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東洋工業サッカー部

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東洋工業サッカー部について

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

東洋工業サッカー部(とうようこうぎょうサッカーぶ)は、自動車メーカー東洋工業(現マツダ)に存在していたサッカー部。 のちにマツダサッカークラブに改名、Jリーグ創設に伴いチーム名を改称したサンフレッチェ広島の前身。

概要

創部は1938年。1965年から始まった日本サッカーリーグ(JSL)には初期から所属し、1960年代全盛期を極めた。 さらに、後身のサンフレッチェ広島を含め2009年1月までに、国内最多58回の天皇杯本大会出場回数を誇り、決勝進出も国内最多の13回と、日本サッカー史に残る名門クラブの一つ。 本拠地は広島県安芸郡府中町(マツダ本社所在地)。ホームスタジアムは県営広島スタジアム創部からJSL初期ごろまでは市内の高校グラウンドを使うことが多かった。主に使用していたのは交通の便のよさから中区国泰寺町にある広島県立広島国泰寺高等学校グラウンド。また1965年JSL最終節で優勝を決めた試合は、南区皆実の広島大学附属高校グラウンドで行われた。。ユニフォームカラーは青。 現在Jリーグに所属するサンフレッチェ広島の母体である。なおこのチームの2軍(サテライト)は現在中国社会人リーグに所属するマツダSCとして活動している。 また、OBの多くは現在もサッカー指導者・ゼネラルマネージャー・アドバイザー等として日本サッカー界に貢献している。

歴史

創設期

戦前からサッカーが根付いていた広島年末年始を語る(1)まずは高校サッカー賀川浩の片言隻句)。で、山崎芳樹を中心に同好会形式で創部した。このころは呉海軍工廠が圧倒的に強く、全国大会には1度も出場出来なかった月刊サッカーマガジン1966年06月01日号より。太平洋戦争のため休部。8月6日広島市への原子爆弾投下により市内は甚大な被害を受け、会社も多くの社員を失った。 戦後復興の最中、蹴球部もに再スタートし、銭村健次小畑実ら地元出身の有力選手が入団。、全日本選手権大会(天皇杯の前身)に実業団チームとしては初出場を果たした中国地方代表として。戦績は初戦敗退(1-7対東大LB)。ちなみに九州地方代表の日鉄二瀬も同じく実業団として初出場した。。これ以降、有力選手の入団が相次ぎ、当時の主要タイトルである全日本選手権・全日本実業団国体に常に優勝争いを繰り広げる実業団の強豪チームを作り上げた。

1950年代

200px
1954年天皇杯決勝メンバー。WWシステム。慶應義塾大学体育会ソッカ−部K.B.F.ホームページ参考。
、実業団として初めて天皇杯決勝に進出も準優勝(3-5対慶大BRB)。この決勝は、第4延長3時間にもおよぶ死闘となり、銭村が疲労のため意識不明となり倒れ、試合後は満足に歩ける選手がいない状況にまでなるほど、日本サッカー史に残る名勝負となった。これ以降、他の実業団も強化に務め、天皇杯で台頭し始めた。 、全日本実業団でまたも準優勝(0-2対田辺製薬)。しかし、田辺製薬の7連覇を阻みついに全日本実業団で優勝して初の全国タイトルを獲得した(4-0)。も天皇杯決勝進出するも準優勝(1-2対中大クラブ)このときの決勝戦会場は、現在ではありえない事だが、広島国泰寺高校グラウンドで行われた。に終わる。 この活躍から主力選手が全日本(現在のサッカー日本代表)に選出され始め、1956年のメルボルンオリンピック代表には小沢通宏下村幸男の2人が選ばれた。 また、このころになると地元から頼まれて市内の小中高校へ指導に出かけるようになる。この時指導された選手が1960年代後半の黄金期を支えることとなる月刊サッカーマガジン1966年06月01日号より。その後サッカー教室として定期的に開かれるようになり、これがのちのマツダサッカースクールや今日のサンフレッチェ広島における若年層指導に受け継がれていく。

