1926年(昭和元年)のまだ、日中戦争に入る前の日中間には平定と
した時期であります。この当時から中国国内においては軍閥を主体
にした蒋介石軍、軍閥を主体にした北方の呉佩孚軍25万、孫伝芳軍
20万、張作霖軍35万の軍に対して、蒋介石軍は孫文の意志により
「国家統一」を目指して北伐を敢行いたします。
当時の中国はとても日本の常識では考えられない軍閥を中心にした
蒋介石国民革命軍(南昌政府)、北方の張作霖軍(北京政府)、汪
兆銘(共産軍と同居の漢口政府)など、いずれは分裂するか知れな
い複数の政権。さらに人身の乱れた国内状態でした。
北伐のために南京に入場した国民革命軍は1927年3月23日北伐のた
めの南京攻略を指揮しました。南京には英、米、仏、日本の租界地
区があり、イタリア、オランダ、スペイン、ポルトガル を含めた
計25,000人の兵力が駐屯しています。これら外国は、北伐のための
戦闘或いは国民革命軍の通過によっての居留民の危害が心配されま
した。
そして、心配の通り外国人狙い打ちの暴行殺傷事件が発生しました。
24日午前5時半ごろ青天白日旗を掲げた国民革命軍が入場し、日本
領事館に乱入し金品を奪い、警察署長の左腕を貫通銃創略奪品搬入
のためのトラック、馬車、人力車まで持ち込んだ。
乱入者は意味のない「日英帝国主義打倒!」を叫んだ。領事は大尉
たちの軍装が中国側を刺激する恐れがあるので軍装を解いてほしい、
階級章も取ってほしいと頼むのである。
軍人の本命「居留民の保護をするな」という靴辱的な言動にこの事
件後大尉はピストル自決をした。
暴兵と民兵は荒れ狂った。男女の別なく衣服ははぎ取られ金品を剥
奪、裸にされたり荒れ狂った暴兵に恐怖におののく民間人。一切抵
抗はされない。抵抗をすれば暴民の大虐殺へと発展しかねない。
他の外国は、英国領事館の被害は、医師と港務長が射殺され、領事
ジャイルスは左腕に銃創を受け暴兵に青龍刀で斬首される寸前に中
国人将校の制止で救助された。「金陵大学」副学長J・ウイリアム
ズは射殺された。
午後3時40分南京の下関(シャーカン)に停泊中の米英砲艦が南京
城内を艦砲射撃を開始し、事態は急転した。翌日事態を知った第二
十四駆逐隊司令吉田中佐は52人の陸戦隊を率いて領事館に到着した。
邦人たちの喜悦を領事は「避難者一同狂喜感激シテ天使ヲ迎フルガ
如ク、期セズシテ天皇陛下ノ万歳ヲ三唱シ奉レリ」と報告。
日本側の被害は、日清汽船係留船で銃弾を受けた後藤一等機関兵だ
け。外国人の被害は死者は英人二人、米人一人、フランス人一人、
イタリア人一人、負傷者は英人三人、米人二人を数えた。
南京事件の被害についても、女性に対する「身体検査」は強姦の事
実を隠す“外交辞令”である。実際には27人に輪姦された婦人もい
る。すべては抵抗を禁止した領事すなわち外務省の責任だ、などの
声が高まった。
南京事件は、国民革命軍兵士の暴行である。その意味では、責任は
総司令蒋介石負うべきである。だが、政府の交渉となれば、相手は
国民政府となるが、その国民政府の基盤が激動中であり、日本政府
としては「強硬外交」を実施しようにも対象が不鮮明であったから
である。
南京事件が、国民革命軍ひいては国民政府に対する外国の非難を招
き、直接には総司令蒋介石を失脚させて軍事力を把握しようとする
共産党の企画であることは、記述した。
南京事件に関する要点を抜粋しました。できればそれから、ここで
も虐殺がおこなわれた「済南事変」の内情から、南京虐殺といわれ
るところまで持っていきたいところでしたが、この「南京事件」が
あまりにも長くなりましたので、また反論があれば述べたいと思い
ます。
南京、上海、北京は外国租界の多いところでそれぞれの軍隊が居留
民治安のために存在しました。そして、次の済南事変へと発展して
いきます。統制のとれない軍閥の中国軍の士気は、著しく乱れた軍
隊というにはほど遠い組織。これらによって事件を拡大することに
なります。
鍋釜、番傘をを下げて進軍する軍隊をみたことがありませんが、当
時の中国軍にはそれが多かったのです。彼らの通った後はあれ放題
のゴーストタウンになる。日本はこれら中国情勢に抜き差しならぬ
底沼に引きずられることになっていくのです。
ここまでのところ日本人がおこなった虐殺事件は見られません。恐
