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残念ながら「正しい人生マニュアル」なんてものはどこにも存在しなかった。《川代ノート》

2017/11/18 00:02

離婚するしかないかもしれない、って言ったら、おかあ、なんて言うかな。
そんなことをぼんやり考えながら、家に帰るまでの道をダラダラと歩いていた。5月の福岡の夜だった。
わりと大きめの企業の総合職を辞めて、社長とアルバイトだけの、とても小さな、しかも衰退産業と言われる「書店」事業に取組んでいる超ベンチャー企業に入社して作家を目指すという道を選んだ時点で、ハプニングだらけの人生になるんだろうなという覚悟はしていたものの、さすがに二十四歳でバツイチになる予定はなかった。どうしよう、と帰り道、一人つぶやいた。
けれどもほとんど、自分の中で答えは出ていた。母親には、正直に話すしかない。ただ、実の親に率直にこの決断を言うのは憚られた。だって実の親なのだ。大事に育てた一人娘が離婚すると聞いたら、どんな顔をするだろう。どんなことを言うだろう。反応がどうしても読めなかった。なんて切り出そうか、と頭の中で様々な言葉のパターンがぐるぐると回る。「ちょっと相談がありまして」。いやいや、深刻すぎる。私と母はそういう話し方をするタイプじゃない。「この歳で離婚ってどう思う?」うーん、そういう回りくどい聞き方は違うかな。「別れてもいい?」いや、こういうことって親に許可とるもんなの? いや、わからん。全然わからん。そもそもオーソドックスな離婚のハウツーがわからん。みんなどうしてんの? どんな風にすれば自然? 結婚のいろはを説くメディアは巷にいくらでも流通しているものの、残念ながら「正しい離婚マニュアル」なんてものはどこにも存在しなかった。どうしたらいいんだ。
はあ、とため息をつき、同じことを延々と考えながら、自宅に向かっていた。もう夜だったが、福岡の人たちはまだ眠らない。楽しそうにわいわいと騒ぎながら道を歩く人たちを横目に、部屋への道を歩いた。がさり、というコンビニの袋の音がやけに耳障りだった。
「本当、人生ってわかんないもんだなあ」
部屋に着いて一人、小さく呟いた。本当にわからないと思ったのだ。大学生の頃、たかだか2、3年前に立てたライフプランとあまりに大きく変化している。人生とは、本当に予想がつかないことばかりで、子供の頃に思い描いていた「理想の大人」像からは、日々生活をするにつれて、追いつかないどころか、どんどん遠ざかっていくような気さえする。本当はもっと、港区か中目黒かどっかのおしゃれなデザイナーズマンションに住んで、クリスチャン・ルブタンのヒールを履いて外資系の会社に出勤し、趣味はヨガとバー巡り、ベランダで育てたハーブを使ったお茶を飲むのが日課、みたいなライフスタイルを送るはずだったのに。
なのに、今の自分ときたらどうだ。趣味など特になく毎日仕事のことばかり考え、服はだいたい上下4パターンのサイクルを適当に回しているだけ、自炊もせず、ファミリーマート・ウエスト・すしざんまい・わっぱ定食堂・セブンイレブンのエンドレスループである。髪は乾かす時間がなく濡れたままで出社することすらあり、ハーブティどころか、最後にポットで淹れたお茶を飲んだのがいつだったのかも思い出せない。
そう、人生とは、本当にわからないものである。子供の頃の自分が、高校生の頃の自分が、大学生の頃の自分が、今の自分を見たら、一体、なんて言うのだろうか。いや、まさかと、顔を青くするかもしれないな、と私は思った。?
