東洋工業サッカー部(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、
自動車メーカー
東洋工業(現
マツダ)に存在していたサッカー部。
のちにマツダサッカークラブに改名、
Jリーグ創設に伴いチーム名を改称した
サンフレッチェ広島の前身。
概要
創部は1938年。1965年から始まった
日本サッカーリーグ(JSL)には初期から所属し、1960年代全盛期を極めた。
さらに、後身のサンフレッチェ広島を含め2009年1月までに、国内最多58回の
天皇杯本大会出場回数を誇り、決勝進出も国内最多の13回と、日本サッカー史に残る名門クラブの一つ。
本拠地は
広島県安芸郡
府中町(マツダ本社所在地)。ホームスタジアムは
県営広島スタジアム[創部からJSL初期ごろまでは市内の高校グラウンドを使うことが多かった。主に使用していたのは交通の便のよさから中区国泰寺町にある広島県立広島国泰寺高等学校グラウンド。また1965年JSL最終節で優勝を決めた試合は、南区皆実の広島大学附属高校グラウンドで行われた。]。ユニフォームカラーは青。
現在Jリーグに所属するサンフレッチェ広島の母体である。なおこのチームの2軍(
サテライト)は現在
中国社会人リーグに所属する
マツダSCとして活動している。
また、OBの多くは現在もサッカー指導者・
ゼネラルマネージャー・アドバイザー等として日本サッカー界に貢献している。
歴史
創設期
戦前からサッカーが根付いていた広島
[年末年始を語る(1)まずは高校サッカー(賀川浩の片言隻句)。]で、
山崎芳樹を中心に
同好会形式で創部した。このころは
呉海軍工廠が圧倒的に強く、全国大会には1度も出場出来なかった
[月刊サッカーマガジン1966年06月01日号より。]。
太平洋戦争のため休部。
8月6日、
広島市への原子爆弾投下により市内は甚大な被害を受け、会社も多くの社員を失った。
戦後復興の最中、蹴球部もに再スタートし、
銭村健次・
小畑実ら地元出身の有力選手が入団。、全日本選手権大会(天皇杯の前身)に実業団チームとしては初出場を果たした
[中国地方代表として。戦績は初戦敗退(1-7対東大LB)。ちなみに九州地方代表の日鉄二瀬も同じく実業団として初出場した。]。これ以降、有力選手の入団が相次ぎ、当時の主要タイトルである全日本選手権・
全日本実業団・
国体に常に優勝争いを繰り広げる実業団の強豪チームを作り上げた。
1950年代
|
200px
| 1954年天皇杯決勝メンバー。WWシステム。慶應義塾大学体育会ソッカ−部K.B.F.ホームページ参考。 |
、実業団として初めて天皇杯決勝に進出も準優勝(3-5対
慶大BRB)。この決勝は、第4延長3時間にもおよぶ死闘となり、銭村が疲労のため意識不明となり倒れ、試合後は満足に歩ける選手がいない状況にまでなるほど、日本サッカー史に残る名勝負となった。これ以降、他の実業団も強化に務め、天皇杯で台頭し始めた。
、全日本実業団でまたも準優勝(0-2対
田辺製薬)。しかし、田辺製薬の7連覇を阻みついに全日本実業団で優勝して初の全国タイトルを獲得した(4-0)。も天皇杯決勝進出するも準優勝(1-2対
中大クラブ)
[このときの決勝戦会場は、現在ではありえない事だが、広島国泰寺高校グラウンドで行われた。]に終わる。
この活躍から主力選手が全日本(現在の
サッカー日本代表)に選出され始め、1956年の
メルボルンオリンピック代表には
小沢通宏と
下村幸男の2人が選ばれた。
また、このころになると地元から頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになる。この時指導された選手が1960年代後半の黄金期を支えることとなる
[月刊サッカーマガジン1966年06月01日号より。その後サッカー教室として定期的に開かれるようになり、これがのちのマツダサッカースクールや今日のサンフレッチェ広島における若年層指導に受け継がれていく。]。
1960年代
、国体で初優勝を飾り(延長2-1対全大阪)、全日本実業団で
古河電工(現・
ジェフユナイテッド市原・千葉)と両チーム優勝。この活躍から同年に小沢が
日本年間最優秀選手賞を受賞した。