1960年代

、国体で初優勝を飾り(延長2-1対全大阪)、全日本実業団で古河電工(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)と両チーム優勝。この活躍から同年に小沢が日本年間最優秀選手賞を受賞した。 200px
1965年JSL初年度メンバー。ちなみに小沢と松本以外は広島県出身。登録上は4-2-4だが実際は桑田がHBに近い4-3-3。サッカーマガジン71年6月号参考。
からスタートした日本サッカーリーグ(JSL)にスタート時から8チームの一つとして参加。小畑を総監督(いわゆるゼネラルマネージャー)、下村を監督に登録メンバー25人中21人が広島県出身者で固められていた。厳しいトレーニングの結果、抜群のコンビネーションを生み出し縦横無尽のパスワークで攻撃的サッカーを展開、特に攻守の切り替えの早さは他チームと比べ、群を抜いていた近年、イビチャ・オシムらが推奨する「考えて走るサッカー」が注目されているが、彼らはそれを実践していた。viva!を参照。。 JSLの記念すべき第1回大会を12勝2分け0敗と無敗で優勝。第1回大会第14節・対ヤンマー戦(現・セレッソ大阪)で記録した11-0は、最多得点及び最多得失点差11点のJSL最高記録。第2回大会まで23連勝を記録するなど、まで不滅のリーグ4連覇の金字塔を樹立し、JSL27回の歴史で最多の5回の優勝を飾った。さらに天皇杯では、1965年第45回大会で初優勝すると、1965年-70年の6年で決勝に5度進出し3度の優勝を飾った第46回大会1966年1月14日に行われた早稲田大との決勝戦は、国立競技場で初めて決勝が行われた大会であり、学生が最後に優勝した大会でもある(2-3)。。また国際舞台では、の第2回アジア・クラブ選手権に日本勢として初出場し3位入賞を果たした。 このときのメンバーの多くは全日本に選出され、1968年のメキシコオリンピックにも小城得達桑原楽之松本育夫の3人の代表選手を送り日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。 この時代の東洋工業を止めようと、他チームのほとんどがスイーパーを置くようになり、そこから1970年代JSLはスイーパーシステム流行へと向かった月刊サッカーマガジン1971年6月号や1972年06月01日号などより参照

1970年代

200px
1978年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-3-3スイーパーシステム。47News天皇杯特集参考。
しかし1970年代に入ると、環境面を整備した他チームの台頭や主力選手の引退JSL初期に抜群のコンビネーションを誇りリーグ随一の攻撃力だったFW陣が、1970年前後に相次いで退団・引退したことで、チームの得点力がガタ落ちした。またDF陣も同様に相次いで引退したため攻撃のキーマンである小城得達をDFあるいは守備的なMFとして起用したことにより、さらに得点力が低下することとなった。、親会社である東洋工業の業績不振当時のマツダは世界初となる自動車搭載用ロータリーエンジンの開発に成功し、圧倒的なシェアを誇るトヨタ日産を追走していたが、1973年のオイルショックの影響により経営状態が悪化。会社の業績悪化はサッカー部の運営にも影響が及び、数年間新人を全く採用出来なかった。、広島サッカー界の地盤沈下/理由の一つとして、この時代は広島東洋カープの「赤ヘル旋風」期で少年たちが野球を選んだことが挙げられる。などの要因により、実力が徐々に低下していった。 には黄金期の中心選手だった小城が監督に就任。古田篤良渡辺由一安原真一らの活躍で、同年のリーグ戦では一時優勝争いに加わるものの最終的にリーグ戦4位、翌には天皇杯準優勝(0-1対三菱重工(現・浦和レッドダイヤモンズ))など一時的に建て直しに成功した。 しかし、大卒の即戦力選手獲得には東洋工業の経営不振から後手に回り今西曰く「他のチームと比べて初任給にかなり差があったのではないか」(下記参考資料・広島向上委員会内でのインタビューより)世代交代が進まず特にDF陣レギュラーは30歳手前の選手で固められていたため、世代交代の必要性に迫られていた。、また同時期に初の外国人選手である宗像マルコス望を加入させたものの、これ以降外国人選手補強にも消極的な姿勢を見せた事宗像マルコス望がまったくチームに馴染めなかったことも原因の一つ。で、1980年代に入ると問題は深刻化1980年春のキャンプ時に五日市高校との練習試合を行い、主力メンバーを出さなかったとはいえ1-3で負けてしまった(1980年3月25日号サッカーマガジンより)。またこれはニュースとして中国新聞紙面で扱われた。する事になる。

