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Cadillac(
キャデラック)は、
アメリカの自動車メーカー
ゼネラルモーターズ社が展開している
高級車の
ブランド名である。「
キャディラック」と表記されることもあり、かつては「キヤデラック(「ヤ」が大文字)」、「カデラック」とも表記されていた。
概要
thumbの
蒋介石総統専用車)]]
イギリスの
ロールス・ロイスや
ドイツの
メルセデス・ベンツ、アメリカの
リンカーンなどと並び、アメリカのみならず世界を代表する高級車ブランドとして知られる。
また、アメリカ大統領の専用車として
第一次世界大戦当時の
ウッドロウ・ウィルソンから、現在の
バラク・オバマに至るまで、長年に渡りライバルの
パッカード(現在は消滅)やリンカーンとともに使用されている他、多数の国で王侯
貴族や政府指導者の専用車に採用されている。
キャデラックは長らくアメリカ本国市場がメインであり、一般ドライバー向けの販売に関しては、正規の輸出が事実上
日本を含む一部の
東アジア諸国と
中東諸国のみだったが、1990年代後半からヨーロッパへの進出を試みるようになった。また、同時期に日本や
イギリス向けに右ハンドル仕様車(
セヴィル)を投入し話題になった。2000年代には
中華人民共和国や
ロシアにも進出。2007年には日本やイギリスと同じく右ハンドル・左側通行の
南アフリカ共和国にも進出している。
歴史
設立
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1899年に
ヘンリー・フォードを擁して
ヘンリー・フォード・カンパニーが設立されたが、フォードは経営陣との対立で会社を去り、
1902年、機械メーカーの工場長であった
ヘンリー・マーティン・リーランドが請われて後任となった。
デトロイトを開拓したフランス貴族アントワーヌ・ロメ・ド・ラ・モト・シュール・ド・カディヤック (
Antoine Laumet de La Mothe, sieur de Cadillac) に因んで社名とブランドを「
キャデラック」に変更し、
1902年10月に一号車を完成し、
1903年から自動車の本格生産を開始した。
高品質
リーランドは精密加工技術の権威であり、その指導のもとに作られたキャデラックは高品質であるだけでなく、黎明期に手作りで作られていた自動車の欠点であった部品互換性の悪さを最初に克服した自動車の一つとなった。
1908年には、
イギリスの
イギリス王立自動車クラブ(
RAC)による部品互換性テストに合格して、RACから「デュワー・トロフィー」を受賞している。
1909年には
ゼネラル・モーターズ(GM)の設立者である
ウィリアム・C・デュラントの求めに応じてGMグループ入りし、以後はGMの最高級レンジを担うモデルとして生産されている。
リーランドの離別
リーランドは
第一次世界大戦中に
連合軍を応援するための軍需品製作をしないGMに愛想を尽かし、
リバティエンジンを製作するために自身で
リンカーン社を設立した。
この会社は第一次大戦後高級車を製作したが、すでに大衆車の時代であり
フォード・モーターに破格の値段で買収され、フォードの経営の元で安定を得、ブランドとしてキャデラックのライバルとなった。
先進技術の採用
キャデラックの特徴として、古くより先進技術を積極的に取り入れたことが挙げられる。特に、世界初の実用的な
セルフスターターの搭載(
1912年)は初期における顕著な功績である。
これ以降にも、世界初の量産
V型8気筒エンジンや
V型16気筒エンジン、シンクロメッシュ・ギアボックス、ウィッシュボーン式前輪独立懸架の実用化、パワーステアリング、ヘッドライトの自動調光システム、エアコンディショニングの搭載など、近代の乗用車の技術革新に大いに貢献し、これらの新技術はのちに
ヨーロッパや
日本をはじめとする世界各国の自動車会社が模倣するようになった。なお、キャデラックは世界で唯一「デュワー・トロフィー」を2回受賞した会社となった。
高級車の代名詞
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これらの世界の最先端を行く先進技術の導入により、世界各国で高いブランドイメージを確立した
1920年代から
1930年代にかけては、歴代のアメリカ大統領や各国の王侯貴族から、
ベーブ・ルースや
ジョー・ルイスなどの
スポーツ選手、更に
アル・カポネのような
マフィアまでが愛用し、ヨーロッパのロールス・ロイスや
イスパノ・スイザ、アメリカの
デューセンバーグやパッカードなどと並び、高級車の代名詞的存在となった。