|
200px
| 1965年JSL初年度メンバー。ちなみに小沢と松本以外は広島県出身。登録上は4-2-4だが実際は桑田がHBに近い4-3-3。サッカーマガジン71年6月号参考。 |
からスタートした
日本サッカーリーグ(JSL)にスタート時から8チームの一つとして参加。小畑を総監督(いわゆる
ゼネラルマネージャー)、下村を監督に登録メンバー25人中21人が広島県出身者で固められていた。厳しいトレーニングの結果、抜群のコンビネーションを生み出し縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、特に攻守の切り替えの早さは他チームと比べ、群を抜いていた
[近年、イビチャ・オシムらが推奨する「考えて走るサッカー」が注目されているが、彼らはそれを実践していた。viva!を参照。]。
JSLの記念すべき第1回大会を12勝2分け0敗と無敗で優勝。第1回大会第14節・対
ヤンマー戦(現・
セレッソ大阪)で記録した11-0は、最多得点及び最多得失点差11点のJSL最高記録。第2回大会まで23連勝を記録するなど、まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立し、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。さらに天皇杯では、1965年第45回大会で初優勝すると、1965年-70年の6年で決勝に5度進出し3度の優勝を飾った
[第46回大会1966年1月14日に行われた早稲田大との決勝戦は、国立競技場で初めて決勝が行われた大会であり、学生が最後に優勝した大会でもある(2-3)。]。また国際舞台では、の第2回
アジア・クラブ選手権に日本勢として初出場し3位入賞を果たした。
このときのメンバーの多くは全日本に選出され、1968年の
メキシコオリンピックにも
小城得達・
桑原楽之・
松本育夫の3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。
この時代の東洋工業を止めようと、他チームのほとんどが
スイーパーを置くようになり、そこから1970年代JSLはスイーパーシステム流行へと向かった
[月刊サッカーマガジン1971年6月号や1972年06月01日号などより参照]。
1970年代
|
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| 1978年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-3-3スイーパーシステム。47News天皇杯特集参考。 |
しかし1970年代に入ると、環境面を整備した他チームの台頭や主力選手の引退
[JSL初期に抜群のコンビネーションを誇りリーグ随一の攻撃力だったFW陣が、1970年前後に相次いで退団・引退したことで、チームの得点力がガタ落ちした。またDF陣も同様に相次いで引退したため攻撃のキーマンである小城得達をDFあるいは守備的なMFとして起用したことにより、さらに得点力が低下することとなった。]、親会社である東洋工業の業績不振
[当時のマツダは世界初となる自動車搭載用ロータリーエンジンの開発に成功し、圧倒的なシェアを誇るトヨタ、日産を追走していたが、1973年のオイルショックの影響により経営状態が悪化。会社の業績悪化はサッカー部の運営にも影響が及び、数年間新人を全く採用出来なかった。]、広島サッカー界の地盤沈下
[/][理由の一つとして、この時代は広島東洋カープの「赤ヘル旋風」期で少年たちが野球を選んだことが挙げられる。]などの要因により、実力が徐々に低下していった。
には黄金期の中心選手だった小城が監督に就任。
古田篤良・
渡辺由一・
安原真一らの活躍で、同年のリーグ戦では一時優勝争いに加わるものの最終的にリーグ戦4位、翌には天皇杯準優勝(0-1対
三菱重工(現・
浦和レッドダイヤモンズ))など一時的に建て直しに成功した。
しかし、大卒の即戦力選手獲得には東洋工業の経営不振から後手に回り
[今西曰く「他のチームと比べて初任給にかなり差があったのではないか」(下記参考資料・広島向上委員会内でのインタビューより)]世代交代が進まず
