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A340-300。長距離航空路に就航している代表的な旅客機のひとつ。]]
旅客機(りょかくき、りょかっき
[「りょきゃくき」という読み方は辞書にない。大辞林:りょかくき、大辞泉:りょかっき])とは、主に
旅客を
輸送するために製作された民間用
飛行機(
民間機)のこと。個人所有の小型機や企業が使用する
ビジネスジェットなどは含まない。
貨物の輸送が主用途である
貨物機とも一般には区別されるが、貨客混載で運用される(コンビ conbi、コンビネーション combination )場合や、旅客輸送仕様と貨物輸送仕様とを切り替えられるもの(コンバーチブル convertible )もある。また、民間貨物機には旅客機の設計変更により製造されているものもある。
旅客機は通常、あらかじめ決められた
時刻表に従って
航空会社により定期的に運航され、乗客は
運賃を支払って
搭乗する。不定期に運航される
チャーター便の機材として使用されることもある。
旅客機の歴史
ライト兄弟が人類初の動力飛行の成功したのは
1903年12月17日である。最初の頃の飛行は
冒険に近く、一般の人の旅行に使われるレベルではなかった。航空機の信頼性が向上し、旅客機として商売が成り立つようになるのは、
第一次世界大戦後のことである。
なお、ソ連でも
イリューシン、
ツポレフなどで旅客機が製造され、
共産主義各国で使用されたが、今の所ここでは割愛する。
命がけの乗り物:黎明期
旅客機の歴史が始まったのは、
第一次世界大戦後の事である。大幅な軍縮によって解雇された軍のパイロット、民間に放出された軍用機によって、旅客輸送事業は始まった。
爆撃機や
偵察機を改造した機体によって、荷物や乗客を運んだ。
1919年2月5日、
ベルリンと
ワイマールを結ぶ世界初の定期航空便が生まれた。そして3日遅れて
パリと
ロンドンを結ぶ初の国際航空便が生まれた。当時の乗客は戦後処理を迅速に進めるための政治家、外交官、その他緊急目的でやむを得ず飛行機に命を預ける事になった民間人、そして自らの命を賭けた冒険に大金を払う金持ちであった。偵察機や爆撃機を改造した機体の乗客席はオープンキャビンであり、風をまともに受けた。乗客はパイロット同様に安全ヘルメットと風防眼鏡を着用した。やがて普通の服装で搭乗できる密閉されたキャビンの旅客機が登場するが、まだまだ安全性にはほど遠く、危険な乗り物であった。安全で豪華な空の旅を希望する者に対しては、
飛行船がそのニーズに応えた。既に戦前においてツェッペリン飛行船が、35,000人もの乗客を無事故で運んだ実績があった。
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ファルマンF.60ゴリアト:初飛行1919年、巡航速度130km/時、乗客12〜14名。爆撃機を改造した、世界初の密閉されたキャビンを持つ旅客機。パリ・ロンドン間を2時間50分で結んだが、試験的なものであり不定期便であった。
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ユンカースF13:初飛行1919年、巡航速度145km/時、乗客4名(ただし乗客の体重によっては3名に制限)。世界最初のその目的で設計された民間旅客輸送機で、全金属機。20年代の旅客機のベストセラーとなった。
贅沢で優雅な乗り物:1930年代
1930年代頃から技術の進歩により、航空機の信頼性・安全性が認められ、黎明期のような「命がけの飛行」では無くなり、本格的に利用され始めた。その一方、飛行船は
1937年の
ヒンデンブルク号爆発事故をきっかけに危険性が喧伝され、飛行機と比較しての速度の遅さもあって、利用されなくなった。この頃旅客機を利用する乗客は、地位と財力を併せ持った一部の人に限られ、座席クラスも現在の
ファーストクラス(一等)に相当するものしか無かった。飛行中に提供される食事は必ず提供される直前に調理または加熱され、白いテーブルクロスのかけられた食卓で銀製の食器を使用するなど(マーチンM130)、現在のファーストクラスをはるかに上回る贅沢さであった。なおこの時代、大洋を横断する路線は飛行時間が極端に長かったこともあり、万一の際の着水を想定して
飛行艇が使用された。
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ハンドレページHP42:初飛行1930年、巡航速度160km/時、乗客24〜38名。複葉4発の陸上機で8機製作された。豪華さ以外に運行上の事故ゼロの安全性を誇った。
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ユンカースJu52/3M:初飛行1932年、巡航速度245km/時、乗客15〜17名。単葉の3発機。派手さは無いが堅実な設計で、第二次世界大戦まで輸送機としても生産され総生産数は約5000機。
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マーチンM130:初飛行1934年、巡航速度262km/時、乗客14〜30名。パンアメリカン航空が太平洋横断路線用に3機購入した4発飛行艇。近距離では乗客30名を乗せるが、海を越えるときは定員を14名として、ゆったりした旅を提供した。サンフランシスコ-マニラ間は島伝いに5日かかり、乗客は毎夜各島のホテルで宿泊し翌朝再度搭乗した。その豪華な旅は「チャイナ・クリッパー」の名と共に語り草になっている。