これらの裕福なオーナーの多くは、V型16気筒エンジンを搭載したシャシーにそれぞれのお気に入りのコーチワーカーでボディを架装し、同時に上記のような最新技術をオプションで装備させ、自らの好みの1台に仕上げた上にコンクール・デレガンスに出品し、その豪華さを競い合った。
「ラ・サール」
1928年からは兄弟ブランドである「ラ・サール」を設立し、年々豪華さを増してゆくキャデラックより内外装の装飾を簡略化した廉価なモデルを発売することで、新たなユーザー層の獲得を狙った。
当初より販売は好調で、ラインナップを増やしていったものの、
ビュイックや
オールズモビルなどの、GMグループ内の他の中位ブランドとの競合などの理由から
1940年に廃止された。
大恐慌
1930年には世界初の乗用車向けV型16気筒エンジンを発売し、ラインナップを拡充したものの、前年に起きた
世界大恐慌により1930年代前半は販売台数は他の自動車会社とともに低迷を続けることとなった。
しかしその後
フランクリン・ルーズベルト政権による
ニューディール政策の導入などにより、アメリカ国内の経済が回復してきた1930年代後半にはその販売台数は回復し、流麗な大型ボディに
V型8気筒や
V型12気筒の大排気量エンジンを搭載した高級車を作り続けた。
第二次世界大戦
好調な販売を続けるかに思えたものの、
1939年9月の
第二次世界大戦開戦と
1941年12月のアメリカの第二次世界大戦への参戦により、アメリカが戦時体制下に入ったことを受けて新モデルの開発は凍結されることとなった。さらに戦時体制下で燃料の配給制が導入されたことを受けて、燃費に難があるV型16気筒エンジンも廃止されることとなった。
なお、第二次世界大戦中においても、アメリカ政府の上層部をはじめ、
ドワイト・D・アイゼンハワーや
ダグラス・マッカーサーなどのアメリカ軍の指導部もキャデラックを利用していたこともあり、モデルチェンジを行わないまま少数の生産が続けられた。
戦後型
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1945年8月の第二次世界大戦の終戦後暫くは、戦前型のマイナーチェンジモデルを作り続けることとなったが、初の本格的な戦後型として終戦直前より1から開発された
1948年型は、当時のGMのデザイン担当副社長のハーリー・アールの薫陶を受けたフランクリン・Q・ハーシェーによって、自動車業界初の曲面ガラスとピラーレスハードトップ、そして
ロッキードP-38戦闘機をモチーフにし、その後世界的に流行した
テールフィンを備えた先進的なデザインを施され、大きな反響を呼んだ。
なおこの頃より、当時のGMの
会長である
アルフレッド・スローンによって発案され
1949年から開始された、GMが自社のコンセプトカーをアメリカ国内にくまなく展示するために開催した巡回式
モーターショーである「モトラマ」向けに開発したコンセプトカーのデザインを取り入れることが多くなった。
また、好景気による販売台数の増加や新技術の進展を受けて、「イヤーモデル」という形で、「モトラマ」で発表された新デザインのモチーフを取り入れたデザインの変更や、新技術の導入を行ったモデルチェンジをほぼ毎年行うようになった。
絶頂期
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さらに
1950年代に入ると、クロームメッキを多用した「ダグマー・バンパー」と呼ばれるバンパー一体型のフロントグリルやデュアルヘットライト、更に巨大化したテールフィンなどの豪奢なエクステリア・デザインと、エア・サスペンションやパワーステアリング、ボタン選択式オートマチック・トランスミッションや自動調光ヘッドライトなどの当時の最新技術を備えた新型モデルを、矢継ぎ早に市場に投入した。
特にボブ・シールクとデービッド・R・ホールズが
ジェット戦闘機と
ロケットをイメージしてデザインした、6メートル近い全長に巨大なテールフィンとデュアルヘットライト、クロームメッキとホワイトリボンタイヤを備えた
1959年型は、好景気に沸く
1950年代のアメリカのアイコンの1つとなった。
ハーリー・アールの後を継いでビル・ミッチェルがデザイン担当副社長となった直後の
1960年型からは、これまでとは打って変わって巨大なテールフィンや過剰なクロームメッキは姿を消したものの(巨大なテールフィンについては、消費者団体などからの批判があったことから、
1960年代前半には他のブランドでも一斉に姿を消した)、
イタリアの
カロッツェリアの
ピニンファリーナとのコラボレーションにより様々なショーモデルを発表し続け、そのデザインを市販車にも流用した。
特に1960年に就任した
ジョン・F・ケネディ大統領の
ファーストレディで、当時その優雅なファッションが世界各国から注目を集めていた
ジャクリーンからインスピレーションを受け、イタリアのピニンファリーナがデザインし、
1961年の