自分で言うのもなんだが、子供の頃、私は本当にお気楽な性格をしていた。一人娘で、私立の学校に入れてもらい、親からの愛情をたっぷり注がれて育った。決して裕福な家庭ではなかったし、親は休みなく毎日働き続けていたけれど、それでも忙しい中で私に並々ならぬ愛情を注いでくれた。私を守り、大切に育ててくれた。?だからこそ、私はいつも自由に生きていくことができた。自分はこれがやりたいと、自由に妄想し、発言する環境があった。親としては、苦労しないように安定した仕事に就き、安定した家庭を持ち、安定した暮らしをして幸せになって欲しいと思っていたようだったが、私は自分の将来のことなど、さして真面目に考えていなかった。常にそのときそのときで、絵描きさんになりたい、漫画家になりたい、絵本が描きたい、小説家になりたいと自由奔放に夢を、未来を語った。
さすがに高校生にもなると、世の中の現実が見えてくるようになったので、夢見がちなことを言うのは控えるようになった。思春期を終え、自分が大人として働く姿が徐々に見えるようになってくるに従い、一緒にいた仲間たちも現実を見始めるようになったからだ。「女優になりたい」「歌手になりたい」と澄んだ瞳で言っていたクラスの中心的なキラキラ女子たちは、いつしか「大きな会社のOLになりたい」「公務員と結婚したい」とよりリアルな「女の幸せ」について語るようになり、「作家になりたい」「アーティストになりたい」と言っていた個性的な子達は、「先生になりたい」「大きな会社に入ってバリバリ働きたい」と真剣な顔をして言った。そんなものだ、と私は思った。そんなものなのだ。私たちの、まして思春期の少女たちの「夢」なんて。周りのみんながアイドルになりたいと言ったら自分もアイドルになりたいし、周りのみんなが商社の一般職の面接を受け出したら、自分も受けないと不安なのだ。大きな夢を本気で叶えたいと思っている人間なんて、いないようなものだ。
私立の女子校に通っていた私たちは、有名な大学に入り、一度入ったら一生安定が約束されている企業に就職し、大学か会社の品の良いコミュニティで出会った優秀な男性と結婚して家庭を持つのが、何よりの幸せだと信じて疑わなかった。もちろん私もそうだった。優秀な学生たちが集まるコミュニティの中で教養あふれる会話をして刺激を受けたり、海外に行って語学力をアップさせ、グローバル人材として社会に貢献することや、同じような高い志を持つ努力家の男性と恋愛結婚することを夢見て、そんな人生が待っていると信じて、大学受験をした。
?無事に大学に合格し、高校を卒業する頃、私は将来への希望に満ち溢れていた。お気楽でおめでたい私は、自分が優秀な頭脳を持つ素晴らしい人材であると信じて疑わなかった。親が私に注いでくれていた愛情をそっくりそのまま、社会に求めていた。家族が今まで与えてくれていた居場所が、社会にも存在すると信じて疑わなかった。だから、私はバリバリ朝から晩まで働き、世界中の人と話をし、取引をし、大きな功績を会社にもたらすキャリアウーマンになるのだと思っていた。社会に出れば、苦労もするし血の滲むような努力もしなければならないだろう。けれども、この私ならきっと乗り越えられる。大丈夫。何も成し遂げていないのに、いや、成し遂げていないからこそ、私は自分の実力を無邪気に信じられていたのかもしれない。
?まあ、言うまでもないことだが、社会はそれほど甘くない。大学に入り、就活をし、社会に出て働くという一連のステップを通して、私はその事実にやっと気がつきはじめた。あ、これ、もしかして、大人って、お金を稼ぐって、辛いことなのかもしれない。「バリバリ働きまくってお金を稼ぎたい」とあれほど豪語していたはずなのに、「もう嫌」「無理」「働きたくない」の3フレーズを繰り返すようになった。マジで無理。本当に無理。つらすぎ。やだ。辞めたい。ネガティブなワードばかり発散し、追い詰められ、最終的にはもう諦める! ニートになる! ダメ人間になる! とまで考えたところで、「いや、でも働くの辞めたら、何するの? することなくない?」「ここで諦めたら何も手に入らないよね?」「……やっぱり私、働くの好きかも」という着地点にたどり着き、結局は快適なライフスタイルよりも、仕事に全力投球の人生を選んでしまうのだ。
本当、こんなはずじゃなかった。こんな風に生きていく予定じゃなかった。もっとキラキラして、もっと女子力高くて、もっと性格良くて、もっと……。なんていうか、こう、親に堂々と見せられるような、そんな人生の、はずだった。
親に安心してもらえるような、親が胸を張って「私の娘は川代紗生だ」と言えるような、そんな……かっこいい、恥ずかしくない、人生。
それを見せられる大人になりたいと思っていた。なるはずだった。それこそが、お金がない中、必死で私を育ててくれた親に対する恩返しだと思った。なのに、どうだ。今の私ときたら、仕事も遅けりゃ、頭の回転も遅いし、行動にうつすのにも時間がかかるし。気も回らないし、どんくさいし、迷惑かけてばっかりだし、誰の役にも立ててないし……おまけに、二十四歳で、これからバツイチになろうとしている。
追い打ちをかけるような事実に、はあ、と大きくため息をついた。本当に、なんて言えば良いんだろう。親が悲しまないはずはない。いつも私のことを自由にしてくれていたとはいえ、さすがにこれはまずいだろう。いくら心が広くても、受け入れてくれるとは思えない。
私はもう一度深いため息をついて、ベッドの上にあぐらをかいた。結局良い出だしも何も思いつかなかったが、それでも言うしかないと電話をかける。
「おー、どうしたん? 元気?」
あ、やばい、と母親の電話を聞いた瞬間に、思った。ダメだ、もう泣きそうだ。ごめんなさい、と言いたくなった。何に対して謝ろうとしているのかはわからないけれど、とにかく、謝りたくなった。
しばらく、たわいもない世間話を繰り返す。最近どうしてるの。仕事は? え? 忙しいよ。ま、大丈夫、楽しいから。ちゃんとご飯食べてるの? 食べてるよ。コンビニばっかじゃないの? うん、まあ、そうかも。えー、大丈夫? 何か送ろうか?