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九七式飛行艇:初飛行1936年。元来は軍用機であるが、民間型も生産され、当時日本の信託統治領であったサイパン・パラオ方面への定期便に就航した。この日本初の民間航空便の開拓物語は、『南海の花束』(東宝)という映画にもなった。
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長距離国際線の確立:1940年代
第二次世界大戦後アメリカ国内で航空旅行の需要が増大し、新しい機材の開発が活発に行われ、より速く・より快適な機体が作られた。この時代まで旅客機は酸素マスクの必要無い低空を飛んでいたが、高空でも快適な環境を提供できる
与圧室が実用化され、空気の乱れの少ない高空を高速で飛ぶことができるようになった。旅客機は第二次世界大戦中もアメリカ国内で
輸送機として大量に生産・使用され、4発大型機の安全性が確認された。その結果 大洋横断路線にも陸上機が大量に進出し、4発陸上機による長距離国際線が確立された。これ以後 旅客機としての飛行艇は生産されなくなった。
ジェット旅客機の誕生:1950年代
ジェット機は
第二次世界大戦中に
ドイツと
イギリスで
戦闘機として実用化された。プロペラ機の2倍近い速度が出せるジェット旅客機は、戦後まずイギリスで中型機
コメットとして誕生した。プロペラ機特有の振動から開放された快適さと高速で画期的な飛行機とされたが、与圧室の強度不足から相次いで空中爆発事故を起こしたり、乗客36名(当時の4発プロペラ機の半分)など中途半端な機体であった。本格的ジェット時代はアメリカの
ボーイング707の誕生によって開かれた。その後
ジェットエンジンは燃費の悪いターボジェットから燃費の良いターボファンジェットに進化し、航続性能も大幅に改善された。
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デハビランド・コメット:初飛行1952年、巡航速度720km/時、乗客36名。世界初の実用4発ジェット旅客機。世界初のジェット旅客機だったが、気圧の低い高々度での与圧の繰り返しによる金属疲労が原因の墜落事故(コメット連続墜落事故)が多発した。これらの問題を解決したコメット4が1958年に就航したが、下記ボーイング707などの本格ジェット旅客機に主役の座を奪われた
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ボーイング707:初飛行1957年12月20日、巡航速度973km/時、乗客140〜200名。従来のプロペラ4発機の2倍の速度と2倍の搭載量を持つ真に画期的な4発ジェット旅客機。運用する航空会社にとっても「確実に儲かる」機体であった。
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ダグラスDC-8:初飛行1958年、巡航速度マッハ0.82、乗客140〜200名。ボーイング707に対抗して作られた4発ジェット旅客機で、707と激しく競争した。設計が後になった分 新しい技術が使われている。特に脚が長く、派生型では胴体の大幅な延長が可能だった。
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コンベア880:初飛行1959年、ボーイング707やDC-8の対抗機として開発された。初期のジェット旅客機の中では最速のスピードを売りにしていたが、実際には狙った通りの性能が出ず、また操縦性にも難があった。最大乗客数は110名程度。後継機として、コンベア990がある。
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シュド・カラベル:初飛行1955年、巡航速度805km/時、乗客80名。ヨーロッパ大陸内をこまめに飛び回る双発ジェット機として作られた。機体の一部や主翼などはコメットと共通、エンジンも英国製だが、三角形の客室窓やエンジンの配置にフランス製らしさが溢れるカワイイ機体。エンジン後部マウント式旅客機の1号機。
旅客機の大衆化時代:1960年次以後
第二次世界大戦後の欧米や日本では、安定した
原油価格という条件下で経済成長が進んだ。これまで一部の金持ちや会社の重役の
出張にしか使われなかった旅客機の運賃(航空運賃)が、一般庶民でも利用できるような価格まで(相対的に)低下してきた。この結果、大洋航路の大型
客船は輸送主体の使命を終え、船旅自体を楽しむ回遊目的の
クルーズ客船としてのみ生き残っている。また中・短距離の路線に進出した旅客機は
鉄道と競合し、一時欧米では長距離列車無用論が唱えられるほどであった。現在は
新幹線や
TGVに代表される
高速列車と旅客機は世界各地で競合しており、乗客にとって歓迎すべきサービス合戦を行っている。
ボーイング747に代表されるワイドボディ機の大量進出は、国際線の
エコノミークラスの運賃を劇的に低下させ、庶民が簡単に
海外旅行を楽しめる時代を作り出した。
その一方、
超音速旅客機も各国で開発され、英仏が共同で開発した
コンコルドのみが実用化されたものの、旅客機の大衆化という時代の流れとは完全に乖離しており、ごく僅か用いられただけで運行も終了した。
