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三都

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三都について

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

三都(さんと) 三都(さんと)とは、江戸時代に幕府直轄都市であった都市のうち、その規模が極めて大きかった京・大坂・江戸を指す。

三都の人口

平安遷都以来室町時代まで京都は時期によって変動はあるものの、多い時で約20万人、少ない時で約4万人の間で推移したと推定されている。安土桃山時代に入り大坂が発達し、京都も長らく分離していた上京下京の宅地が繋がって30万人規模に成長したと考えられる。江戸時代に入ってすぐの1609年に日本へ漂流したロドリゴ・デ・ビベロは、京都の人口を30〜40万人、大坂の人口を20万人、江戸の人口を15万人と伝えている。江戸時代の三都の人口については時期によって変動はあるものの、多い時で江戸は100万人以上、京都、大坂は40万人の人口を有していたと推測されている。江戸時代を通じて三都以外では、金沢名古屋が最盛期で10万人規模、長崎鹿児島が6万人以上で、他の有力諸侯の城下町はいずれも5万人前後であった。幕藩体制維持のため各藩の拠点は一箇所の城下町に固定化され、更に領外への経済圏の自由な拡大が制約されたため、全国的な拠点とされた三都との間に格差が生じたと考えられる。以下記録として残っている三都の町方人口を表にまとめる。

江戸の町方並寺社門前人口

江戸参照。

京都の町方並寺社門前人口

調査の対象外であった武家や公家、被差別階級人口を除く。
元号 西暦 町方人口 寺社門前人口 出典
総数 洛中 洛外 総数 洛中 洛外
|寛永十一年1634410,089京都御役所向大概覚書
|寛文元年1661362,322前田家日記
|寛文五年1665352,344万天日録、玉露叢、一話一言
|延宝二年1674408,723372,81035,918万天日録、玉露叢、扶桑記勝、半日閑話
|天和三年1683353,707321,44932,25834,4356,61127,824京都御役所向大概覚書
|元禄三年1690350,549313,02137,52831,5322,95728,575京都御役所向大概覚書
|元禄十三年1700351,692317,93633,75621,2802,78018,500京都御役所向大概覚書
正徳五年1715350,986京都御役所向大概覚書
|344,379302,75541,62414,5511,81812,733洛水一滴抄
|享保元年1716350,367京都御役所向大概覚書
|享保二年1717350,033京都御役所向大概覚書
|享保三年1718346,431京都御役所向大概覚書
|享保四年1719341,494京都御役所向大概覚書
|享保七年1722354,802京都御役所向大概覚書
|享保十四年1729374,449345,88228,567月堂見聞集
|享保十五年1730373,302344,35028,952月堂見聞集
|明和三年1766318,016255,94762,069古久保家文書、町代諸事覚
|明治四年 (本籍人口)1873237,674京都府戸籍調
|明治五年 (本籍人口)1873244,883京都府戸籍調
|明治六年1873238,663日本地誌提要 (寄留者12,533人を含む)
このほか明らかに山城国全域の人口と混乱して50万人前後の人口を伝えたり、同じ人口に関して異なる年代で記述されるなど、信頼の低いものもあるが、参考までに以下列挙する。
元号 西暦 町方人口 出典
延宝九年1681577,548吹塵録
507,548雍州府志、塩尻、扶桑記勝
享保六年1721526,222月堂見聞集
享保十七年1732526,222月堂見聞集
寛延三年1750479,956雪月花
宝暦三年1753526,222大日本古来人口考
なお幕府が調査した山城国の武家人口等を除いた領民人口は以下の通りである。
元号 西暦 総人口
|享保六年1721564,994
|寛延三年1750522,626
|宝暦六年1756527,334
|天明六年1786507,488
|寛政四年1792506,324
|寛政十年1798480,993
|文化元年1804469,519
|文政五年1822478,652
|文政十一年1828498,296
|天保五年1834488,726
|天保十一年1840445,432
|弘化三年1846452,140
参勤交代で江戸の人口が急増する寛永年間まで京都は日本最大の都市であった。江戸時代後期の人口を伝える史料は残っていないが、山城国の人口がほぼ一貫して減少しており、京都の人口も20万人台まで減少していたと考えられる。元治元年(1864年)の6万9055戸と伝えられる町方戸数から、幕末の京都の人口を大坂以上の35万人とする試算もあるが、宗門人別改帳?の研究からは28万人程度と推計されている。

