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里見義豊

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里見義豊について

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

里見 義豊(さとみ よしとよ、?- 天文3年4月6日1534年5月18日))は戦国時代の人物。安房の大名里見氏の当主。里見義通の長男。左馬頭。高巖院殿長義居士。

従来の説

永正15年(1518年)、父・義通が危篤となると家督を継ぐ。だが、義通の弟実堯が義通15歳になるまでは陣代(後見人)として家督を預かることになった。この頃、対岸の三浦半島に進出してきた北条氏に対抗するため、大永6年(1526年)に品川鎌倉に実堯とともに攻撃して当主としての器量を示した。だが、15歳を過ぎても実堯は実権を義豊に返還しなかった。また、重臣正木通綱(時綱)が実堯と接近して家中で大きな発言力を持ち始めた事に他の重臣の不満も高まった。このため、天文2年義豊は稲村城の実堯と正木通綱を襲撃して殺害する(通綱は脱出したものの傷の悪化で病没したという説もある)。だが、実堯の長男里見義堯は「仇討ち」と称して、通綱の遺児である正木時茂とともに叛旗を翻す。義豊が義堯を破ると、義堯も反撃して義豊を一時上総国内に追い払うなど戦いは一進一退だった。だが、翌年に入り義豊は武田氏の真里谷信保らの協力を得て安房国に復帰したものの、犬掛の合戦で大敗して自害に追い込まれてしまった。享年21と伝えられている(「天文の内訌」)。

近年の研究

だが、近年になって永正・大永年間に義豊が発給した文書(最古のものは従来の生年とされた永正11年(1514年)より以前の永正9年(1512年)の文書)が存在することが知られるようになり、少なくても義通が死亡した段階(永正15年(1518年))で義豊が既に元服していた可能性が濃厚となった更に現在では義通の生没年についても疑問が持たれている。。逆に言えば、実堯が里見氏の陣代であったとされる従来の記録は義堯の里見氏相続を正当化するために改竄された疑いが出てきたのである。現存最古の文書発給が義豊死去の22年前に行われている事実により、義豊の実際の享年は少なくても30は越えていたものと思われるなお、里見氏研究で知られている郷土史家の千野原靖方は、従来の史料では義通の享年とされていた38が実は義豊の享年であった可能性があるとする見解を出している。。また、義豊の居城についても最初から稲村城にあったというのが近年の有力説である。

脚注

里見義豊について
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