| 件名: | Re: みなさんにとって哲学とは何ですか? |
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| MLNo. | [swansong:2495] |
| 差出人: | 横井直高さん <swansong…> |
| 送信日時: | 2006/08/14 07:41 |
| 本文: | みなさん、木村さん、こんにちは、横井です。
>私は治療の世界に身を置いておりますが、 >やはり現代医学の人体概念だけでは十分で >ないように思います。東洋医学やカイロプ >ラクティックなどの、異なる人体概念があ >ることにより治療の幅が拡がるように思い >ます。 本当にそうですね。西洋一辺倒では、どうしても偏りが出てしまうと思います。 それは哲学についても同じです。哲学という言葉の由来が、木村さんが紹介されて いるように、 >philosophyの訳語。ギリシア語の >philosophiaに由来し、「sophia(智)を >philein(愛する)」という意。 であるにしても、そうだからといって東洋の思想に”哲学”を冠してはならない理 由にはなりません。東洋哲学という語は、哲学の本来的な意味において、成立しなく てはならないと考えています。 仏教は、その成立における根源的な意味において、徹底した哲学だと感じていま す。仏教は宗教という名でくくられてしまうよりも、はるかに哲学的です。 ブッダが無常を悟ったとき、仏教は宗教である以前に哲学として出発しました。世 界に永遠なるものなどない、いっさいが川のごとく流れていく、この認識こそ悟りと して見いだされたのでした。それはまさに世界を理想として見いだすのではなく起源 へと迫ったものでした。 さらに龍樹がブッダの悟りを見事に哲学へと昇華していきまいた。無常をいっさい が流れていくという意味で捉えてしまっては、それでは無常こそ永遠の真理になって しまうでしょう。無常であることが永遠の真理となり、無常でなくなってしまうので す。真の無常は、無常とさえ言われてはならないのです。 中観派の開祖、龍樹が見いだした「空(くう)」はここから見いだされてこなくて はなりません。神などのように、いっさいがそこから見いだされてくるような絶対的 なものなどない、という認識が、無常から空への変更によって、より明確に見いださ れるようになりました。 ですが、ここで注意しておかなくてはならないのは、空は決して無と同義ではない ということです。空はどこまでもブッダにおける無常を精緻化させたものなのですか ら。基本的に無常=空としてとらえる必要があります。無常が、そこにおいていっさ いの現象が見出されてくるような根源的な基本であるのと同様に、空もまた、そこか らいっさいが見出されてくるような根源的な無なのです。それはいっさいが有るとい うことの反対として捉えられてはなりません。決して見いだされることはないけれ ど、いっさいの現象を根拠づける、決して現象しないものとして捉えられる必要があ るのです。 そうであるからこそ、空はまた縁でもあると喝破したのでした。たとえば、草で編 んだ庵(いおり)が根源的、実体的に有るのではありません。編んだ草を解いてしま えば、ただの草の山になってしまうでしょう。もはや庵の影もありません。庵とは草 の縁によって見出されたものなのです。そして、それは決して実体的に捉えられては ならず、空として見出されねばならないということなのです。 ここには、フッサールの創始した現象学と同様な発見があります。フッサールがエ ポケーによって見出した超越論的な領野こそ、ブッダにおける無常、龍樹における空 として捉えられねばならないのです。 フッサールが存在学ではなく、どこまでも現象学という名において、自らの哲学を 興したことには大きな意義があります。存在ではなく、いっさいの現象は、決して見 いだされることのない、超越論的な領野から、見出されてくるような現象でしかない としたのでした。いっさいに実体的な根拠などありません。カントが物自体と呼んだ ような絶対的な実体を過去へと追いやったのでした。 見いだされる現象こそが本質である、これこそが龍樹の縁としたものだったので す。この意味において、仏教とはひとつの現象学として捉えることが可能になるので す。また、反対に現象学こそ、仏教なのだと言いえるのです。 >懐疑するが否定しない・・・と言うのは、 >仏教的でしょうか。 まさにそうですね(^-^) |
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