[特にDF陣レギュラーは30歳手前の選手で固められていたため、世代交代の必要性に迫られていた。]、また同時期に初の外国人選手である
宗像マルコス望を加入させたものの、これ以降外国人選手補強にも消極的な姿勢を見せた事
[宗像マルコス望がまったくチームに馴染めなかったことも原因の一つ。]で、1980年代に入ると問題は深刻化
[1980年春のキャンプ時に五日市高校との練習試合を行い、主力メンバーを出さなかったとはいえ1-3で負けてしまった(1980年3月25日号サッカーマガジンより)。またこれはニュースとして中国新聞紙面で扱われた。]する事になる。
1980年代
、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称変更。同年、黄金期の選手の一人であった
二村昭雄が監督に就任するが低迷を阻止する事は出来ず、翌一度目の2部降格をする事になった。
|
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| 1987年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-4-2システム。47News天皇杯特集参考。 |
そこでに
今西和男が総監督に就任し、古豪を復活させるべく改革に乗り出す。それまで日本人選手や日系人選手のみで構成された純血主義の伝統を打ち破り、オランダから
ハンス・オフト(後のマツダSC監督)をコーチ
[監督は今西だが指導経験が全く無かった為、オフトが実質的には監督として指導していた。][オフトは伝統あるチームの再建に興味を持ちオファーを受けたが、チーム状況は最悪であった。選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた。そして2年目から「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始めたという(出典:サッカーダイジェスト1987年4月号)。]に、
ディド・ハーフナーを
GKコーチ(選手兼任)に招聘。また、大卒の即戦力選手の獲得が思うように成らなかった
[特に県工出身の金田喜稔・木村和司らが帰って来なかった時の広島のサッカー関係者の落胆は大きかった。]過去の経験から、2軍である
マツダSC東洋を強化し、高卒選手育成に努めた。
オフトの下で組織的に訓練されたチームはにJSL1部昇格、天皇杯ベスト4進出。翌、マツダサッカー部に名称変更、昇格初年度のJSL1部で7位と健闘。にはオフト監督のもと、信藤克義(
信藤健仁)・
猿沢茂・
高橋真一郎ら地元選手の奮闘もあり、天皇杯準優勝(0-2対
読売クラブ(現・
東京ヴェルディ))するが、リーグ戦では不振が続き二度目の2部降格となった。
その後、に当時、
ブンデスリーガ2部でプレーしていた元日本代表の
風間八宏を獲得。マツダSC東洋で育成した選手達の成長もあってにJSL1部復帰。日本リーグ最後の年となった1991-1992シーズンは
フジタ(現
湘南ベルマーレ)から移籍加入した
高木琢也の活躍もあり、6位で面目を保った。
略歴
-
1938年 : 東洋工業蹴球部として創部
-
1943年 : 休部
-
1947年 : 活動再開
-
1949年 : 実業団チームとして初めて天皇杯出場
-
1954年 : 実業団チームとして初の天皇杯決勝進出
-
1956年 : 全日本実業団初優勝
-
1957年 : 天皇杯準優勝
-
1962年 : 国体初優勝、全国実業団優勝
-
1965年 : 第1回日本サッカーリーグ(JSL)に参加・初優勝、天皇杯初優勝
-
1966年 : JSL優勝、天皇杯準優勝
-
1967年 : JSL優勝、天皇杯優勝
-
1968年 : JSL優勝・4連覇(JSL最高記録、連続優勝回数)
-
1969年 : 天皇杯優勝、アジアクラブ選手権3位
-
1970年 : JSLで5度目の優勝(JSL最高優勝回数記録)、天皇杯準優勝
-
1971年 : 東洋工業サッカー部に名称変更
-
1978年 : 天皇杯準優勝
-
1981年 : マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部に名称変更