1980年代

、マツダスポーツクラブ(マツダSC)に名称変更。同年、黄金期の選手の一人であった二村昭雄が監督に就任するが低迷を阻止する事は出来ず、翌一度目の2部降格をする事になった。 200px
1987年天皇杯決勝メンバー、括弧は途中交代出場選手。4-4-2システム。47News天皇杯特集参考。
そこでに今西和男が総監督に就任し、古豪を復活させるべく改革に乗り出す。それまで日本人選手や日系人選手のみで構成された純血主義の伝統を打ち破り、オランダからハンス・オフト(後のマツダSC監督)をコーチ監督は今西だが指導経験が全く無かった為、オフトが実質的には監督として指導していた。オフトは伝統あるチームの再建に興味を持ちオファーを受けたが、チーム状況は最悪であった。選手達には技術、体力以前にメンタルに問題があるとし、意識改革を促す事から始めた。そして2年目から「シンキング・フットボール」を合言葉に戦術的な役割を事細かく教育し始めたという(出典:サッカーダイジェスト1987年4月号)。に、ディド・ハーフナーGKコーチ(選手兼任)に招聘。また、大卒の即戦力選手の獲得が思うように成らなかった特に県工出身の金田喜稔木村和司らが帰って来なかった時の広島のサッカー関係者の落胆は大きかった。過去の経験から、2軍であるマツダSC東洋を強化し、高卒選手育成に努めた。 オフトの下で組織的に訓練されたチームはにJSL1部昇格、天皇杯ベスト4進出。翌、マツダサッカー部に名称変更、昇格初年度のJSL1部で7位と健闘。にはオフト監督のもと、信藤克義(信藤健仁)・猿沢茂高橋真一郎ら地元選手の奮闘もあり、天皇杯準優勝(0-2対読売クラブ(現・東京ヴェルディ))するが、リーグ戦では不振が続き二度目の2部降格となった。 その後、に当時、ブンデスリーガ2部でプレーしていた元日本代表の風間八宏を獲得。マツダSC東洋で育成した選手達の成長もあってにJSL1部復帰。日本リーグ最後の年となった1991-1992シーズンはフジタ(現湘南ベルマーレ)から移籍加入した高木琢也の活躍もあり、6位で面目を保った。

略歴

  • 1938年 : 東洋工業蹴球部として創部
  • 1943年 : 休部
  • 1947年 : 活動再開
  • 1949年 : 実業団チームとして初めて天皇杯出場
  • 1954年 : 実業団チームとして初の天皇杯決勝進出
  • 1956年 : 全日本実業団初優勝
  • 1957年 : 天皇杯準優勝
  • 1962年 : 国体初優勝、全国実業団優勝
  • 1965年 : 第1回日本サッカーリーグ(JSL)に参加・初優勝、天皇杯初優勝
  • 1966年 : JSL優勝、天皇杯準優勝
  • 1967年 : JSL優勝、天皇杯優勝
  • 1968年 : JSL優勝・4連覇(JSL最高記録、連続優勝回数)
  • 1969年 : 天皇杯優勝、アジアクラブ選手権3位
  • 1970年 : JSLで5度目の優勝(JSL最高優勝回数記録)、天皇杯準優勝
  • 1971年 : 東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1978年 : 天皇杯準優勝
  • 1981年 : マツダスポーツクラブ東洋工業サッカー部に名称変更
  • 1983年 : JSL2部降格
  • 1984年 : マツダスポーツクラブサッカー部に名称変更
  • 1985年 : JSL1部昇格
  • 1986年 : マツダサッカークラブに名称変更
  • 1987年 : 天皇杯準優勝
  • 1988年 : JSL2部降格
  • 1991年 : JSL1部昇格

