隼人(はやと)とは、日本古代において、
薩摩・
大隅(現在の
鹿児島県)に居住した人々。はやひと(はやびと)、はいととも呼ばれる。風俗習慣を異にして、しばしば
大和の政権に反抗したが
ヤマト王権の支配下に組み込まれた。
なお、近世に至って、尚武の気風から、
薩摩藩士や
鹿児島県の男子を「薩摩隼人(8世紀以降の呼称、それ以前は
阿多隼人)」と呼称するが、その祖とされる
御家人層などは関東武士が多いなど古代部族としての隼人との直接の関係は薄い。
概要
古く
熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが、「熊襲」という言葉は
日本書紀の
日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は
平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。
5世紀ごろに服属したといわれ、居住地から、以下の主要な部族があったことが窺える。
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大隅隼人
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後世、大隅郡(大隅半島北部、特に「大隅郷(現在の志布志市から曽於市大隅町)」周辺か)と呼ばれる地域に居住した部族、主領域を肝属平野とする部族であるとする説
[『鹿屋市史 上巻(1967年版)』ではこの説が採用されている。]もある。『日本書紀天武天皇十一年(682年)』の記事が有名で、この時期には大和朝廷に服属していたものと解される。
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阿多隼人
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後世、薩摩国阿多郡と呼ばれる地域(現在の日置市南部から南さつま市南西部にかけての地域)に居住した部族。『日本書紀天武天皇十一年』の記事に記され大隅隼人同様、この当時には、大和朝廷の強い影響下にあったと考えられる。702年薩摩国設置後の事跡は、薩摩隼人の呼称が用いられる(『続日本紀』和銅二年(709年)など、ただし、別の部族とする説もある)
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多褹(たね)隼人
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種子島と屋久島に居住した部族。
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甑隼人
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甑島に居住した部族。『続日本紀』神護景雲三年(769年)の条に記事。
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日向隼人
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日向国に居住した部族。『続日本紀』和銅三年(710年)に部族の首長である曾君細麻呂が服属し外従五位下(少納言や上国の守相当)に叙されたとの記事がある。ただし、これは、713年大隅国が分離される前の記事(曾君細麻呂が服属したので国司を置くことができた可能性が大きい)であり、「曾君」の名から、後に大隅国囎唹郡と呼ばれる地域(現在の霧島市周辺)を主領域とした部族と考えられる。この場合、大隅隼人の別称である可能性がある。ただし、『宇佐神宮史』養老三年(719年)の条には「大隅日向隼人襲来打傾日本國」の記事(「隼人の反乱」の前哨か)が見られるなど詳細は不明である。
服属後もしばしば朝廷に対し反乱を起こし、大隅隼人などは
大隅国設置(
713年)後にも反乱を起こしたが、
隼人の反乱と呼ばれる大規模な反乱が
大伴旅人によって征討(
721年)された後には完全に服従した。ただし
稲作がふるわないこともあり、
班田収授法は
800年に初めて実施された。
古くから
畿内に移住させられ、宮中で守護に当たるほか、芸能、
相撲、竹細工などを行うようになった。特に
山城国(
京都府)南部に多く定住し、大隅隼人の住んだ現在の
京田辺市には「大住」の地名が残る。
律令制下においては、
隼人司(
衛門府、後に
兵部省)が、これらを司った。
言語・
文化に関しては、他の地方と大きく異なっていたとされる。特に畿内では、彼らの歌舞による「隼人舞」が有名であった。また
平城宮跡では彼らが使ったとされる「隼人楯」が発掘されており、これには独特の逆S字形文様が描かれている。
肥前国風土記によると、
五島列島にも隼人に似た人々がいたという。また
新唐書によると「邪古・波邪・多尼の三小王」がいたというが、波邪は隼人のことであろうとされている。
考古学的には、鹿児島県・
宮崎県境周辺に
地下式横穴墓が分布し、これを隼人と関係づける説もある(隼人全体からすると一部にすぎないと思われる)。
日本神話では、
海幸彦(火照命または火闌降命)が隼人の阿多君の祖神とされ(
海幸山幸)、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たのが隼人舞であるという。この説話は、隼人の服属の起源を述べたものとされるが、むしろ説話自体が隼人の説話からとり入れられたものと見られる。説話の類型(大林太良ら)などから、隼人文化は
オーストロネシア語系文化であるとの説もあるが、直接的証拠はない。
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