-
1983年 : JSL2部降格
-
1984年 : マツダスポーツクラブサッカー部に名称変更
-
1985年 : JSL1部昇格
-
1986年 : マツダサッカークラブに名称変更
-
1987年 : 天皇杯準優勝
-
1988年 : JSL2部降格
-
1991年 : JSL1部昇格
JSL成績
| 年 |
カテゴリ | 順位 | 勝点 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | JSLカップ | 天皇杯 | 監督 |
| |bgcolor=gold|JSL | 優勝 | 26 | 12 | 2 | 0 | 44 | 9 | - | 優勝 | 下村幸男 |
| |bgcolor=gold|JSL | 優勝 | 25 | 12 | 1 | 1 | 43 | 6 | 準優勝 |
| |bgcolor=gold|JSL | 優勝 | 22 | 10 | 2 | 2 | 37 | 16 | 優勝 |
| |bgcolor=gold|JSL | 優勝 | 21 | 10 | 1 | 3 | 31 | 11 | 1回戦敗退 |
| |bgcolor=silver|JSL | 2位 | 21 | 10 | 1 | 3 | 31 | 10 | 優勝 |
| |bgcolor=gold|JSL | 優勝 | 23 | 11 | 1 | 2 | 33 | 5 | 準優勝 |
| |JSL | 6位 | 10 | 3 | 4 | 7 | 11 | 17 | 予選敗退 | 大橋謙三 |
| 1972 | JSL1部 | 3位 | 16 | 7 | 2 | 5 | 20 | 13 | ベスト4 |
| 1973 | JSL1部 | 8位 | 14 | 4 | 6 | 8 | 16 | 28 | ? | ベスト4 |
| |JSL1部 | 6位 | 18 | 6 | 6 | 6 | 20 | 25 | - | ベスト4 |
| 1975 | JSL1部 | 8位 | 12 | 4 | 4 | 10 | 20 | 29 | ベスト16 |
| 1976 | JSL1部 | 8位 | 15 | 5 | 5 | 8 | 16 | 20 | ベスト16 | ベスト16 | 松本育夫 |
| |JSL1部 | 4位 | 42 | 9 | 2PK勝 2PK敗 | 5 | 38 | 20 | GL敗退 | ベスト16 | 小城得達 |
| |JSL1部 | 6位 | 34 | 7 | 3PK勝 0PK敗 | 8 | 23 | 34 | GL敗退 | 準優勝 |
| 1979 | JSL1部 | 6位 | 33 | 5 | 4PK勝 5PK敗 | 4 | 20 | 19 | 1回戦敗退 | ベスト16 |
| 1980 | JSL1部 | 7位 | 15 | 6 | 3 | 9 | 22 | 26 | ベスト16 | ベスト16 |
| |JSL1部 | 8位 | 13 | 4 | 5 | 9 | 15 | 27 | 2回戦敗退 | 1回戦敗退 | 二村昭雄 |
| 1982 | JSL1部 | 8位 | 14 | 5 | 4 | 9 | 14 | 24 | 2回戦敗退 | ベスト16 |
| 1983 | JSL1部 | 10位 | 12 | 5 | 2 | 11 | 15 | 31 | 2回戦敗退 | ベスト16 |
| |JSL2部 | 6位 | 18 | 7 | 4 | 7 | 24 | 20 | ベスト16 | 2回戦敗退 | 今西和男 |
| 1985 | JSL2部・西 | _ | 12 | 5 | 2 | 3 | 14 | 10 | 1回戦敗退 | ベスト4 |
| JSL2部・上位 | 2位 | 11 | 3 | 5 | 2 | 13 | 10 |
| 1986-87 | JSL1部 | 7位 | 23 | 6 | 11 | 5 | 17 | 17 | 1回戦敗退 | 2回戦敗退 |
| |JSL1部 | 11位 | 13 | 2 | 9 | 11 | 8 | 18 | 2回戦敗退 | 準優勝 | ハンス・オフト |
