ランボルギーニについて
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ランボルギーニ(Lamborghini )は、
イタリアの自動車メーカー。正式名称は
ヌオーヴァ・アウトモービリ・フェルッチオ・ランボルギーニ SpA(''Nuova Automobili Ferruccio Lamborghini SpA )。1999年以降、独
フォルクスワーゲングループに属する。
本部は
ボローニャ県サンターガタ・ボロニェーゼであり、
ライバル関係にある
フェラーリの拠点
モデナ県・
マラネロとは、直線距離にして僅か20Km程度しか離れていない。
歴史
自動車メーカーとしての成り立ち
Wikipedia画像へのリンク(ランボルギーニ社のトラクター)
第二次世界大戦後、イタリアに
トラクターが不足していることに目を付けたフェルッチオ・ランボルギーニは、タダ同然で手に入れた軍放出車両の
モーリスエンジンと自ら開発した石油を気化するイン・パボリザトーレというシステムを使って高性能なトラクターを作った。彼の作ったトラクターは、高価なガソリンをエンジンの始動と暖気に使うだけでよく、後は安い石油で十分に動かせた。このトラクターが大ヒットし巨万の財を築いたフェルッチオはエキゾチックカーを買い集めるようになる。しかし、どの車も暑すぎたり、スピードが十分でなかったり、狭すぎたりしたため、彼を満足させる物ではなかった。のちにエキゾチックカーの生産に乗り出したフェルッチオは、「(汗で)助手席に座るレディのメイクアップが落ちないような快適な車を作りたい」と語ったという)。
やがてフェルッチオは富の象徴、
フェラーリオーナーとなるが、当時のフェラーリには
クラッチに決定的欠陥があった。
所有するフェラーリの度重なるクラッチの故障に頭を痛めたフェルッチオは、修理のために車をフェラーリ社に持ち込んだ際、面会した
エンツォ・フェラーリに「あなたの車はゴミだ」とぶちあげた。これに対してフェラーリは「自分の作ったトラクターでも走らせていればいいじゃないか、あなたにはフェラーリは乗りこなせない」と返したという。フェルッチオ自身がフェラーリはとても紳士的な対応をしてくれたと語ったという説もあるが、推測の域を出ない。エンツォ・フェラーリ自身の語る所によると、フェルッチオが文句をつけたのは自分ではなく、
マセラティだという事である。このことに腹を立てたフェルッチオは、自社のトラクター工場でフェラーリを修理する事を思いつく。
いざクラッチを分解してみると、使われていたのはなんと自社のトラクター用パーツと同型の
ボーグ&ベック製クラッチ板。しかも、全く同一のパーツにフェラーリはトラクター用の十倍の値段を付けていた。
元々は優秀なメカニックで、自分でヘッドチューンしたフィアットでレースに出場した事もあるフェルッチオは、クラッチ修理と同時にフェラーリに装着されていたダウンドラフト型
ウェーバー(Weber)社製
キャブレターをサイドドラフト型に組替え、エンジンヘッドをオリジナルの
SOHCから当時どの市販のフェラーリも採用していなかった
DOHCに改造した。完成した車は公道でのテスト走行中の新型フェラーリをカモに出来るほど速かったという。
既存のエキゾチックカーに少なからず不満を抱いていたフェルッチオは、これがきっかけで自動車ビジネスに乗り出す決意をしたと言われる。
前述のフェラーリ社の高額なパーツ販売をみて、「この商売は儲かる」と踏んでもいた。
トラクターの他に
ヘリコプターも作ったが、認可が下りず結果的に、プロトタイプの2台しか現存していない。
イタリア・
モデナにある
トニーノ・ランボルギーニ・ムゼオにフェルッチオが関わったランボルギーニ製品が展示されている。
エンブレムの由来
ランボルギーニ社の
エンブレムは猛牛であるが、由来については創設者のフェルッチオ・ランボルギーニの星座が牡牛座だったからという説、また、フェラーリの跳ね馬のエンブレムに対抗したという説もある。
販売
世界
2006年の総納車台数は2,087台。
2007年では
10月25日時点でこの数字を超え、2,580台となった。
日本での販売
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1968年〜1972年 - ミツワ自動車(東京)が日本への輸入権を所持。