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フォッカー・F27フレンドシップ:初飛行1955年、巡航速度480km/時、乗客56名。オランダの名門フォッカー社が製作した短距離用双発ターボプロップ機。日本では全日空が25機を導入し日本の空を飛び回った。高翼で窓からの見晴らしが良く、乗客からは好評だった。
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日本航空機製造YS-11:初飛行1962年、巡航速度474km/時、乗客64名。日本が戦後独力で開発した唯一の旅客機。地方空港でも使いやすいように離着陸性能に重点を置いて設計された双発ターボプロップ機。日本航空機製造はYS-11を作るために設立された会社だが、結局赤字のまま生産は182機で打ち切られた。昭和40年代以降、長く日本の地方を結ぶ航空路線で活躍。法令改正で空中衝突防止装置設置が義務付けられることになったため2006年に日本の商業路線からは引退したが、機体の設計は優秀・頑丈で、現在でも充分飛行可能。
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ボーイング727:初飛行1963年、巡航速度964km/時、乗客189名(最大)。中・短距離路線に登場した本格的ジェット旅客機。エンジン3基を全て機体後部に集めたリアジェット方式で、非常にスマートに見える機体。離着陸性能を良くするため、主翼前縁にはクルーガー・フラップとスラットが付き、後縁にはトリプル・スロッテッド・フラップ(3枚にすだれのように開くフラップ)という強力な高揚力装置を有する。
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ボーイング747ジャンボジェット:初飛行1969年、巡航速度910km/時、乗客350〜594名。アメリカ空軍の大型輸送機計画でロッキードC-5Aの後塵を拝したボーイング社が、その技術を利用して、パンアメリカン航空の強い要請を受けて製作した4発ジェット機。客室内に平行した2本の通路を有するワイドボディ機の第1号で、慣性誘導装置等の最新鋭の機器を搭載して登場した。一部二層の客室を持つ大きなキャパシティーでたくさんの乗客を一度に運び、長距離国際線のコストを大きく下げた立役者。
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ダグラスDC-10:初飛行1970年、巡航速度876km/時、乗客206〜380名。旅客機の名門ダグラス社が生産した3発ワイドボディ機。エンジンは2基が主翼に、1基が垂直安定板の中間に設置されているのが特徴。トライスターとの激しい販売競争に勝利したが、その過程でダンピング販売や貨物室ドアの欠陥を改修しないままの販売と、それによる墜落事故発生などの汚点を残してしまった機材でもある。派生型として米空軍向け空中給油機KC-10があり、後継機はMD-11。
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ロッキードL-1011 トライスター:初飛行1970年、巡航速度マッハ0.85、乗客255〜326名。DC-10と同時期に同様な条件で設計された3発ワイドボディ機。中央エンジンは胴体後端に設置されデザイン的にはDC-10よりすっきりしている。先進的な自動操縦装置を備えたハイテク機だったが、販売面ではDC-10に太刀打ちできずに苦戦。事態を挽回しようとダンピング販売や、日本への売り込みに際し、政治家を利用したロッキード事件等の賄賂攻勢を行ったが、結局販売は伸びず、赤字のまま250機で生産が打ち切られた。
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エアバスA300:初飛行1972年、巡航速度875km/時、乗客200〜3200名。ヨーロッパ域内を乗客300名を乗せて飛ぶことを想定して設計された双発ワイドボディ機。この機体を生産するためにヨーロッパ各国が出資してエアバスインダストリィー社が設立された。機名はAirbusの300人乗りに由来するが、以後に開発された機体は乗客数に関係なく、おおむね300番代の続き番号である。
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エアバスA320シリーズ:初飛行1987年、巡航速度840km/時、乗客107〜220名。民間機として初めてデジタル式フライバイワイヤを採用した小型ナローボディ機。操縦室から操縦輪を廃してサイドスティック方式を導入するなど、最新鋭の技術を投入したハイテク旅客機。この320シリーズは大成功を収め、エアバス社がボーイング社と並ぶ旅客機の世界二大メーカーのひとつに成長する原動力となった。
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エアバスA380:初飛行2005年、巡航速度1041km/時。2007年に就航した、世界最大の旅客機。全面2層の客室と床下貨物室を有する。最初に就航する標準型A380-800は、3クラスで乗客550人前後、オールエコノミーで854人まで可能と公表されている。
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