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みなさん、林さん、エンタフさん、こんにちは、横井です。
ヒトラーの独裁政権の誕生について、林さんが決して忘れてはならない重要なことを書いてくださいました。
ナチスはクーデターのような形で政権を強襲したわけではないということです。きわめて民主的に政権に就いたのでした。それはドイツ国民が強いリーダーを求めていたからに他なりません。日本国民もそうです。いまだに小泉純一郎氏の人気は衰えません。そこに強いリーダー像を描いているからです。
他人に引っ張っていってもらいたい、難しいことを自分の代わりに考えてくれる人が欲しい、この依頼心こそナチスを樹立させる根源です。その気持ちは、どこに指針があるのか見つけにくい民主主義にこそ巣食います。民主主義は言い換えれば、あなた任せでは駄目だという思想です。自分だけがんばるのではなく、他人だけがんばればよいということでもなく、誰もが協力しあって、よい社会を作っていこうとする行為です。民主主義は考えだけでは何にもなりません。一人も欠けることなく、みんなが協力しあって社会を築いていく行為です。民主主義は行為なくして成立しません。
行為しつづけること、このことを国民が忘れて傍観者になってしまったとき、民主主義こそがナチスを育て、ナチスに滅亡させられてしまうのです。
では、そもそもナチスの独裁体制とは何でしょうか。ヒトラーを頂点とするナチスによって国民を制圧する政治です。ちょうど以下の図のようです。
ナチスの独裁体制と孔子の君主体制
http://www6.plala.or.jp/swansong/kousitekikunsyutaisei.htm
ヒトラーが上位に君臨し、国民を牛耳っています。しかし、こうした独裁政治は多くの場合、国民への徹底的な圧制が敷かれます。どうしてそうなってしまうのでしょうか。
ナチスの頂点であるヒトラーにしても、国民の一人に過ぎません。多くの国民の中の一人でしかありません。それが全国民の上位に立つことなどおかしなことではないでしょうか。このおかしなことをおかしく見せないために弾圧が必要とされてしまいます。国民の自由を奪うことによって、奪う自分を上位に固定させているのです。
では、国民の上位に立つには、このような弾圧的政治しかないのでしょうか。
ここで、もう一度、考えて見なくてはならないのは孔子です。『論語』というと、どうも堅苦しくて嫌だな、と思ってしまう方も多いでしょうが、孔子はあくまで政治思想家として見ないと、本質的な部分が分かりません。生き方、人生論として読むのではなく、為政者はどうあるべきかという視点で読む必要があります。そのとき、初めてヒトラー的独裁政治に真に対抗しうる孔子的な君主政治のビジョンが見えてきます。
孔子の『論語』はわざわざ本を買わなくても、ホームページにあるので、コンピューター上で読めるので便利です。
「論語の世界」
http://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/rongo.html
さて、孔子が説こうとしたあり方の中心は仁です。為政者は上位に立とうとするのではなく、仁により、自らの器を大きくし、民の信頼によって政治をなすべきだという思想です。具体的に政治を行う者は、どんな心構えで生きればよいかを教えたのが論語です。
ナチスの独裁体制と孔子の君主体制
http://www6.plala.or.jp/swansong/kousitekikunsyutaisei.htm
ナチスの下にある図が自らの器を大きくすることによって政治を行おうとする孔子思想のイメージ図です。ここには、ヒトラーのような自分自身も一国民なのに、どこに国民を弾圧できるような上位に立てる資格があるのかが見えてきません。だからこそ圧制を敷いて無理やり、上位に立っているのです。
孔子はそうではありません。孔子の思想とは、このような矛盾的事態、ゲーデル的事態に対抗して為政者はいかにあるべきかを問うたのでした。上位に立ってしまったら、ゲーデル的な矛盾が出てしまいます。だからこそ立ち位置は民と同じにして、為政者自身の器を大きくすることで、信頼を勝ち取り、信頼によって為政を為そうとしたのでした。これを何か人生論的な側面だけから見ては孔子の思想を見誤ってしまいます。どこまでも為政者が必然的に陥ってしまう独裁というゲーデル的事態からの真の対抗手段として読まれるべきなのです。
根本的な思想が違うために、同じ為政を行うにしても、こんなにも違うものになってしまいます。ナチスはあくまで国民の上位を固守しようとし、孔子は上位ではなく、民と同じ地点にたって、信頼によって為政をなそうとします。
ナチスと孔子では同じ為政者の思想といえどもまったく違うように見えますが、本当にそうでしょうか。
エンタフさんが、ここに鋭く疑問を投げかけられています。もっともです。孔子の思想は本当にナチスとは対極にあるのだろうか、どこかで崩れてしまうときはないのだろうかとエンタフさんは疑問を投げかけています。
孔子の為政者は本当に民と同じ地点にたっていると、民自身は感じつづけられるでしょうか。最初期は、自分たちと同じ地平で政治をしてくれると歓迎されるでしょう。為政者の態度はまったく変わらないとしても、その政権が長くつづくことによって、どこかでナチス的な抑圧を民が感じることはないのでしょうか。
たとえば、上記の図のナチスの独裁体制と孔子の君主体制を上から見た場合のイメージ図を描いてみました。ヒトラーは上位クラスにいるので、上からの視点で見ると、国民より大きく見えます。
孔子もまた、民よりも器が大きいので、上からの視点で見ると、ヒトラーと同じく大きく見えてしまいます。上から見ると区別がつかなくなってしまのです。
孔子の為政者に治められている民が上からの視点で考えてみたとき、ヒトラー的な上位地点と孔子の為政者の地点の違いが分からなくなって二つの区別が決定不可能になってしまうのです。
口では、民のことを真剣に考えて治めているように見えるけれども、本当は民を抑圧することによって成り立っているだけではないかと疑念をもたれてしまったらどうでしょうか。
こうしたことが起こらないようにするものこそ孔子の仁です。一時期、民に誠実であればよいということではありません。君主である限り、終生、仁を貫いて初めてナチス的事態=ゲーデル的事態から無関係でいられるのです。それは普通の人間にはとてもできないことです。孔子の言う仁を一人の人間の生き方としてみてはいけません。どこまでもゲーデル的事態へと陥らないための為政者のあり方として読んで、初めてその真意が見えてきます。
しかし、孔子の為政者はあまりにも理想的です。普通の人間ができることではありません。よほど傑出した大人物でない限り、為政者になってはいけないということです。しかし、いつの世にも、そんな大人物はいるのでしょうか。孔子の思想は、あまりにも個人に対する要求が高すぎるのです。
そうだからこそ、民主主義というシステムに意味があります。個人の能力のみに拠るのではなく、システムとして、みんなが参加し、協力しあい、補い合って社会を動かしていくことが望まれてきのです。
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MLNo.3838
横井直高さん
2009/11/07 11:04 [メール表示する]