大坂の町方人口

17世紀後半より大坂三郷(北組、南組、天満組)の町方人口の詳細が伝わっている。町方人口には調査の対象外であった武家と被差別階級人口を除く。下表中僧とは両本願寺派以外の僧侶の人口を指し、両本願寺派の僧は三郷町方人口に含まれている。『南北両町奉行連著書上』が伝える元文三年(1738年)、寛保三年(1743年)の人口は誤記と思われるが、参考までに斜体で記載する。
元号 西暦 合計 三郷町方 出典
寛永二年1625279,610開国五十年史
寛文元年1661252,446開国五十年史
寛文五年1665268,760玉露叢
寛文九年1669279,610松平石見守殿御初入付差出御覚書
延宝七年1679287,891松平石見守殿御初入付差出御覚書
元禄二年1689330,244松平石見守殿御初入付差出御覚書
元禄五年1692346,389345,524865御城代御支配所萬覚 (他に穢多840人)
元禄十二年1699364,154松平石見守殿御初入付差出御覚書
元禄十六年1703351,708地方役手鑑
寛永六年1709381,626松平石見守殿御初入付差出御覚書
寛永八年1710372,015無名書
正徳元年1711379,511無名書
正徳三年1713380,149379,275874地方川方御用覚書 (他に穢多村の僧・俗・女計2,341人)
正徳四年1714383,357382,435922地方川方御用覚書
正徳五年1715375,584374,684900無名書
享保元年1716366,304365,380924無名書
享保四年1719374,498松平石見守殿御初入付差出御覚書
享保六年1721383,480382,4711,009無名書
享保七年1722378,007377,018989無名書
享保九年1724357,091356,092999無名書
享保十年1725370,156369,161995無名書
享保十四年1729385,431松平石見守殿御初入付差出御覚書
元文元年1736390,826389,866960地方川方御用覚書
元文三年1738526,813南北両町奉行連著書上
元文四年1739403,724松平石見守殿御初入付差出御覚書
寛保三年1743501,166南北両町奉行連著書上
寛延二年1749404,146松平石見守殿御初入付差出御覚書
寛延二年(1749年)以降は両本願寺派以外の全僧侶の人口も三郷町方人口に含まれるようになる。元禄十六年(1703年)九月の各組の町数・家数・人口の構成は以下の通りである。
組・寺社 町数 家数 総人口
北組2376,25474,15258,137132,289
南組2417,54683,07370,975154,048
天満組903,02826,48823,43349,921
堀江新地334516,5196,92713,446
神社316288604
寺院僧858858
寺院俗50636542
合計60117,279191,912159,796351,708
宝暦六年(1756年)以降被差別階級の穢多村の統計が残っており、参考までに両者の合計を示す。
元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村 元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村 元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村
宝暦六年1756413,356409,9843,372寛政二年1790386,617382,6413,976文政七年1824383,388378,5784,810
宝暦七年1757410,784407,4473,337寛政三年1791389,395385,4073,988文政八年1825382,771377,9284,843
宝暦八年1758413,029409,6313,398寛政四年1792380,039376,0094,030文政九年1826385,298380,3514,947
宝暦九年1759417,099413,6693,430寛政五年1793385,844381,8034,041文政十年1827384,449379,4894,960
宝暦十年1760415,016411,6363,380寛政六年1794388,305384,1704,135文政十一年1828381,135376,1774,958
宝暦十一年1761420,377416,9573,420寛政七年1795388,895384,6524,243文政十二年1829379,590374,6894,901
宝暦十二年1762422,046418,5733,473寛政八年1796385,709381,4364,273天保元年1830376,232371,2524,980
宝暦十三年1763420,827417,3793,448寛政九年1797386,196381,8354,361天保二年1831373,004367,9115,093
明和元年1764422,359418,8623,497寛政十年1798383,615379,2744,341天保三年1832374,295369,1735,122
明和二年1765423,453419,8633,590寛政十一年1799384,866380,4324,434天保四年1833373,948368,9095,039
明和三年1766421,703418,0863,617寛政十二年1800383,544379,1214,423天保五年1834364,270359,2904,980