JSL成績

カテゴリ順位勝点得点失点JSLカップ天皇杯監督
|bgcolor=gold|JSL優勝261220449-優勝下村幸男
|bgcolor=gold|JSL優勝251211436準優勝
|bgcolor=gold|JSL優勝2210223716優勝
|bgcolor=gold|JSL優勝21101331111回戦敗退
|bgcolor=silver|JSL2位2110133110優勝
|bgcolor=gold|JSL優勝231112335準優勝
|JSL6位103471117予選敗退大橋謙三
1972JSL1部3位167252013ベスト4
1973JSL1部8位144681628?ベスト4
|JSL1部6位186662025-ベスト4
1975JSL1部8位1244102029ベスト16
1976JSL1部8位155581620ベスト16ベスト16松本育夫
|JSL1部4位4292PK勝 2PK敗53820GL敗退ベスト16小城得達
|JSL1部6位3473PK勝 0PK敗82334GL敗退準優勝
1979JSL1部6位3354PK勝 5PK敗420191回戦敗退ベスト16
1980JSL1部7位156392226ベスト16ベスト16
|JSL1部8位1345915272回戦敗退1回戦敗退二村昭雄
1982JSL1部8位1454914242回戦敗退ベスト16
1983JSL1部10位12521115312回戦敗退ベスト16
|JSL2部6位187472420ベスト162回戦敗退今西和男
1985JSL2部・西_1252314101回戦敗退ベスト4
JSL2部・上位2位113521310
1986-87JSL1部7位23611517171回戦敗退2回戦敗退
|JSL1部11位1329118182回戦敗退準優勝ハンス・オフト
1988-89JSL2部・西_22941246ベスト161回戦敗退今西和男
|JSL2部・上位5位14545169
1989-90JSL2部3位67207362202回戦敗退ベスト16
|bgcolor=silver|JSL2部2位7424247617ベスト162回戦敗退
1991-92JSL1部6位277693023ベスト42回戦敗退今西和男(総監督)

国際試合

開催年月日 大会名 対戦相手 開催スタジアム スコア 勝敗
69年1月15日アジアクラブ選手権1969グループBリーグ マッカビ・テルアビブFC2-3敗北
69年1月17日アジアクラブ選手権1969グループBリーグ ピルズィ・テヘラン1-0勝利
69年1月21日アジアクラブ選手権1969グループBリーグ 九龍バス1-0勝利
69年1月24日アジアクラブ選手権1969グループBリーグ ペラFA1-0勝利
69年1月28日アジアクラブ選手権1969準決勝 ヤンジーFC0-2敗北
69年1月30日アジアクラブ選手権1969・3位決定戦 マイソール州選抜2-0勝利

主なタイトル

チーム

個人

歴代監督

初期の山崎と小畑は選手兼任で監督を行っていたが、小畑は途中から監督専業となっている。1970年代の大橋と松本は年代別代表監督と兼務で行っており、その後大橋は東洋工業、松本は年代別代表の監督専任となった。初めての外国籍スタッフは、1983年夏の中断時期に短期来日したクラウツン。以降も外国籍スタッフが入っていたが、そのうち正式に監督職となったのはオフトのみ。
名前国籍任期主なタイトル備考
山崎芳樹1938 - 19501943年から1946年まで休部
小畑実1951 - 1963全日本実業団:1956・1962
国体:1962
下村幸男1964 - 1970JSL:1965・1966・1967・1968・1970
天皇杯:1965・1967・1969
1969アジアクラブ選手権出場
大橋謙三1971 - 19751971年日本代表ユース監督と兼務
松本育夫19761976年日本代表ユース監督と兼務
小城得達1977 - 1980
二村昭雄1981 - 1983クラウツンコーチ1983年8月から9月
今西和男1984 - 1987オフトコーチ1984年から1987年
ハンス・オフト1987 - 1988
今西和男1988 - 1992ビルコーチ1988年から1991年