みなさん、こんにちは、横井です。
ブッダにとって、政治とは何であったのでしょうか。
一般的に政治とは、国政にかかわらず、ある団体の維持を基本として成立するものです。したがって、政治といわれるとき、すでにその効用が及ぶ範囲は確定されています。日本政治といわれるとき、日本国内に確定されます。宗教であれば、その教団内に確定されたなかで政治が行われます。
多くの人間が寄り集まっているからこそマクロ的視点が構成されるのですが、しかし、はじめから複数の人間が寄り集まっているわけではありません。最初は一人一人が集まることによって、初めて団体が構成されていきます。結局、政治的視点という名で、その団体の境界線を画定させてしまったら、そこで行われるブッダの教えは、常にマクロ的視点からの説教になってしまいます。すなわち、おおぜいの人々を前に、誰にでもあてはまる話になってしまうのです。
ブッダにとって、教団内政治といってしまっては、ブッダの教えに反してしまいます。ここにこそブッダの根源性が見られます。政治はあくまで団体=マクロ的視点において行われるものです。たった一人なら政治は要らないでしょうから。
ブッダが行おうとした説教はこうしたものではありません。あくまでも一対一を前提にしたものです。「あの人」めがけて説教されてこそ、ブッダの教えは初めて伝わのです。政治が当然の前提=手段としている個人をこそブッダは目的にしようとしたのでした。ブッダにとって、一人、演台にたって、おおぜいの人々に呼びかけるマクロ的視点からの本質的説教など考えられなかったでしょうから。
こうした点だけでなく、ブッダが政治を解体、遡行させようとした意義は仏教そのものにかかわってきます。ブッダは現世だけについて悟ったわけではないからです。前世、来世をも視野にいれなくては、そもそもブッダの教えにはなりません。ところが、教団などという団体を境界線として政治を考えてしまっては、現世だけのことに限定されてしまい、前世、来世を視野に収められなくなってしまいます。
外枠から見られる個人へと限定するのではなく、団体から個人へと遡行することによって、個人の視野から世界が見えてきます。前世・現世・来世が個人の視野の中で、圧倒的パノラマを展開するのです。この視野は個人においてのみ、初めて現れてくるものです。団体で前世・現世・来世と言っても、それは共同幻想にしかならないでしょうから。
団体が前提とする個人へと視点を当てること、すなわち政治の解体、遡行において初めて仏教の真の姿があらわれてくるのではないでしょうか。
こうした局面において、ブッダにしかできない政治が見えてきます。この点を鋭くついているのがアングリマーラです。アングリマーラとは、師に間違った指示を与えられ、100人の殺人をすれば修行が完成すると言われ、本当に次々と人を殺していった人です。ちょうど100人目にブッダに出会い、諭され、ブッダの弟子となって修行をつづけます。
99人もの人殺しをしたアングリマーラに、ブッダは修行として街へと托鉢を命じます。アングリマーラに殺された家族は、托鉢にくる彼を許しはしません。石が投げらます。泥が投げられます。棒が投げられます。アングリマーラは血みどろになって托鉢を続けます。
その姿を見て、ブッダは、
「耐えなさい。行為の報いとして、幾年も、幾百年も、幾千年も 地獄で蒙らなければならない、その行為の報いを、あなたは目の当たりに受け ているのです」
と諭します。
これを一般的な政治的罰として考えられてはなりません。政治的罰は、常に団体の規律を破ったものとして罰せられます。団体が個人を罰するのです。アングリマーラはそうではありません。仏教の教団に属しているのではありません。アングリマーラは今、本当に一人です。アングリマーラという個人が前世・現世・来世を見ているのです。
ここにこそブッダ独特のアングリマーラへの個人的政治があります。ブッダはアングリマーラが99人を殺したことを問うているのではありません。アングリマーラのどんな行為も、前世・現世・来世へと波及してしまうことを教えているのです。
一般の政治ならば、その人が属する集合としての団体というマクロ的視点から見ようとするでしょう。ブッダは反転させてしまうのです。その人が無常につないでいく「世界そのもの=前世・現世・来世」というマクロ的視点から見ようとするのです。
この教えが、本当に意味を持つためには、どうしてもアングリマーラは個人でなくてはなりません。仏教教団に属する中の一人ではないのです。この教えにこそ、ブッダにしか出来ない魂の政治が秘められているのではないでしょうか。