| 1988-89 | JSL2部・西 | _ | 22 | 9 | 4 | 1 | 24 | 6 | ベスト16 | 1回戦敗退 | 今西和男 |
| |JSL2部・上位 | 5位 | 14 | 5 | 4 | 5 | 16 | 9 |
| 1989-90 | JSL2部 | 3位 | 67 | 20 | 7 | 3 | 62 | 20 | 2回戦敗退 | ベスト16 |
| |bgcolor=silver|JSL2部 | 2位 | 74 | 24 | 2 | 4 | 76 | 17 | ベスト16 | 2回戦敗退 |
| 1991-92 | JSL1部 | 6位 | 27 | 7 | 6 | 9 | 30 | 23 | ベスト4 | 2回戦敗退 | 今西和男(総監督) |
国際試合
| 開催年月日 | 大会名 | 対戦相手 | 開催スタジアム | スコア | 勝敗 |
| 69年1月15日 | アジアクラブ選手権1969グループBリーグ | マッカビ・テルアビブFC | | 2-3 | 敗北 |
| 69年1月17日 | アジアクラブ選手権1969グループBリーグ | ピルズィ・テヘラン | | 1-0 | 勝利 |
| 69年1月21日 | アジアクラブ選手権1969グループBリーグ | 九龍バス | | 1-0 | 勝利 |
| 69年1月24日 | アジアクラブ選手権1969グループBリーグ | ペラFA | | 1-0 | 勝利 |
| 69年1月28日 | アジアクラブ選手権1969準決勝 | ヤンジーFC | | 0-2 | 敗北 |
| 69年1月30日 | アジアクラブ選手権1969・3位決定戦 | マイソール州選抜 | | 2-0 | 勝利 |
主なタイトル
チーム
個人
-
日本年間最優秀選手賞
-
*1962年 小沢通宏
-
*1965年 小城得達
-
*1970年 小城得達
-
JSL得点王
-
*1966年 小城得達
-
JSLアシスト王
-
*1966年 桑田隆幸
-
*1977年 安原真一
-
新人王
-
*1966年 松本育夫
-
*1982年 猿沢茂
-
*1991/92年 高木琢也
-
ベスト11
-
*1966年 今西和男、小城得達、桑田隆幸、松本育夫
-
*1967年 小城得達
-
*1968年 小城得達
-
*1969年 小城得達
-
*1970年 船本幸路、小城得達
-
*1971年 小城得達
-
*1972年 小城得達
-
*1986/87年 ディド・ハーフナー
歴代監督
初期の山崎と小畑は選手兼任で監督を行っていたが、小畑は途中から監督専業となっている。1970年代の大橋と松本は年代別代表監督と兼務で行っており、その後大橋は東洋工業、松本は年代別代表の監督専任となった。初めての外国籍スタッフは、1983年夏の中断時期に短期来日したクラウツン。以降も外国籍スタッフが入っていたが、そのうち正式に監督職となったのはオフトのみ。
| 名前 | 国籍 | 任期 | 主なタイトル | 備考 |
| 山崎芳樹 | | 1938 - 1950 | | 1943年から1946年まで休部 |
| 小畑実 | | 1951 - 1963 | 全日本実業団:1956・1962 国体:1962 | |
| 下村幸男 | | 1964 - 1970 | JSL:1965・1966・1967・1968・1970 天皇杯:1965・1967・1969 1969アジアクラブ選手権出場 | |
| 大橋謙三 | | 1971 - 1975 | | 1971年日本代表ユース監督と兼務 |
| 松本育夫 | | 1976 | | 1976年日本代表ユース監督と兼務 |
| 小城得達 | | 1977 - 1980 | | |
| 二村昭雄 | | 1981 - 1983 | | クラウツンコーチ1983年8月から9月 |
| 今西和男 | | 1984 - 1987 | | オフトコーチ1984年から1987年 |
| ハンス・オフト | | 1987 - 1988 | | |
| 今西和男 | | 1988 - 1992 | | ビルコーチ1988年から1991年 |
歴代選手
所属全選手ではなく、名前のわかっているものを記載している。
:Category:東洋工業サッカー部の選手も参照。