パリ・モーターショーで公開された「ブロアム・ジャクリーン」のデザインモチーフは、1960年代のキャデラックに数多く流用された。
その後もキャデラックの優雅なデザインと最新技術は世界各国の高級車に大きな影響を与え続け、
1970年代前半にかけては販売台数が増え続けただけでなく(なお、
1973年には過去最高の販売台数を記録した)、その名声も絶頂期を迎え、
エルビス・プレスリーや
リベラーチェ、
ジョー・ディマジオや
宋美齢、
アーガー・ハーン4世や
力道山などの世界中の
大富豪や
セレブリティ、
スーパースターらが愛用し、併せて多くの映画にも登場した。
ダウンサイジング
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1970年代前半に巻き起こった
オイルショックの影響を受けた、アメリカ市場におけるアメリカ車全体のダウンサイジング化と低燃費指向に対応すると同時に、アメリカ製高級車に比べてサイズが小さく、燃費に優れた(その上価格が高かった)メルセデス・ベンツの
ミディアムクラス(現Eクラス)や
Sクラス、
BMWの
5シリーズや
7シリーズなどのヨーロッパ製の高級車への対抗車種として、
1975年に「
セビル」を発売した。
セビルは全長が5メートル強とサイズこそ小さくなったものの、内外装のデザインはこれまでのキャデラックのものを踏襲し優雅さを残した。また装備は他のキャデラックと同等のものを備えた上に、キャデラックとして初の電子制御式
燃料噴射装置を標準装備するなど、当時の低燃費指向に対応した装備を備えていた。当時のキャデラックとしては最も価格が高かった(リムジンを除く)にもかかわらずヒットし、さらに
1978年には、2トーンカラーや高級な革素材のシートなどを奢った上級バージョンの「セビル・エレガンテ」を追加した他、
1979年にはイタリアの高級
ファッションブランドである「
グッチ」バージョンを販売するなど、キャデラックの看板車種の1つとなった。
1980年には、1930年代の
ダイムラーやロールス・ロイスを彷彿とさせるリアデザインを持ち、前輪駆動化した他にシリンダー・カットオフ機構などの省燃費機能を導入した2代目に進化した。2代目にはキャデラックとして初の
ディーゼルエンジンやトリップ・コンピューターなど数々の新機構を導入し、引き続き好調な販売を維持し続けた。
またセビルの成功を受けて、フリートウッド・ブロアムやエルドラド、デビル(当時の日本名フリートウッド・エレガンス)などの他の主力モデルも、相次いでダウンサイズおよびエンジンの小排気量化を進めることとなり、フルサイズのフリートウッド・ブロアムとデビルは
1977年に大幅なダウンサイズを行った。さらに1980年の2代目セヴィルの登場と同時に、これまではフルサイズであったエルドラドはセビルとほぼ同じサイズにダウンサイズし、セビルの2ドアモデル的性格が与えられた。
「シマロン」の失敗
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さらに
1982年には、高価格セグメントへの参入を狙っていた日本車や小型ヨーロッパ車との競合やキャデラックのオーナー層の高齢化への対処、さらにアメリカ政府により各自動車メーカーに課された「CAFE(Corporate Average Fuel Economy=自動車会社ごとの平均燃費規制)」に対処するために、創業当初の
1914年以来、67年ぶりの直列4気筒エンジンを搭載した上、ディーゼルエンジンを用意した。さらに
シボレー・キャバリエや
ポンティアック・サンバード、ビュイック・スカイホークや
いすゞ・アスカなどの他のGMの量販小型車で使用していた
前輪駆動の「Jプラットフォーム」を流用した小型キャディラックである「
シマロン」を導入した(導入当初は「シマロン・バイ・キャデラック」と称し、正式なキャデラックブランドとしては扱わなかった)。
シマロンはアメリカ市場の低燃費指向に対応した新世代の小型キャデラックとして、当時のアメリカにおける日本車の最上級車種である
トヨタ・クレシーダや
日産・マキシマ、さらに
メルセデス・ベンツ 190Eや
BMW 3シリーズ、
アウディ4000などの上級小型ヨーロッパ車を主なターゲットとし、約12,000ドルとヨーロッパのライバル社に比べ廉価に設定しつつ、パワーステアリングやエアコンを標準装備し、さらに本革シートや自動調光ヘッドライトをオプション設定するなど、他の「Jプラットフォーム」のGMの小型車に比べ装備を充実することで差別化を演出していた。
しかし、部品共通化にこだわるあまり、キャバリエやスカイホーク、
オールズモビル・フィレンザなどの他のGM車との差別化に失敗し、初年度から販売は低迷した。
1983年には内外装を大幅に充実させ、さらに「キャデラック・シマロン」と改名し、