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1972年〜1980年 - シーサイドモーターが輸入権を所持。
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1984年〜1989年 - ジャクスが輸入権を所持。
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1991年〜1997年 - ガレーヂ伊太利屋が輸入権を所持。
-
1998年〜2002年 - ミツワ自動車が輸入権を所持。
現在、正規
輸入・販売は
アウディ・ジャパンの事業部として2001年に設立された
ランボルギーニ・ジャパン(Automobili Lamborghini Japan、
東京都・
世田谷区)が行っている。2006年の年間販売台数は、176台(統計資料、
JAIA日本自動車輸入組合)。2007年3月には、ランボルギーニ大阪を経営する
光岡自動車の顧客情報(ランボルギーニ大阪店)が
インターネット上に公開されてしまう事件が起きた
http://blog.n-cafe.net/archives/50958888.html。
車種一覧
Wikipedia画像へのリンク(ランボルギーニ・ムルシエラゴ)
Wikipedia画像へのリンク(ランボルギーニ・ガヤルド)
Wikipedia画像へのリンク(ランボルギーニ・ウラッコ)
Wikipedia画像へのリンク(ランボルギーニ・カウンタック LP500S)
現行車種
コンセプトカー
過去の主な車種
モータースポーツ
かつては創業者のフェルッチオが「レースには出ない」ことを社是としていた。これは当時のフェラーリがレースを本業として市販車はそのための資金稼ぎと位置づけ、そのためユーザーをないがしろにしていた事に対し、反発したためとも言われている。上記のフェラーリとの因縁にからんだ話であり、その因縁話自体が真偽が定かではないので、社是に関する話も同様に真偽は定かではない。
F1
クライスラー傘下に入った後の1989年に、
ラルースチームへのエンジン供給の形で、
F1グランプリ参戦を開始した。
1990年に、メキシコで結成されたチーム「グラスF1」向けにF1マシンを含めて製作を行っていた。エントリーが認められたものの、グラスF1設立を提言したメキシコ人の富豪が資金を持ち逃げしたこともあり、資金が底をつき参戦困難となった。これによる参戦キャンセルによる違約金支払を回避するために、ランボルギーニが実質的なワークス・チーム、
モデナに再編成して参戦した。しかし、
マウロ・フォルギエリが設計したマシンは時代遅れもはなはだしいもので、目立った成績をあげることはなく、同年に撤退した。
エンジンのレイアウトはV12で、独特な高音のエキゾーストノートを奏でた。それについては、同じV12エンジンを搭載したフェラーリへの評価を上回るものだった。
1993年にはエンジンを再設計しパワーアップ、翌年のエンジン供給を考慮して
マクラーレンがテストを実施したものの、マクラーレンは
プジョーとの提携を選び、この結果ランボルギーニはF1を去ることとなった。
なお、
鈴木亜久里が
日本グランプリで日本人としてはじめて3位入賞した時のエンジンがランボルギーニだった。
供給したチーム
SUPER GT
SUPER GTには、
JLOC(Japan Lamborghini Owner's Club)より、
全日本GT選手権の初期から参戦している。当初は漫画家の
池沢さとしがドライバーを務めた。参戦時のマシンはカウンタックだったが、
1995年〜
2004年にディアブロ、
2004年からはムルシエラゴにて参戦している。ランボルギーニ社も全面的に協力しており、このレースのためにディアブロ以降のマシンをワンオフ作成している。
2005年からはGT300クラスにエントリーし
2006年第1戦にて初優勝した。ランボルギーニがFIAの国際格式レースで優勝したのはこれが初めて。
2007年よりガヤルドも参戦。
ル・マン24時間レース
上記のJLOCが、
2006年の
ル・マン24時間レースにメーカーワークスチームとして初参戦。2時間を残してチェッカーを受けられず完走とはならなかったが、クラス8位と健闘した。
人物
関連項目
外部リンク
ランボルギーニについて