太字は
国際Aマッチ出場選手。備考欄の「○」は
JFA 公認S級コーチライセンス取得者。 ポジション欄の意味は以下の通り。
-
GK:ゴールキーパー
-
FB:フルバック、CB:センターバック、SB:サイドバック
-
HB:ハーフバック、MF:ミッドフィルダー
-
FW:フォワード
| 名前 | 国籍 | ポジション | 在籍 | 試合数 | 備考 |
| 山崎芳樹 | | | 1938 - 1950 | | 監督兼任 |
| 銭村健次 | | FW | 1948 - | | |
| 小畑実 | | FW | 1949 - | | 一時監督兼任 |
| 芳野統男 | | FB | - | | |
| 下村幸男 | | GK | 1952 - 1961 | | メルボルンオリンピック出場 |
| 樽谷明 | | FW | 1953 - | | |
| 重松良典 | | FW | 1954 - | | |
| 小沢通宏 | | HB、FB | 1955 - 1967 | | メルボルンオリンピック出場 1962年フットボーラーオブザイヤー |
| 北島秀夫 | | HB | 1955 - | | |
| 田中雍和 | | FW | - | | |
| 大橋謙三 | | HB | - 1967 | | 田辺製薬から移籍 |
| 沼野博 | | HB | 1956 - | | |
| 石井義信 | | HB | 1957 - 1968 | | 藤和不動産へ移籍 |
| 小原勝 | | | 1957 - | | |
| 大島治男 | | FW | 1958 - | | |
| 桑原弘之 | | FB | 1960 - 1970 | | |
| 川西武彦 | | FW | 1961 - 1966 | | |
| 船本幸路 | | GK | 1961 - 1975 | | |
| 中村勤 | | FW | 1962 - 1966 | | 早稲田大学へ進学 |
| 丹羽洋介 | | FB | 1963 - 1971 | | |
| 今西和男 | | FB、HB | 1963 - 1969 | | ○ |
| 岡光龍三 | | FW | 1963 - 1970 | | |
| 松本育夫 | | FW | 1964 - 1971 | | ○メキシコシティオリンピック出場 |
| 桑田隆幸 | | FW、HB | 1965 - 1969 | | |
| 小城得達 | | FW、HB、FB | 1965 - 1976 | | メキシコシティオリンピック出場 1965・1970年フットボーラーオブザイヤー |
| 桑原楽之 | | FW | 1965 - 1972 | | メキシコシティオリンピック出場 |
| 二村昭雄 | | HB | 1966 - | | |
| 吉田浩 | | HB | 1966 - | | |
| 大野毅 | | FB | 1967 - | | |
| 国枝強 | | FB | 1967 - | | |
| 谷本圀之 | | FW、HB | 1968 - | | |
| 川野淳次 | | HB、FB | 1968 - 1976 | | ○ |
| 佐伯一彦 | | HB | 1968 - | | |
| 小滝強 | | FB、CB | 1968 - | | |
| 小原秀男 | | FW、HB、FB | 1969 - 1981 | | |
| 小滝春男 | | FB、SB | 1971 - 1981 | | |
| 高田豊治 | | HB、CB | 1971 - 1978 | | ○ |
| 堀口照幸 | | HB | 1971 - 1977 | | |
| 安原真一 | | FW | 1971 - 1981 | | |
| 宮崎輝比呂 | | HB | - 1981 | | |
| 古田篤良 | | HB、CB | 1975 - 1984 | | |
| 野曽原芳彦 | | GK | 1975 - | | |
| 渡辺由一 | | HB | 1977 - | | |
| 山出実 | | FW | - 1982 | | |
| 中野重富 | | FW | - 1984 | | |
| 河内勝幸 | | HB | 1978 - | | ○ |