1985年にはV6エンジンを追加導入した他、フロントグリルのデザインをほぼ毎年のように変えたにもかかわらず、販売的には大失敗に終わり
1988年には姿を消すこととなった。
アランテ
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1987年には、アメリカ市場において高い人気を誇っていたメルセデス・ベンツSLクラスや
ジャガー・XJSなどのヨーロッパ製高級クーペ、及びコンバーチブルの顧客を狙った、2人乗り
コンバーチブルの「
アランテ」を導入した。
イタリアの
ピニンファリーナのデザインしたボディと、内外装の高品質な作りは好感を持って受け入れられた。
しかし、生産工程において、
アリタリア航空の
ボーイング747―200Fの専用貨物機で半完成状態のボディをイタリアのピニンファリーナの工場に送り、内外装を仕立てた上でアメリカに送り返しエンジンとトランスミッションを備え付けるという、手間とコストがかかる工程を採用したために、エルドラドの約2倍の54,700ドルという、当時のキャデラックのラインナップで最高価格となったこともあり販売は伸びなかった。
1989年には4500ccのエンジンに切り替え、翌年にはトラクションコントロールを装備。さらに
1993年には最新鋭の「ノーススター」4600ccエンジンを搭載するなど度重なるマイナーチェンジを行ったものの、売上は向上しないまま1993年に生産中止となり、後継車種は設定されなかった。
低迷
アランテの導入に先んじて
1986年に導入された3代目セビルと、セビルと同時にモデルチェンジを行ったエルドラド、そしてデビルやフリートウッド・セダンなどの殆どの主力車種に対して更なるダウンサイズを進めるとともに、
ビュイック・ルセーバや
オールズモビル・98などの前輪駆動の量販大型車とプラットフォームをはじめとする大幅な部品共通化を行った。また同時に、法人需要やリムジンへの換装向けに多く使用されるフリートウッド・ブロアムなどの一部車種を除く殆どの主力車種が前輪駆動化された。
キャデラックは1940年代よりビュイックやオールズモビルの上級車種との部品共通化は行ってはいたものの、シマロン以降の行き過ぎた部品共通化と、前輪駆動モデルにおける急速なダウンサイジングは他のGMブランドとの間の差別化の失敗を招いたばかりでなく、同時に行ったコスト削減は品質悪化を招くこととなり、結果的にブランドイメージが大きく低下した。
さらに
1980年代後半に入ると、これまでの競合相手であったリンカーンやヨーロッパの高級ブランドのみならず、
ホンダの上級ブランドである「
アキュラ」や
日産自動車の「
インフィニティ」、
トヨタの「
レクサス」などの上級移行してきた日本車との直接競合にもアメリカを含む各国の市場でさらされるようになり、殆どのモデルレンジで販売が低迷、さらにアメリカ市場における顧客の平均年齢が「65歳から老衰死者まで」と言われるほどに上昇することとなった。
ブランド再生
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この様な状況を受けて、
1997年には
オペル・オメガのバッジエンジニアリングモデルである「カテラ」を投入した他、
1998年には
日本や
ヨーロッパの高価格車をターゲットにし、高出力エンジンと高品質な内装を備えた5代目セビルの導入を行い、その後顧客単価の上昇と顧客の平均年齢の低下をターゲットにしたブランド全体の刷新と再構築を開始した。
これ以降、
1999年にキャデラック初の4輪駆動車である「
エスカレード」を導入しアメリカをはじめとする世界各国の市場でヒットさせたほか、
ル・マン24時間レースへの参戦などの積極的なマーケティング戦略を行い、高級車としての人気を復活させた。
なお、ブランド再構築の一環として、それまで「カテラ」や「セビル」、「デビル」などと名付けていた各車種の呼称を、
2003年の「カテラ」の後継車種の「CTS(
Catera
Touring
Sedan)」の導入を皮切りに、
2005年に「セビル」を「STS」に、
2006年に「デビル」を「DTS」にするなど、
ラテン文字の
アルファベット(
ローマ字)を組み合わせたものに変更した。
現在
2004年にフラッグシップモデルとなる「
XLR」と、新型
SUVの「SRX」を導入するなどラインナップを拡大する傍ら、
イタリアの宝石商、
ブルガリとのタイアップを開始し更なるブランドイメージの向上を行った。また、
2005年のフランクフルト・モーターショーで発表された、「シマロン」以来初の小型モデルである「
BLS」を皮切りにヨーロッパ市場への本格導入を開始した他、ロシアや中華人民共和国など高級車需要が伸びている地域への導入を開始し、一定の成功をおさめている。