明和四年1767417,251413,7493,502享和元年1801380,519376,1174,402天保六年1835366,390361,4344,956
明和五年1768414,229410,6423,587享和二年1802382,651378,1734,478天保七年1836364,393359,4194,974
明和六年1769412,997409,4213,576享和三年1803379,907375,5314,376天保八年1837333,187328,9634,224
明和七年1770409,059405,4813,578文化元年1804379,062374,6874,375天保九年1838326,773322,7014,072
明和八年1771404,433400,9093,524文化二年1805385,832381,4104,422天保十年1839331,759327,5574,202
安永元年1772405,106401,5443,562文化三年1806388,158383,6534,505天保十一年1840341,521337,2154,306
安永二年1773406,556403,0213,535文化四年1807387,588383,1774,411天保一二年1841346,207341,9064,301
安永三年1774407,818404,2573,561文化五年1808389,076384,6514,425天保十三年1842354,754350,4224,332
安永四年1775411,969408,2933,676文化六年1809385,746381,3404,406天保十四年1843336,389332,0724,317
安永五年1776410,055406,3793,676文化七年1810385,617381,1694,448弘化元年1844339,379334,8794,500
安永六年1777407,077403,4673,610文化八年1811386,217381,7354,482弘化二年1845344,093339,5454,548
安永七年1778406,061402,3603,701文化九年1812385,271380,7934,478弘化三年1846342,423337,8424,581
安永八年1779408,717404,9643,753文化十年1813386,483381,9624,521弘化四年1847341,707337,0944,613
安永九年1780408,504404,8183,686文化十一年1814382,725378,2534,472嘉永元年1848340,234335,7054,529
天明元年1781411,044407,3223,722文化十二年1815378,570374,0084,562嘉永二年1849338,261333,7484,513
天明二年1782409,773405,9613,812文化十三年1816377,591373,0454,546嘉永三年1850330,637326,1874,450
天明三年1783403,611399,7773,834文化十四年1817375,470370,9024,568嘉永四年1851321,920317,5954,325
天明四年1784384,395380,7103,685文政元年1818374,204369,6874,517嘉永五年1852321,053316,7844,269
天明五年1785384,207380,4163,791文政二年1819377,129372,5864,543嘉永六年1853323,247318,9884,259
天明六年1786383,903380,0983,805文政三年1820378,940374,3684,572安政元年1854321,664317,4364,228
天明七年1787375,435371,7403,695文政四年1821382,924378,2114,713安政二年1855321,166316,9194,247
天明八年1788376,469372,7293,740文政五年1822381,684377,0294,655安政三年1856325,037320,7804,257
寛政元年1789381,529377,7293,800文政六年1823383,551378,9264,625
(以上出典は『東町奉行一式山城守直温旧蔵三郷並穢多村兵庫西宮塩飽島人数高帳』) 明治元年(1868年)以降は全身分を含む本籍人口。
元号 西暦 合計 三郷町方 穢多村 出典
安政四年1857323,956手鏡
安政五年1858318,400314,3704,030鐘奇斎日々雑記
安政六年1859312,986308,9784,008鐘奇斎日々雑記
文久元年1861308,192鐘奇斎日々雑記
文久二年1862301,093鐘奇斎日々雑記
明治元年 (本籍人口)1868281,306国史
明治六年 (本籍人口)1873271,992日本地誌提要
大坂の役で興廃したがすぐに復興し、元禄年間に京都の人口を追い抜いた。町方人口だけで40万人を超えたが、幕末には30万人まで減り、明治時代には総人口が20万人台となった。 大坂町奉行堺奉行を兼ねていた時期もあり、江戸時代大坂と堺が一個の都市圏を築いていたと主張する人もいる。両者の人口を合わせた大坂都市圏の人口は、安土桃山時代より大坂の役まで京都の人口を上回っていたと考えられる。