| 宗像マルコス望 | | | 1980 - 1982 | | |
| 高橋真一郎 | | FW | 1980 - 1992 | | ○ |
| 中村重和 | | SB、MF | 1981 - 1989 | | ○ |
| 猿沢茂 | | FW、MF | 1982 - 1991 | | |
| 小林伸二 | | FW | 1983 - 1990 | | ○ |
| 今川正浩 | | FW | 1983 - | | ○ |
| 木村孝洋 | | MF | 1983 - 1988 | | ○ |
| 信藤健仁 | | CB | 1983 - 1990 | | ○旧名・克義、三菱に移籍 |
| 上原洋史 | | MF | 1983 - | | |
| 山田隆 | | SB | 1983 - | | |
| 松田浩 | | CB | 1984 - 1992 | | ○ |
| 望月一頼 | | GK | 1984 - 1988 | | ○ |
| 佐藤康之 | | SB、CB | 1984 - 1992 | | |
| 織田秀和 | | MF | 1984 - | | |
| ディド・ハーフナー | | GK | 1986 - 1988 | | ○読売へ移籍 |
| 島卓視 | | FW | 1986 - 1992 | | |
| 横内昭展 | | MF | 1986 - 1992 | | ○ |
| 前川和也 | | GK | 1986 - 1992 | | |
| 山西博文 | | SB、CB | 1986 - 1992 | | |
| クレック・ノーリー | | FW | 1987 - 1988 | | |
| ロン・ヤンス | | MF | 1987 - 1988 | | |
| 崔景植 | | CB | 1987 - 1988 | | |
| 森保一 | | MF | 1987 - 1992 | | ○ |
| 河村孝 | | FW、MF | 1987 - 1991 | | 横浜フリューゲルスに移籍 |
| 幸田将和 | | MF、SB | 1988 - 1992 | | |
| 和泉茂徳 | | SB、CB | 1988 - 1992 | | マツダSC東洋のみ |
| イアン・グリフィス | | FW | 1989 - 1990 | | |
| デヴィッド・ホジソン | | MF | 1989 - 1990 | | |
| アラン・アーバイン | | FW | 1989 - 1990 | | |
| トニー・ヘンリー | | SB、MF | 1989 - 1991 | | |
| 風間八宏 | | MF | 1989 - 1992 | | ○ |
| 平田英治 | | FW | 1989 - 1992 | | |
| 河野和正 | | GK | 1989 - 1992 | | マツダSC東洋のみ |
| 片野坂知宏 | | SB | 1990 - 1992 | | ○マツダSC東洋のみ |
| 月岡利明 | | SB | 1990 - 1992 | | マツダSC東洋のみ |
| ダニエル・カリッチマン | | CB | 1991 - 1992 | | |
| ユリウス・ベーリック | | CB | 1991 - 1992 | | |
| ユーリー・カビル | | MF | 1991 - 1992 | | |
| 上野展裕 | | MF | 1991 - 1992 | | ○全日空から移籍 |
| 吉田安孝 | | CB | 1991 - 1992 | | 田辺製薬から移籍 |
| 亀田明広 | | FW | 1991 - 1992 | | NTT関東から移籍、浦和レッドダイヤモンズへ移籍 |
| 高木琢也 | | FW | 1991 - 1992 | | ○フジタから移籍 |
| 森山佳郎 | | SB | 1991 - 1992 | | |
| 柳本啓成 | | SB | 1991 - 1992 | | マツダSC東洋のみ |
| 笛真人 | | FW | 1991 - 1992 | | マツダSC東洋のみ |
| 森秀昭 | | CB、SB | 1991 - 1992 | | マツダSC東洋のみ |
脚注
関連項目
参考文献
東洋工業サッカー部について