歴代選手

所属全選手ではなく、名前のわかっているものを記載している。:Category:東洋工業サッカー部の選手も参照。太字国際Aマッチ出場選手。備考欄の「○」はJFA 公認S級コーチライセンス取得者。 ポジション欄の意味は以下の通り。
  • GK:ゴールキーパー
  • FB:フルバック、CB:センターバック、SB:サイドバック
  • HB:ハーフバック、MF:ミッドフィルダー
  • FW:フォワード
名前国籍ポジション在籍試合数備考
山崎芳樹1938 - 1950監督兼任
銭村健次FW1948 -
小畑実FW1949 - 一時監督兼任
芳野統男FB -
下村幸男GK1952 - 1961メルボルンオリンピック出場
樽谷明FW1953 -
重松良典FW1954 -
小沢通宏HB、FB1955 - 1967メルボルンオリンピック出場
1962年フットボーラーオブザイヤー
北島秀夫HB1955 -
田中雍和FW -
大橋謙三HB - 1967田辺製薬から移籍
沼野博HB1956 -
石井義信HB1957 - 1968藤和不動産へ移籍
小原勝1957 -
大島治男FW1958 -
桑原弘之FB1960 - 1970
川西武彦FW1961 - 1966
船本幸路GK1961 - 1975
中村勤FW1962 - 1966早稲田大学へ進学
丹羽洋介FB1963 - 1971
今西和男FB、HB1963 - 1969
岡光龍三FW1963 - 1970
松本育夫FW1964 - 1971○メキシコシティオリンピック出場
桑田隆幸FW、HB1965 - 1969
小城得達FW、HB、FB1965 - 1976メキシコシティオリンピック出場
1965・1970年フットボーラーオブザイヤー
桑原楽之FW1965 - 1972メキシコシティオリンピック出場
二村昭雄HB1966 -
吉田浩HB1966 -
大野毅FB1967 -
国枝強FB1967 -
谷本圀之FW、HB1968 -
川野淳次HB、FB1968 - 1976
佐伯一彦HB1968 -
小滝強FB、CB1968 -
小原秀男FW、HB、FB1969 - 1981
小滝春男FB、SB1971 - 1981
高田豊治HB、CB1971 - 1978
堀口照幸HB1971 - 1977
安原真一FW1971 - 1981
宮崎輝比呂HB - 1981
古田篤良HB、CB1975 - 1984
野曽原芳彦GK1975 -
渡辺由一HB1977 -
山出実FW - 1982
中野重富FW - 1984
河内勝幸HB1978 -
宗像マルコス望1980 - 1982
高橋真一郎FW1980 - 1992
中村重和SB、MF1981 - 1989
猿沢茂FW、MF1982 - 1991
小林伸二FW1983 - 1990
今川正浩FW1983 -
木村孝洋MF1983 - 1988
信藤健仁CB1983 - 1990○旧名・克義、三菱に移籍
上原洋史MF1983 -
山田隆SB1983 -
松田浩CB1984 - 1992
望月一頼GK1984 - 1988
佐藤康之SB、CB1984 - 1992
織田秀和MF1984 -
ディド・ハーフナーGK1986 - 1988○読売へ移籍
島卓視FW1986 - 1992
横内昭展MF1986 - 1992
前川和也GK1986 - 1992
山西博文SB、CB1986 - 1992
クレック・ノーリーFW1987 - 1988
ロン・ヤンスMF1987 - 1988
崔景植CB1987 - 1988
森保一MF1987 - 1992
河村孝FW、MF1987 - 1991横浜フリューゲルスに移籍
幸田将和MF、SB1988 - 1992
和泉茂徳SB、CB1988 - 1992マツダSC東洋のみ
イアン・グリフィスFW1989 - 1990
デヴィッド・ホジソンMF1989 - 1990
アラン・アーバインFW1989 - 1990
トニー・ヘンリーSB、MF1989 - 1991
風間八宏MF1989 - 1992
平田英治FW1989 - 1992
河野和正GK1989 - 1992マツダSC東洋のみ
片野坂知宏SB1990 - 1992○マツダSC東洋のみ
月岡利明SB1990 - 1992マツダSC東洋のみ
ダニエル・カリッチマンCB1991 - 1992
ユリウス・ベーリックCB1991 - 1992
ユーリー・カビルMF1991 - 1992
上野展裕MF1991 - 1992○全日空から移籍
吉田安孝CB1991 - 1992田辺製薬から移籍
亀田明広FW1991 - 1992NTT関東から移籍、浦和レッドダイヤモンズへ移籍
高木琢也FW1991 - 1992○フジタから移籍
森山佳郎SB1991 - 1992
柳本啓成SB1991 - 1992マツダSC東洋のみ
笛真人FW1991 - 1992マツダSC東洋のみ
森秀昭CB、SB1991 - 1992マツダSC東洋のみ

脚注

関連項目

参考文献

東洋工業サッカー部について
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