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MLNo.3839
umasica :桜里さん
2009/11/07 22:46 [メール表示する]

umasica :桜里です。
横井様、そして皆様。
「ヒトラーと孔子あるいは独裁政治と君主政治」
(http://www.freeml.com/swansong/3837/?w=true)
へのレスです。
横井さん曰く、
↓ ↓
しかし、孔子の為政者はあまりにも理想的です。普通の人間ができることではありません。よほど傑出した大人物でない限り、為政者になってはいけないということです。しかし、いつの世にも、そんな大人物はいるのでしょうか。孔子の思想は、あまりにも個人に対する要求が高すぎるのです。
そうだからこそ、民主主義というシステムに意味があります。個人の能力のみに拠るのではなく、システムとして、みんなが参加し、協力しあい、補い合って社会を動かしていくことが望まれてきのです。
↑ ↑
ということでした。
その話題に入る前に、
>ヒトラーが上位に君臨し、国民を牛耳っています。
>しかし、こうした独裁政治は多くの場合、
>国民への徹底的な圧制が敷かれます。
>どうしてそうなってしまうのでしょうか。
という点について、考えることを述べておきたいと思います。
ヒトラーのドイツにせよ、スターリンのソ連にせよ、
単なる圧政・独裁政治として考えてしまうと、
重要な点を見逃してしまうことになります。
暴力による強制という側面もありますが、
大衆・人民の自発的な政治参加・動員こそが、
ヒトラーやスターリンの権力を支えていたこともまた、
確かなことであると思えるからです。
それを支えていたのは、
アーリア人種のユートピアへの夢想であり、
プロレタリアートのユートピアへの夢想でした。
ユートピアと秘密警察・強制収容所の組み合わせには、
その底に、どこか本質的なものがあるように思えてなりません。
ユートピアが、
一元的な価値観で統一された世界として夢想される限り、
避けられない事態であるように思えてしまいます。
(この問題には、ここでは、これ以上深入りしないことにします)
さて、ここからが、今回の本論です。
「政治」というものを、
個人そして(特に)集団としての人間が構成する「社会」の、
個人間及び集団間の利害調整の場として考えると、
独裁制は、独裁者の利益に預かる人々にのみ、
最大の利益を保証するシステムということが出来るでしょう。
それに対し、民主主義は、
参加者すべてに利益の確保を保証しようとするシステムです。
利害の反する構成員の存在を前提とし、
平均値として、
構成員の不利益の最小化=構成員の利益の最大値
となる地点を、
話し合いを通して模索するシステムとして描くことが出来るでしょう。
民主主義システムでは、
自身の要求に対し、100%の満足を得ることは、
原理的に出来ないわけです。
重要なことは、社会というものが、そもそも、
利害を異にする人々により構成されているという事実を、
きちんと認識することでしょう。
ここでは、互いの利害は相反するものとして存在しているのです。
その相反する利害を調整する過程として政治を理解するならば、
当事者同士の交渉によることがベストであろうというのが、
民主主義システムを支える理念でしょう。
それに対し、
それぞれの利害を公平に理解する超越的な君主というのが、
孔子の理想なわけです。
社会のシステムが複雑化すればするほど、
孔子的な君主は非現実的な理想像とならざるを得ません。
民主主義システム下での利害調整としての「政治」においては、
すべての当事者の100%の満足はあり得ず、
しかも時間がかかるものであるということが、
民主主義に対する人々の不信に結びついてしまうことも確かですが、
しかし、現代社会においては、
孔子的な君主への期待は非現実的であり、
ヒトラー・スターリン的な「偉大な独裁者」への期待も、
強制収容所社会を生み出すだけです。
…なんてこことを、まず考えてしまうわけです。
「政治」という過程には、
他にも様々な側面があるわけで、
今回は「利害調整」という「機能」に焦点を絞って書いてみました。
ブログの方に書いた、
「人民解放軍の銃口」
→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-4c6e.html
が内容的には参考になるかも知れません。
また、横井さんの、
「ブッダにおける秘められた魂の政治」
(http://www.freeml.com/swansong/3838/?w=true)
へも関連する記事として、
「続・政治的対立と宗教的対立」
→ http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-1016.html
をご紹介しておきます。
今後の議論の参考にしていただければと思います。

