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カチンの拳銃弾 2

2011/09/05 21:18




 ガス室のある収容所は数が限られていたことは、今でも知る人が少ない。もっとも有名なアウシュヴィッツ、トレブリンカ、マイダネクとシュトゥットホーフのほかにはヘウムノ、ソビブル、ベウジェツ、それにシュトゥットホートだけである。

 これに反して、ブッヘンヴァルト、ベルゲン・ベルゼン、シルメック、ノイエンガメ、マウトハウゼン、ラーフェンスブリュック、ザクセン・ハウゼン、フロッセンブルクにガス室はなかった。そこでは、収容者は緩慢な死を迎えるか、拳銃で項を撃たれるか、つるはしで殴り殺されるか、働いている採石場の高い所から突き落とされるか、であった。

     アルベール・シャンボン 『仏レジスタンスの真実』 河出書房新社 1997 171ページ





これもまた、昨日のルドルフ・へスの証言に加えて、


 後ろから処刑人が手早く頚部から前頭部に貫通するような角度で拳銃を発射する


…というソ連の手法が、ナチスの強制収容所での収容者殺害においても採用されていた事実への言及である。ナチス強制収容所の研究書中に、より具体的な記述があったのを読んだ覚えがあるのだが、現在は手元にないので、ここではヘスとシャンボンの記述しか引けないのは残念なことではある。

小銃を構えた銃殺隊による銃殺刑という軍隊的スタイルや、機銃の乱射による大量殺害とは別に、拳銃による殺害法もナチス体制の下で広く行なわれていたのだが、その手法の起源がソ連にあったというのが今回のテーマのひとつ、ということになる。








 トカリェフの証言をまとめると、カリーニン虐殺(オスタシュコフ収容所の5291人のポーランド人捕虜は、カリーニンのNKVD本部の地下監房に移送され、別室で殺害された−引用者)はモスクワNKVD本部から来たシネグボブ上級保安少佐(NKVD輸送部次長、主任訊問官)が指揮をとり、クリヴェンコ(NKVD警護・護送部隊参謀長)がモスクワ本部のミルシュタイン輸送局長と連絡をとって捕虜の輸送を担当、ブローヒン保安少佐(モスクワNKVD監獄長)が銃殺の執行を指揮した。ブローヒンはヴァルター二型拳銃をスーツケースに詰めて持参、三人は駅の引込み線に止められた、電話交換機を入れた食堂車に寝泊りした。ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。処刑と埋葬にはNKVDの地方、中央をふくめてあらゆる階級の職員三〇名がたずさわった。看守が囚人を監房から地下の赤一色のレーニンの部屋に連れてくる。そこで身元確認がされる。それから手錠をかけられ、防音をほどこした隣の処刑室に入れられる。そこには検察官もいないし判決も読み上げられない。茶色の革の帽子をかぶり革のエプロンをかけ、オートバイ乗りの肘まである手袋をしたブローヒンが、囚人をつかむと頚部に拳銃を撃ちこむ。ブローヒンでなければカリーニンNKVDの総務部長ルバノフだった。監獄の看守と運転手が助手をつとめた。屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。メーデーを除いて処刑は毎日、日暮れから夜明けまでつづいた。死体から手錠を外すと、中庭で待っている五、六台の無蓋トラックに積みこむ。いっぱいになると覆いをかぶせる。モスクワ=レニングラード街道(当時)にそって三〇キロばかり走ると、トヴェル川にのぞむメドノエ村がある。ブローヒンは村外れの塀のない埋葬地を選んであった。トカリェフの別荘から五〇〇メートル離れた森のはずれだ。一晩でトラックは二往復した。モスクワからブルドーザーに大と運転手が来て墓穴を掘り、死体を埋めた。植樹して隠そうとはしなかった。カチン、ハリコフとちがってカリーニンのドイツ軍占領は短かったので、発見されなかった。

 カリーニンでは合計六三一四人(オスタシュコフ収容所からの移送者以外の犠牲者も含まれる数字?−引用者)が銃殺されたが、一九九〇年に二三の墓穴が掘り返されたときには、死体の司法解剖は不可能だった。遺体は五十年経ち、土に戻っていた。

     ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173〜174ページ (訳者あとがき)






カリーニン虐殺における、ブローヒンの役割と手法の詳細に注目したい。


ブローヒンの使用していたヴァルター二型拳銃については、昨日に引用した「拳銃は七・六五ミリのドイツ製ヴァルター拳銃が使われた」という記述にある口径から推定すると、いわゆるワルサー社のワルサーPPではないかと思われる。『ウィキペディア』の助けを求めると、


ワルサーPP(Walther PP)は、ドイツのカール・ワルサー社が1929年に開発したダブルアクション式セミオートマチック拳銃である。.22口径(5.6mm)、.32ACP口径(7.65mm)、.380ACP口径(9mm)の3種類がある。PPとはPolizeipistole(警察用拳銃)を意味する。


1929年に開発される。ドイツ警察や再軍備宣言がなされたドイツ軍の将校用標準ピストルとして採用されており、国家社会主義ドイツ労働者党の制式拳銃でもあった。


…ということになる。ちなみに発展型にワルサーPPKがあるが、再び『ウィキペディア』に頼ると、


ワルサーPPKは、ドイツのカール・ワルサー社が開発した小型セミオートマチック拳銃である。警察用拳銃として開発されたワルサーPP(Polizeipistole)を私服刑事向けに小型化したもの。名称のKはもともと「刑事 (用)」を意味するクリミナールkriminalの頭文字だが、一般には「短い」を意味するクルツkurzの頭文字だと解釈されることも多い。


1931年に発売開始。ヒトラーも、愛銃として使用しており、ドイツ警察(ゲシュタポ)や軍隊、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)で制式拳銃とされる。


…とある通り、ナチス体制とも縁の深い拳銃である。



ここには、


 屠殺場方式をとったカリーニンの虐殺は、捕虜一人の処刑に一、二分しかかけなかった。だからその晩に予定された処刑をすべてこなせたのだ。


…とあるが、ナチス関係のものを読んでも同様の効率性は伝わってくる。しかし、ナチスは、ガス殺というより効率的な手法を開発した点において、ソ連の共産主義者を超えたわけである。



いずれにしても、


 ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。


…というブローヒンの人物像には、ソ連の共産主義の歴史の一面が深く刻印されており、いろいろと興味を引くところがある。








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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2011/09/06 05:41
    「緊急メンテナンス」とかで、一夜明けての投稿完了。

  • Comment : 2
    やわらか☆不思議猫
     2011/09/06 22:14
    >モスクワからブルドーザーに大と運転手が来て墓穴を掘り、

     これは難しかった。「二台と」だと気付くまで数分(-。-;)

  • Comment : 3
    umasica :桜里
     2011/09/06 23:10
    >>モスクワからブルドーザーに大と運転手が来て墓穴を掘り、

    > これは難しかった。「二台と」だと気付くまで数分(-。-;)

    そこは気付かなかった。
    「緊急メンテナンス」でチェックどころじゃなくなちゃったからなぁ…

    記念のために、修正しないで保存。

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2019/01/31 09:38
    加筆してココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてアップ。


     カチンの拳銃弾 2
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-e123.html

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