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カチンの拳銃弾 3

2011/09/06 21:50


 ブローヒンは一九二六年にスターリンの目にとまり、処刑人としてとんとん拍子に出世し、粛清裁判で死刑を宣告された共産党員、軍幹部、作家の銃殺を手掛け、少将まで昇進した。二六年間で数万人を自分の手で処刑したのが自慢だった。
     ヴィクトル・ザフラフスキー 『カチンの森』 みすず書房 2010 173ページ (訳者あとがき)





このブローヒンについて、日本語の『ウィキペディア』をチェックしてみたが、現状(2011年9月6日)では「ブローヒン」の項目はない。しかし、「ニコライ・エジョフ」の項に、


1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。


…という形で、ブローヒンの名が登場する。「カチンの虐殺」は1940年の4月から5月の話で、その直前の時期に、ブローヒンは、エジョフの処刑の実行者となっていたわけである。ただし、『カチンの森』によれば、その時点でのブローヒンの地位は「保安少佐(モスクワNKVD監獄長)」なのであり、『ウィキペディア』の記述は正確ではないように思われる。


さて、では、ニコライ・エジョフとは何者か? 再び『ウィキペディア』の「エジョフ」の項を参照すると、



ニコライ・イヴァーノヴィチ・エジョフ(ロシア語;Николай Иванович Ежовニカラーイ・イヴァーナヴィチュ・イジョーフ、ラテン文字表記の例:Nikolai Ivanovich Yezhov、1895年5月1日 - 1940年2月4日頃)は、ソビエト連邦の政治家。1936年から1938年まで政治警察・秘密警察であるNKVDの長を務めた。国家保安総委員。ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。

エジョフの政治体制は、後世、「エジョフシチナ」(Ежовщинаイジョーフシナ;エジョーフシチナ、エジョフ時代、エジョフ体制の意)としばしば呼称される。



…として要約される人物である。


ヨシフ・スターリンによる大粛清(大テロル)を実行し、天文学的な数の国民を虐殺したが、のちに自らも粛清対象にされて処刑された。


…とあるように、つまり、あの大粛清のシステムの中心人物であり、やがて当人も粛清の対象とされ、最後にブローヒンの手により処刑されたわけである。



『ウィキペディア』は、エジョフの絶頂期の姿を、



エジョフは、スターリンに対する忠実な支持者であったとことで知られる。1935年、エジョフは政治的反対勢力が暴力とテロリズムと結合して反国家・反革命に結合するに違いないと主張する内容の論文を発表している。これは粛清におけるイデオロギー上の基礎の一部となった。1936年ゲンリフ・ヤゴーダの後任として、9月26日に内務人民委員(内務大臣)、中央執行委員に就任し、翌1937年10月には党中央委員会政治局員候補となった。

エジョフは粛清の第一段として、まず前任のヤゴーダ派の一掃に着手した。ヤゴーダ派の粛清で生き残った部下を自身の配下に組み入れることで、権力の基盤を磐石にしたのである。1937年3月、将校クラブに招集したNKVDメンバーの前の演説でエジョフは、前任者のヤゴーダが「ファシストのスパイ」として逮捕されたことを述べた上で、「無実の人間を10人犠牲にしてもいいからスパイ1人を逃してはならない。木を切り倒すときは木端が散るものだ」と主張した。また、自身の身長の低さに言及し、「私の身の丈は小さいが、両手は頑丈だ。-スターリンの意思を実行する両手だからだ」と述べた。

エジョフは、スターリンの大テロルにおける忠実な執行者として君臨した。NKVDとGPUに徹底的な粛清を指揮し、前任者のヤゴーダ、ヴャチェスラフ・メンジンスキーが任命した多くの人員が解任、銃殺されたが、その中にはエジョフ自ら任命した者も含まれていた。エジョフはスターリンから粛清の命令を受けた際には、その一字一句をメモに書き残していたとされる。さらにはNKVDの部署内にさえも、二重・三重の監視網が敷かれた。

エジョフはかつてレフ・トロツキーを支持していた重工業人民委員部次官ゲオルギー・ピャタコフらを公開裁判(第二次モスクワ裁判)にかけ、銃殺刑を言い渡した。これを皮切りにエジョフ体制下での粛清は猛威を振るい、ソビエト共産党指導者・官僚・軍人の半数、ほかにも数百万人の市民が政府への反抗・政府の転覆活動・反革命の容疑を受けて粛清の対象として逮捕され、容赦ない拷問の結果、処刑・追放・収容所送りに至った。

1937年12月20日、党はボリショイ劇場において、NKVDの創設20周年を祝う大祝典を催した。会場には、スターリンの巨大な肖像と隣り合ってエジョフの肖像が架けられた。花でうずまるステージにおいて、ダークのコーカサス風のチュニックコートとベルトを締めたアナスタス・ミコヤンが、エジョフの仕事を賞賛し、「同志エジョフから、同志スターリンの方法を学びましょう!ちょうど、同志エジョフ自身が、同志スターリンから学び、これからも学び続けるであろうように!」と述べた。会場にいたある人物は、エジョフの様子を「彼はうつむき加減で、恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。まるで、こんな手放しの賞賛に自分は相応しくないという風だった」と伝えている。スターリンが、このときの様子をプライベートボックスから眺めていた。



…と記している。

しかし、その絶頂の翌年、



1938年4月8日、ほかの役職はそのままに、水上交通人民委員を兼任したが、エジョフの役割は徐々に小さくなっていった。これはエジョフの権勢が衰微し、没落する予兆であった。党内で上位にある者を定期的に粛清するスターリンのやり方は、主にそのやり方を組織化する役割を果たしたエジョフも知っていた。同年8月22日、ラヴレンチー・ベリヤが内務人民委員代理に就任する。ベリヤは政治将校の政務のためにエジョフの権力を奪い始め、NKVDの実質的な責任者になった。