本当に話したいこととは何も関係のない会話が耳の奥を素通りしていくような感覚があった。違うのに、こんなことを話すために電話したんじゃないのに。じわりと手のひらに汗が滲んで気持ちが悪い。言え、言え、言わないと。
「最近、どうなの?」
どくり、と心臓が大きく動く。そのことを聞いているのだということは雰囲気でわかった。ここしばらく、母もそのことを、気にしていた。そうだ、ちょこちょこ電話で相談する中で、なんとなく察しがついていたのかもしれない。
「もう、別れるしかないかもしれない」
驚くほど、すんなりと言葉が出た。涙は出なかった。母が何と言うのかが気になった。私は淡々と事情を話した。何度も話し合いをしていること。どちらが悪いというわけではないということ。お互いに辛く、苦しい日々を送っているということ。
母は、うんうんと話を聞いていた。そっかあ、うーん、そうだよねえ、と相槌を打った。その声は優しく、怒ったり、悲しんだりしているような色は含んでいなかった。ただ、その現実に、そっか、と頷いているようだった。
一通り話を聞いた後、母は言った。
「そうか、そうなっちゃったかー、うーん」
納得しているのか、納得させようとしているのか、よくわからなかったけれど、母は、私の出した答えを受け入れているようだった。
どうしよう、これから、と私は聞いた。そして急に不安になった。これで本当に良いのだろうか。後悔しないだろうか。決断しても、問題ないのだろうか。私はこれから、生きていけるのだろうか、はたして?
ぐるぐるとまた、いくつもの考えが頭の中を走って行った。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしたらいい? わからなかった。自分がどうしたいのかも、母に何と言って欲しいのかもわからなかった。考えすぎて、頭がヒートしそうだった。
しばらく、沈黙した。なんと言っていいのかわからなかった。今自分が母にどんな言葉をかけてほしいのかもわからなかった。ただ、ごめん、と思った。ごめん、ごめん。ごめんなさい。こんな、ダメな娘で。
「あー、まあ、たださ。一つ言えるのは」
しばらくしてから、母は言った。いつもと同じような口調だった。
「どんな人生も、ありだよ」
「え?」
一瞬、何を言われているのか、よくわからなくて、とっさに変な声が出た。
「周りは、色々言うかもしれないけど。こう生きるのが正解とか、こうじゃなきゃだめとか、決まりはないんだよ。当たり前でしょ?」
そんな、と思った。
まさか、そんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。
「だって、そうじゃん。みんなの人生じゃないじゃん。さきの人生でしょ? さきが選んで、いいんだよ」
母の声はとても優しくて、それを聞いていると、鼻の骨の裏側がぎゅっと収縮していくのがわかった。
「どんな道を選んだって、いいんだよ。間違ってないんだよ。人間だもん。そりゃ色々あるよ。どんな人生でも、ありなんだよ」
おかあは、さきの味方だよ、と最後に言われたときにはもう、涙が止まらなかった。
離婚した、なんてもう、人生の汚点になるんじゃないか、とか。
相手にも、親にも、みんなにも、本当に申し訳ない、とか。
もっともっと頑張りたい気持ちはあるのに、それでもやっぱりもう頑張れない気持ちもあって。
自分はダメだとか、恥ずかしいとか、悔しいとか、寂しいとか、そんな気持ちがない交ぜになって、ぐちゃぐちゃで、よくわからなかった。
 
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