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MLNo.3840
横井直高さん
2009/11/08 10:06 [メール表示する]

みなさん、桜里さん、林さん、カウンタックさん、こんにちは、横井です。
桜里さんから、以下の文章をいただきました。
この点は私の文章から抜けていた点ですね。大変、重要なご指摘をいただきました。ありがとうございます。
そして、決して見過ごされていはいけない点についても言及していただきました。
として、独裁制と民主制のシステムの違いを述べられます。そのような民主主義のあり方として、以下のように述べられます。
私はここに、民主主義そのものに独裁制を生んでしまう温床が秘められているのではないかと感じたのです。
桜里さんがおっしゃられる、
は民主主義の本質を突いていると思われます。しかし、この等式は非構成員に対してはいかなる等式として構成されるのでしょうか。
構成員の不利益の最小化
=構成員の利益の最大値となる地点
=非構成員の不利益の最大値となる地点
ということになる可能性はないのでしょうか。構成員の中では、どこまでも民主主義であろうとも、外部に対しては徹底した独裁あるいは植民地主義的であることは矛盾しないということです。
それは林さんが以前、ご指摘いただいた地点です。
この点を解決するには、たったひとつしかありません。構成体を国という単位ではなく、世界そのものにしてしまうしかありません。構成員と言うとき、世界中すべての人が含まれてしまうことによってしか、真の地球の民主主義は達成されないということです。
実は、ここにこそカウンタックさんがおっしゃられる心理経済=見えない大陸の意味が浮上してくるのではないかと考えています。
見えない大陸にはシステムを意識的に制御しようとする上位は存在しません。そうだからこそ心理経済と呼ばれるのですが。世界政府という制御機構を作って民主主義を達成するのではなく、経済活動そのものにおいて、結果的に民主主義を達成できないだろうかと考えています。
みなさん、桜里さん、林さん、カウンタックさんはいかがお考えですか。ご教示ください。

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MLNo.3841
カウンタックさん
2009/11/08 12:35 [メール表示する]

横井さん、こんにちは。カウンタックです。
大前研一は20年くらい前から、それを「平成維新」呼んで、老体に鞭打って今だ頑張っていますが一部の人を除いて誰からも相手にされません。
日本人の95%は論理的に考える能力が無いので、相手にされていないのではなく、大前研一の論理的な言葉が難しくて、何を言っているのか、殆どの人が理解できない、と言うべきでしょうか。
その話とは少し違いますが、EUという新しい国家についての大前研一の文章を見つけたので読んで下さい。
EU諸国に課せられているハードルを日本もクリアできるようにしなければ、世界経済の厳しい現実の中で淘汰されてしまうそうです。
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『世界最強の国家「EU」から学ぶべきこと』
http://president.jp.reuters.com/article/2008/10/02/F10EBB48-8DF3-11DD-BA4B-B0203F99CD51.php
私はUCLAで公共政策論の講義をしていたときに国家の定義について教えていたが、実効支配、明確な国境、法律による統治、独自通貨の発行といった国家の持つべき学問的な定義をEUはすべて満たしている。
そう考えたときに、二一世紀最大の国家こそEUであるという世界観が出てくる。しかも驚くべきは、EUが人類史上初の話し合いとルールだけで形成された国家であるということだ。
アレキサンダー大王の古代マケドニア以降、神聖ローマ帝国にせよ、ビザンチン帝国にせよ、ヨーロッパの巨大国家は戦争によって国境線を広げてきた。しかしEUは軍事力に拠らず、話し合いによって“統合”を進めてきた。
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