連日のように粛清を繰り返したエジョフは、晩年には疑心暗鬼によって、自身の妻までも粛清している。すでに飲んだくれとなっていたエジョフはアルコール依存症に陥り、絶望的になった。最後の業務の月のエジョフは、陰鬱で、だらしなく、起きている時間はほとんど酒を飲んでおり、勤務のために現れたことは滅多になかったという。


同年11月11日、スターリンとヴャチェスラフ・モロトフは、エジョフ体制下のNKVDを激しく批判した。エジョフは内務人民委員の解任を自発的に求め、11月25日にはベリヤが内務人民委員に就任した。



…と、手にした権力を失っていく。そして、



1939年3月3日、エジョフはソ連共産党中央委員会における全官職を解任された。



…という形で、スターリン体制における地位のすべてを喪失し、エジョフの立場は完全に逆転することになる。



1939年4月10日、エジョフは逮捕され、スハーノフカ刑務所(en:Sukhanovka)に収容された。拷問に耐えることができなかったエジョフは、奇しくも、自らが多くの人間を処刑したのと同じ理由、すなわち「自分は公式に無能であること、ドイツの諜報機関と結託してスパイ活動を行い、クーデターを計画していた」と自白した。さらにエジョフは、「自分は性的に逸脱しており、男色家で異性愛者である」とも自白した。これはのちに証言によって部分的に補強され、のちの取り調べによってほぼ真実と考えられている。

1940年2月3日、ソビエトの裁判官ヴァシリー・ウルリヒは、ベリヤの事務室において彼を審理した。エジョフの言い分は支離滅裂であり、前任のヤゴーダのように終始悲嘆に暮れ、スターリンへの敬愛を述べ続けた。エジョフは、ベリヤからスターリン暗殺計画の自白を勧められたが、これを拒否して「どうせこの地上から消え去るなら、高潔な人間として消え去ったほうがましだ」と述べた。エジョフは自身の弁明のためにベリヤの前に跪いて許しを請うが、再三無視された。そしてついに、「スターリンの名を呼んで死ぬ」と誓った。エジョフのスターリン暗殺計画の自白の拒絶は、自身の宣伝目的に役立つことはなかった。

死刑判決が読まれたとき、エジョフは泣き崩れ、部屋から体ごと運ばれなければならないほどに生気を失った。目撃者によると、ベリヤはエジョフに服を脱ぐよう命令し、エジョフを叩くよう警備員に命令したという。エジョフは体ごと処刑室に運ばれ、しゃっくりし、泣きじゃくった。1940年2月4日、ニコライ・エジョフは、NKVD長官・少将・死刑執行人のヴァシリー・ブローヒン(en:Vasili Blokhin)によって銃殺された。遺灰は、モスクワのドンスコイ修道院の集団墓地(en:Mass graves in the Soviet Union)に捨てられた。



…というのが、大粛清システムの中心人物の最後のあさましい姿であった。


しかし、このベリヤもまた、『ウィキペディア』の「ラヴレンチー・ベリヤ」の項によれば、



同年(1953年)12月、ベリヤ、メルクーロフ、コブロフ、セルゲイ・ゴルギーゼ、デカノゾフ、メシク、ヴロジミルスキーの7人は、「英国の諜報機関と結託し、秘密警察を党と国家の上に置いてソヴィエトの権力を掌握しようとしたスパイである」と報道された。ベリヤは特別法廷において、弁護人なし、弁明権なしで、裁判にかけられた。裁判の結果、ベリヤは死刑判決を受けた。モスカレンコによると、死刑判決が下ったとき、ベリヤは膝を突いて泣きながら慈悲を乞い、助命嘆願をしたという。しかし、ベリヤはルビヤンカの地階に連行され、彼と彼の部下は、1953年12月23日にパーヴェル・バチツキーによって銃殺刑に処された。ベリヤの遺体はモスクワの森の周辺で火葬されたのち、埋葬された。



…という最期を遂げることになるのであった。



そのような政治体制の中で、「カチンの虐殺」は起きたのである。









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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2011/09/06 22:46
    …と、今回は、
    ソ連の政治システムの中心に位置を占めるようにさえ見える、
    あの「粛清」の実行者の姿に焦点を当ててみた。

  • Comment : 2
    Molotov
     2011/12/29 18:24
    いやぁ、面白かったです。
    それにしても、共産主義社会の粛清システムは、邪悪ではあるけれども上手い具合に出来ていますよね。スターリンにはどんな凄腕ギャングも真っ青って感じでしょうか。

  • Comment : 3
    Molotov
     2011/12/30 19:33
    日付をよく見ていなかった。
    えらく遅レスになってしまった!(・・;)

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2011/12/30 21:31
    Molotov 様


    >日付をよく見ていなかった。
    >えらく遅レスになってしまった!(・・;)

    これ、別ネタ考えるのに読み返していたら、誤字発見。
    で、修正したら、新しい記事として表示されてしまったらしい。
     (システムがそうなっているようで)


    >共産主義社会の粛清システムは、
    >邪悪ではあるけれども上手い具合に出来て…

    いや、まったくニヒリズムの極致というか…

    革命でもないのに、一夜にして権力の絶頂からどん底へ。

    オーウェルの『1984年』がフィクションではまったくない世界。

  • Comment : 5
    umasica :桜里
     2019/02/02 12:13
    新規記事と記事と合体・加筆の上、
    ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてアップ。


     カチンの拳銃弾 3
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2019/02/post-a5ef.html

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