2007年以降のゼネラルモーターズの経営悪化を受けて、
ポンティアックや
サターン、
ハマーなどのブランドは売却、もしくは閉鎖されることになったが、キャデラックは高いブランド価値と安定した販売実績から、
シボレーや
ビュイックらとともに、ゼネラルモーターズの基幹ブランドとして引き続きゼネラルモーターズに残ると発表された。
日本における歴史
1910年代より
ヤナセにより日本への輸入が開始された。当初より
皇族や
華族、
政治家に愛好され、日米関係が悪化した
1930年代の後半に至っても輸入が継続されたものの、
1941年12月の
日米間における開戦により輸入は中断された。
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第二次世界大戦後は、
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の最高司令官
ダグラス・マッカーサーの専用車として全国の一般市民にまでその名が知られることになり、その後も多くの
ハリウッド映画でアメリカの富の象徴として露出されたことから庶民の憧れの高級車となった。
連合国の占領下の
1950年から
1960年代にかけて
御料車として使用された他、
力道山や
石原裕次郎などのスポーツ界や映画スター、更に
児玉誉士夫などの
実業家が愛用したことでも知られる。
プロレスラーの
アントニオ猪木は
1972年に
新日本プロレスリングを旗揚げした頃にキャデラック・エルドラドを自らの専用車として使用し、
蔵前国技館など
東京都内の大会場で試合を行う際にはキャデラック・エルドラドで会場入りしていた。
また、高級ハイヤーとしても使用され、
1954年から
1961年にかけて、日本空港リムジン交通(現:
東京空港交通)では、数台のキャデラック・リムジン75及びセダン60シリーズや、
クライスラー・インペリアル・リムジンを運行していた。
ヤナセは
2002年末まで輸入権を持っていたが、
サーブと共に
日本ゼネラルモーターズに譲渡し、これによりヤナセはGMの自動車輸入事業から事実上撤退したが、その後も国内最大のディーラーとして販売を続けている。
アメリカ大統領専用車
最多採用車種
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アメリカ大統領の専用車として、
ウッドロウ・ウィルソンが第一次世界大戦の戦勝記念パレードでキャデラックのオープンカーを使いボストンまでパレードして以降、
カルビン・クーリッジや
フランクリン・D・ルーズベルトなどが使用した他、第二次世界大戦後も
ハリー・S・トルーマンや
ドワイト・D・アイゼンハワー、
ロナルド・レーガンや
ジョージ・ウォーカー・ブッシュ、そして
2009年に就任した
バラク・オバマに至るまで、長年に渡りライバルのパッカードやリンカーンとともに大統領専用車として使用されており、最も多く大統領専用車に採用されたブランドとなっている。
なおブッシュ前大統領は、
2001年1月20日の自らの就任パレードに合わせて納入されたドゥビル・リムジンの対地雷、防弾装甲が施された特装車を大統領専用車として使用し、
2005年の2期目就任時には新たにDTS・リムジンが大統領専用車として納入され、
2009年1月20日に任期が終了するまでの間使用した。
現在
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2009年1月14日には、1月20日に就任するオバマ大統領専用車としてDTS・リムジンの新型特装車が一般公開された。この新しいDTS・リムジンは、前任者の前ブッシュ大統領専用車のDTS・リムジンと比べ装甲がさらに強化した他、最新の通信機能が装備されたが、これらの装備で車重が増したために最高速度は時速100キロ程度であると発表されている。この車のシャシーには
GMC・トップキックのものが使用されており、
ディーゼルエンジン車である。
また、フロントノーズの国旗と大統領紋章旗が夜間に
LEDでライトアップする新機能が追加された他、負傷時の対応を考え、オバマ大統領の
血液が車内に常に用意されている。
なお、かつては大統領就任パレード用のオープンカーも併せて用意されていたが、
テロリストの対戦車砲などの重火器による襲撃を防ぐことが困難なため、現在は用意されていない。
現行モデル
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Wikipedia画像へのリンク(XLR(
ニーマン・マーカス仕様))
セダン/サルーン
ロードスター
SUV/クロスオーバーSUV
-
エスカレード
-
* エスカレードESV
-
* エスカレードEXT
-
SRX
関連項目
外部リンク
キャデラックについて