殷墟について
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殷墟(いんきょ)は
中華人民共和国河南省安陽市に位置する古代中国
殷王朝(BC1600 - BC1046)後期の遺構。河南平野の現在は近代的なビルが林立する安陽市街地に位置している。
概要
殷墟は殷王朝後期(BC14世紀ごろ - BC11世紀ごろ)の宗教的、文化的な中心地であった。
盤庚による遷都から
帝辛(紂王)の時代の滅亡に至るまで期間、殷朝の首都であったと伝えられる。
盗掘された
甲骨片の発見が契機となり、
1928年より発掘作業が開始され、殷の首都であることが確認されるに至った。殷墟からは深さ20メートルを超えるものを含む多数の巨大墳墓が発見されている。
1961年に中華人民共和国の
全国重点文物保護単位に、
2006年7月には「四川省のジャイアントパンダ保護区」とともに世界遺産に登録された。
発掘に至るまで
真偽は不明であるが、
1899年に
金石学者であった
王懿栄(1845年 - 1900年)は、
北京市内の漢方薬店で購入した
龍骨(
漢方薬の一種である骨)に
金文(古代の金属器や石刻に刻まれた
漢字)に類似した
古文字を発見、これを解読すべく龍骨を大量に購入したと伝えられる。
1900年、
義和団事変に伴う八ヶ国軍の北京侵入の際に王懿栄は自殺、収集した龍甲は小説家である
劉鶚に譲渡され、その友人である金石学者
羅振玉により龍甲は河南省北部の小屯村より出土したものであることが判明した。羅振玉は
甲骨文字の解読を進め、この村は伝説上の存在と考えられていた殷王朝の遺構ではないかと推察した。その後
王国維の研究により、ここが
盤庚が遷都した後の殷都である説が唱えられた。
殷朝遺構の調査のため、
1928年から甲骨の発掘調査が行われることになった。
中央研究院は考古学者による発掘隊を組織、
日中戦争で中断する
1937年まで15回にわたる発掘作業を行い、甲骨だけでなく
青銅器などの金属器や墳墓などの遺跡も発見された。
1950年に発掘は再開され、
1986年までの間に15万件の甲骨が発掘されている。
殷墟の規模と発掘物
現在調査が進んだ殷墟の範囲は東西6km、南北4kmの地域で、
洹水が中央を流れている面積24万平方メートルにわたることが判明している。この地域かたは殷代の甲骨や青銅器が集中して発掘された場所であり、多くの遺跡と墳墓が発見され、洹水南岸に位置する小屯村北東部が宮殿などが位置する殷都の中心だったと考えられ、周囲からは工房跡なども発掘されている。洹水北岸の武官村一帯には歴代の王墓が存在し、13の大規模な墳墓が発見されている。そのなかで遺物が発見されていない墳墓は、殷朝最後のの王である紂王のものであり、殷朝滅亡により埋葬されなかった墳墓であると推測されている。
22代王の帝
武丁の王妃であった
婦好の墳墓は、
1976年にほぼ未盗掘の状態で発見され、墳墓からは6匹の犬のほか、少なくとも16人の殉死者が発掘され、他に副葬品として440以上の青銅器、約600もの玉石器、石彫類、骨角器、約7,000枚の当時の貝貨が出土している。
殷墟では多数の甲骨(亀の腹甲や牛や鹿の肩胛骨など)には文字か刻まれ、合計で5,000字以上の文字が確認され、そのうち1,700字ほどが解読されている。またこの甲骨文字の研究により、殷王朝の存在が同時代資料を通じて確認されたほか、この文字が現在使用される
漢字の祖形となったことが確認されている。
登録基準
関連項目
外部リンク
殷墟について