各都市の特色

文化および工業都市・京は平安京以来のであり、応仁の乱によって大打撃を受けたものの、依然として朝廷仏教の有力宗派のうちのいくつかの本山などが設置され、学術・芸術・宗教の面では当時の日本を代表する都市であった。内陸部にあって陸上流通の拠点の1であるとともに、若狭湾から琵琶湖淀川など経る内水系流通経路にあって両替商などの金融業も発達し、また、西陣織京焼に代表される工芸品の生産地として商工業に大きな影響力を与えていた。 政治都市・江戸は江戸幕府の所在地であり、江戸時代以前より浅草寺品川湊あるいは利根川荒川多摩川に挟まれた港町・宿場町として栄えていたが、徳川家康による都市改造によって大きく成長し、加えて旗本御家人定府政策、諸侯に対する参勤交代政策によって、大勢の武士が常時江戸に居住することとなり、彼らの消費生活を支えるために多くの物資が流れ込んでそれを扱う商工業者の人口も増加した。宝暦年間には「日本第一の土地」とまで称されて、「江戸っ子」と呼ばれる独自の気質を持った町人たちが台頭した。 経済都市・大坂は貿易港であった難波津石山御坊寺内町豊臣政権の拠点など幾度かその都市の性格を変えながら発展を続けてきた。大坂の陣によって大打撃を受けるものの、江戸幕府はここを西国唯一の物流拠点と位置づけて再建を支援した。その結果、諸侯の蔵屋敷が大坂に集まるようになり、の年貢米・産物を大坂で売却して江戸や領国における政治運営の費用に充てるという構図が形成されるに至った(東国の藩の場合、江戸が用いられるのが通常であったが、その場合でも大坂に蔵屋敷など何らかの拠点を有した藩は少なくない)。このため、「天下の台所」の呼ばれるようになる。また、北前船の終着地、あるいは、長崎貿易の交易品の中継地としての役割や、淀川を利用した京への水運の拠点としての役割も大きかった。 三都は慶長年間には三ヶ津(さんかつ)と呼ばれていた(京は内陸都市で港町ではないが、物流拠点としての意味合いで用いられた)が、江戸の政治的地位の向上に伴い、三都の呼び名も用いられるようになった。特に京は寛永文化、大坂は元禄文化、江戸は化政文化の中心地として、それぞれの時代や環境に合わせた固有の文化を繁栄させていった。 なお、江戸時代後期の儒学者で江戸や大坂に住んだこともある広瀬旭荘淡窓の弟)は、『九桂草堂随筆』という随筆の中で「京の人は細なり。大坂の人は貪なり。江戸の人は夸なり……是三都人気の異る所以なり」と述べていくつか事例を挙げながら三都の比較を試みている。以下はその概要である
  • 京(京都)
  • *京都の人は矜気が多く、土地を尊ぶ。彼らは「江戸大坂といえども皆田舎である、すむに都に如くはなし(及ぶものはない)」と考えている。
  • *だが、京都を見なければ我国(日本)が「百王一統(万世一系)」で万国(他国)よりも尊いことを理解できないであろう。
  • 大坂
  • *大坂の人は殺気が多く、富を尊ぶ。彼らは「公卿は官禄は高くても貧しく、我輩の商賈(大坂商人)に手を下くる(へつらう)。世の中に富より尊いものがあろうか」と考えている。
  • *だが、大坂を見なければ我邦(日本)が「産物多く、船楫便利」で万国(他国)よりも富みたることを理解できないであろう。
  • 江戸
  • *江戸の人は客気が多く、官職を尊ぶ。彼らは「諸侯でさえも貧しい(財政難で多額の負債を抱えた)時節である。貧しいは愧ることではなく、実を置いても立身する(名声を得る)ほうがいい」と考えている。
  • *だが、江戸を見なければ我邦(日本)の「人口衆く(多く)、諸侯輻湊(集中)」して万国(他国)よりも繁華なることを理解できないであろう。
と、述べて三都それぞれに違うものの、日本の誇るべき都市であると結論付けている。 明治以後も三府が設置され、市制成立後も暫くは特例が敷かれるなど、長きに渡って重要視されていくこととなる。

参考文献

  • 幸田成友編、『大阪市史』第一巻、大阪市参事会、1911年。
  • 柚木重三、堀江保蔵「本邦人口表」、『経済史研究』、7号、188頁?210頁、1930年。
  • 高橋梵仙、『日本人口史之研究』三友社、1941年。
  • 西山松之助、「大阪・兵庫・西宮・塩飽島人口統計表 1757 (宝暦7)?1856 (安政3)」、『歴史学研究』、157号、26頁?28頁、1952年。
  • 浜野潔、『近世京都の歴史人口学的研究』、慶應義塾大学出版会株式会社、2007年。
三都について
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