた自分達への背信行為であってサポーターへの裏切り行為だ」と主張し怒りを顕わにした。川崎側は当該試合の前にJリーグ事務局へ予めベストメンバー規定に抵触していない旨を事前確認しており、この批判は選手起用への越権介入だと反発した川崎サポーターとの溝はJリーグドーピング冤罪事件の件もあってさらに深まった。また、川崎は勝ち残っていた浦和に情報を提供し
[特に、時差の関係で川崎の敗北が決まった後も、サウジアラビアのリヤドにいた川崎のスカウトは準々決勝のアル・ヒラルvsアル・ワフダ戦を観戦し、勝ち上がったアル・ワフダのデータを浦和に提供した。アル・ワフダは準決勝でセパハンに敗れたが、JリーグチームのACL優勝を目指すための美談として伝えられた。]、浦和は決勝でセパハンを下して優勝した。優勝後、浦和は川崎の協力について感謝すると述べた。
J1リーグ優勝が難しくなり、ACLチャンピオンズリーグでも敗退が決まると、ナビスコ杯と天皇杯が残された。準々決勝から登場した
[AFCチャンピオンズリーグ出場のためにシード。]ナビスコ杯ではヴァンフォーレ甲府と横浜F・マリノスを破って7年ぶりに決勝に進んだが、11月3日の決勝(国立)ではガンバ大阪の
安田理大にゴールを奪われて0-1で敗れた。その直後から始まった天皇杯でも6年ぶりのベスト4進出を果たしたものの、12月29日の準決勝で鹿島アントラーズに0-1で敗れ、シーズンの大きな目標だった「タイトル獲得」はあと一歩でならなかった。
日本代表では、中村憲剛がオシム監督から厳しい指摘を受けながらも起用され続け、7月の
AFCアジアカップでは準決勝まで5試合連続で先発起用された。また、GK川島もこの大会に招集された(出場はなし)ほか、代表候補合宿には
森勇介と
黒津勝も初招集された(正式メンバー登録はならず)。FW鄭大世は本人が強く希望していた
サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表(北朝鮮代表)に初選出され、6月の
東アジアサッカー選手権2008予選大会では3試合8得点で得点王となり、翌年2月の本大会進出に貢献した。
2008年
シーズン前に開催された新体制発表会見は、
ミューザ川崎にて初開催され、初タイトルとフェアプレイ賞獲得が公約された。
2008年シーズンの補強として、東京Vへ期限付移籍していた
吉原慎也、
フッキらがチームに復帰し、
ジェフ千葉より
山岸智を獲得した。また、新人は
青山学院大学からMF
田坂祐介、
駒澤大学からMF
菊地光将、
野村證券の内定を断ってプロサッカーへの道を選択した
早稲田大学のDF・
横山知伸、下部組織よりトップチームへ昇格のDF
吉田勇樹(後にU-19日本代表に選出)らが加入した。
フッキの復帰や山岸の加入に伴い、攻撃的サッカーの熟成が期待されるも機能せず、さらには起用法を不満としたフッキが4月2日に電撃退団し、前年のレンタル移籍先であった東京Vへ完全移籍した。チームの苦戦による心労も重なり、またかねてから罹患していた持病の
不整脈の悪化もあり、関塚は4月9日の検査入院の休養を経て、同月24日には監督を辞任した。これを受けてヘッドコーチの
高畠勉の監督昇格が発表された。
一方、5月27日には
我那覇和樹が、
スポーツ仲裁裁判所(CAS)にJリーグが科した処分(ドーピング禁止規定違反)の取り消しを求めた問題で、スポーツ仲裁裁判所は我那覇和樹の訴えを認める裁定を下した(ただし、Jリーグ側は誤訳を盾に我那覇本人、及び当時のチームドクター後藤氏への正式な謝罪は未だ行われていない)。
6月21日には
箕輪義信を札幌へ期限付で放出するも、7月8日にはサントスMFの
ヴィトール・ジュニオールを期限付移籍で獲得し、初出場のアウェイでの
浦和レッズ戦で1ゴール・1アシストと華やかなデビューを飾った。チームは徐々に上向きになり復活の兆しが見えてきた。7月29日にはFW
都倉賢をザスパ草津に期限付で放出するも、8月5日にはサントスのFW・
レナチーニョを期限付移籍で獲得した。
8月には川崎フロンターレ後援会の会員数が初の2万人を突破。また、この頃から
等々力陸上競技場の老朽化および混雑による危険性が声高に叫ばれるようになり、行政に対し競技場の全面改修を求める請願書の提出の一環として、シーズン終盤に10万筆目標の署名活動が展開された。
シーズン中は数々の人事面での問題(特にフッキがらみ)が噴出するも、適切な補強とチーム一丸となった戦いの結果、リーグ戦は最終的に準優勝でシーズンを終え、2009年度の
AFCチャンピオンズリーグへ2年振り2回目の出場権を獲得した。
フォーメーション(J League Matchday 34)
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2009年
AFCチャンピオンズリーグへ出場する2009年シーズンは、体調が回復した関塚が再び監督に就任、昨年途中から指揮を執った高畠は再びヘッドコーチに就任した。
また、長年に渡って主力として活躍した我那覇と箕輪がそれぞれ
ヴィッセル神戸、札幌に完全移籍したほか、前年に戦力外となった
原田拓が
ロアッソ熊本へ、
大橋正博が
Kリーグ江原FCへ、レンタル移籍だった
都倉賢(
ザスパ草津)、
西山貴永(
ベガルタ仙台)が完全移籍するなど7選手が退団。また、
FC東京にレンタル移籍していた
佐原秀樹のレンタル期間が1年延長された。
主な補強は
セレッソ大阪へ期限付移籍していた
相澤貴志の復帰、新戦力として、
特別指定選手として
2004年・
2005年に所属していた
清水の
矢島卓郎を完全移籍で獲得(事実上の古巣復帰)、レンタル移籍だったヴィトール・ジュニオールを完全移籍で獲得、ジュニーニョも契約期間延長するなど攻撃陣を中心に選手を獲得した(なお、前年に東京Vのレンタル移籍から復帰した吉原慎也が
ジュビロ磐田へ再度レンタル移籍)。
…
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