らくいわれる虐殺事件とは、中国のことを日本に転嫁しているので
はないでしょうか。(^。^)中国人とは恐ろしいとつくづく感じまし
た。
昭和3年(1928年)2月28日国民革命軍は北伐再開に次のように軍
の新編成になりました。北伐軍総司令蒋介石、参謀総長何応欽、そ
して、その下に
第一集団軍、総司令蒋介石(兼務)、総参謀長揚杰
第二集団軍、総司令馮玉祥、総参謀長劉驥
第三集団軍、総司令閻錫山、総参謀長朱俊光
総兵力50万人。
この北伐軍に対して対向する張作霖軍は、総兵力100万といわれた
が、実際の稼動兵力は60万で南北両軍兵力は伯仲といわれる。
蒋介石は北軍との戦いには勝算をもっていたが、懸念されるのは列
強とくに日本の介入であった。
3月6日、蒋介石はとくに日本人記者団を招き、今回の北伐は「四
億の中国国民」の支持のもとにおこなわれ、作戦区域は黄河流域に
限られて東三省(満州)には及ばない旨を力説して、日本が北伐を
「阻害」せぬよう、要望した。
蒋介石は以前、宗美麗との結婚の許しを求めるために、日本を訪問
したさいに、田中義一首相とは満州の治安維持を心配し、満州には
入らぬと約束していた。
蒋介石は、田中首相の意に反して北伐を実施するが、「日本ノ願フ
満州ノ治安維持」という田中首相の発言に応じて、それと引き替え
に日本の干渉中止を願った。
4月はじめ、蒋介石は徐州に移り、参謀総長何応欽とともに第一集
団軍の作戦計画を練っていたが、総司令部に同行する南京駐在武官
佐々木到一中佐は「浪人」水野梅暁の来訪を受けた。
中佐によれば、「浪人」水野は田中首相の「密旨」を蒋介石に伝達
しにきた、と述べ、蒋介石、中佐、水野三人だけの会談をもとめ、
その席で次のように語った。
「総理は国民革命軍の北京入りに賛成する。出兵はしないからしっ
かりやってもらいたいとのことである」。佐々木中佐は、前年の山
東出兵が終わったさい、日本政府は「居留民保護」のための出兵権
を留保すると声明したことを思い出し、不審を感じた。
「浪人」水野の言葉は、田中首相は無条件に不出兵を約束するよう
に聞こえるが、在留邦人の生命と日本の権益が危険にさらされても
出兵しないというのか。
かりにその種の重大決意をしたとしても、「一国の首相ともあろう
者」が、「水野如き無責任の輩」にもらすものだろうか。中佐はひ
どく疑惑の念を強めたが、とっさに東京と連絡する手段もなく、無
言で「浪人」水野と蒋介石を注視するだけであった。
蒋介石の第一集団軍の第一目標が、済南の占領と済南―青島間の膠
済線遮断にあることは、明白である。ということは、前年の日本の
山東出兵条件の再現となる。
青島から済南までの沿線には、計一万六千四百二十七人の日本人男
女が居住していて、その生命財産がおそわれる危険が予想されるか
らである。
4月13日その沿線で、米人宣教師W・セイモアが射殺された。宣教
師W・セイモアは、夫人とともに李軍の将校に訊問されたが、乗車
を許可されたので荷物を取りにもどりかけたとき、背後から拳銃で
射殺された。
射撃した将校が財布と鞄をうばったあと、市民多数が夫妻の死体に
むらがり、文字どおりに身ぐるみ剥ぐ略奪を行った、という。ニュ
ースは済南にも伝わり、日本人居留民の不安をさそった。
4月16日、済南駐在武官酒井隆少佐の急電が参謀本部にとどいた。
「意見具申。帝国ハ出兵ヲ決心スベキ時期ニ到著セリト認ム」理由
として、山東地方に戦火がせまっているが、守る山東軍(張、孫軍)
は素質悪く、攻める南軍(国民革命軍)も大差なく、ともに「土匪」
なみである。
とくに南軍には、「共産系第4軍」がふくまれ、「排外空気ノ濃厚
ナルダケ南軍ハ危険」とみられ、北軍の敗走と南軍の進出のいずれ
にも居留民がおそわれる可能性が少なくない。同時に、青島総領事
藤田栄介、済南総領事代理西田畊一からも、同趣旨の出兵要請電が
外務省に到着した。
4月19日、午前11時の臨時閣議で、歩兵8個大隊を基幹とする兵員
約五千人、馬約四百頭を膠済線に派遣することが、正式に決定され
た。午後1時50分、第六師団と支那駐屯軍の一部(歩兵3個中隊)
を派兵する「臨参命第一号」が発せられ、第六師団輸送用として次
の6船舶が徴用された。
その二終わり。次回の続きと致します。