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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)

2017/09/17 15:09


 前回の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」では、昭和10年代後半を中心に現在の小平市に設置された「軍事関連施設」及び「軍需工業化」に関わる施設群を再確認すると共に、「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味を明らかにすることに努めた。

 

 あらためて示せば、


  参謀本部北多摩通信所 昭和8(1933)年完成
  傷痍軍人武蔵療養所 昭和15(1940)年開所
  陸軍経理学校 昭和17(1942)年開校
  陸軍技術研究所 昭和17(1942)年移転
  陸軍兵器補給廠小平分廠 昭和17(1942)年開設
  東部国民勤労訓練所 昭和17(1942)年開設
  陸軍多摩技術研究所 昭和18(1943)年新設
  多摩陸軍技術研究所電波兵器練習部(通称東部第九二部隊) 昭和19(1944)年編成


このような施設群である。

 多数の人員を擁する施設群の開設に伴い、関係者の居住環境の整備も課題となる。


 ここではまず、小平地域の人口の推移を確認してみよう。

 

  小平村
 大正9(1920)年
           6068
 大正14(1925)年
           6054
 昭和5(1930)年
           6558
 昭和10(1935)年
           7041
 昭和15(1940)年
           8674

小平町(昭和19年町制施行)
 昭和20(1945)年
          13568
 昭和25(1950)年
          21659
 昭和30(1955)年
          29175
 昭和35(1960)年
          52923

小平市(昭和37年市制施行)
 昭和40(1965)年
         105353
 昭和45(1970)年
         137373
 昭和50(1975)年
         156181
 昭和55(1980)年
         154610
 昭和60(1985)年
         158673
 平成2(1990)年
         164013
 平成7(1995)年
         172946
 平成12(2000)年
         178623
 平成17(2005)年
         183796
 平成22(2010)年
         187035
 平成27(2015)年
         190005

 

 数値は「人口統計データベース」によるもので、国勢調査のデータに基づくものとされているが、昭和20(1945)年の国勢調査は中止となっているので、昭和20年の人口の数値がどこまで正確なものであるのかはわからない。しかし、『小平市史』には、昭和19(1944)年の人口が掲載されており(351ページ)、そこには「15595」と明記されている(ちなみに同ページには、1946年の人口を「13557」とするデータも紹介されており、先のデータベースの昭和20年の人口を「13568」とする記載とは整合的に感じられる)。いずれにせよ、小平への軍関連施設移転設置前の昭和10年の人口7041からすれば、9年間で倍増していることになる。

 小平市の企画政策部 政策課作成の「小平の歴史・文化 市の誕生」(2011)には、

 

  大正10年ごろから、土地会社による大学を中心とした学園都市を造る計画が進められ、関東大震災後に小平学園60万坪(198ヘクタール)の買収が始められ、住宅地域へ変わっていくきっかけとなりました。その後、女子英学塾(現・津田塾大学)、東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)、農林省獣疫調査所小平分室(現・独立行政法人動物衛生研究所)などの公共施設が設けられました。
  昭和15年以降になると傷痍軍人武蔵療養所、東部国民勤労訓練所、陸軍経理学校、陸軍技術研究所、陸軍兵器補給廠小平分廠などの軍用施設が設置され、勤める人の住宅も建てられました。

  終戦も間近い昭和19年2月11日に「小平町」となりました。当時の人口は、15,595人(昭和19年1月1日)でした。昭和20年8月15日、太平洋戦争が終結した後、小平は農村から脱皮し、大きく変わりました。東京区部の住宅難に伴う人口の流入と、都営住宅の建設や一般住宅の増加が著しく、また工場の誘致によって、小平もだんだんと都市化しました。昭和30年の国勢調査では、人口の産業構成の都市的業態が、すでに60%以上になっていました。

 

このようにあるように、大正10年代に開始された学園都市開発、その後の女子英学塾(現・津田塾大学)や東京商科大学予科(現・一橋大学小平国際キャンパス)などの移転・開校にもかかわらず、人口の増加率が低かった事実が人口推移データから明らかとなる。大正9(1920)年から昭和10(1935)年の15年間での人口増加が1000人以下であるのに対し、昭和15(1940)年から昭和19(1944)年の4年間という短い間に7000人弱の人口増をみているのである。

 小平地域への軍事関連施設の移転・開設が人口増に与えた影響の大きさは明らかであろう(実際、『小平市史』では「戦時の人口急増」という小見出しを採用している)。

 

 小平地域の戦時住宅開発を担ったのは住宅営団であった。住宅営団については「芦原義信のテニスコート」でも触れたが、ここでは『小平市史』から引いておく。


  こうした戦時開発に伴う住宅難は社会問題となっており、これに対応して、一九三九年、前年に発足したばかりの厚生省のなかに住宅課が設けられ、深刻化する住宅問題への対応の検討が始まり、一九四一年、政府の全額出資のもとで住宅営団が設立され、住宅団地を造成して賃貸住宅あるいは分譲住宅を供給することになった。
  住宅営団の母体となったのは、財団法人同潤会である。これは一九二四(大正一三)年、関東大震災復興事業の義援金の一部を用いて設立された内務省管轄の財団法人で、当初罹災者のための仮住宅を建設したが、その後青山や代官山、清砂通りなど一六か所に、近代的な住宅設備や居住者のための共同施設を充実させた鉄筋コンクリートのアパートや、近郊に「勤人向け」の一戸建て分譲住宅を建設したことで知られる。同潤会は都市新中間層の新しい生活の場のモデル事業を展開したのである。
  一方、住宅営団は「住宅営団ハ労務者ノ他庶民住宅ノ供給ヲ図ルコトヲ目的トス」(住宅営団法〈一九四一年三月公布〉第一条)とあるように、軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた。なお営団には土地収用法にもとづく土地収用の権限や(第一七条)、各種税が免除されるなどの特権が与えられた。五年間に三〇万戸の住宅建設が目標として掲げられたが、一九四六年一二月に住宅営団が閉鎖されるまでに一六万五千戸が供給されたに過ぎなかった。
  さて小平村には一九四三年、住宅営団住宅として喜平橋の南側に桜上水住宅が、さらにその西側に桜堤住宅がつくられた。これらは陸軍経理学校や陸軍技術研究所などの軍関係施設に勤務する人たちのための住宅であった。また同じ時期小川駅付近には仲宿住宅が建設をはじめていたが、完成は敗戦後になった。ここは兵器補給廠小平分廠の職員向け住宅であった。
     (『小平市史』 2013 286〜287ページ)

 

 昭和10年代後半の小平の軍事地域化に伴う人口増加を住居面で支えたのは住宅営団だったのである。


 『小平市史』にあるように、住宅営団の業務としては「軍需工場に勤務する労働者のための住宅を供給することに重点が置かれていた」が、小平地域で建設されたのは「軍需工場」の「労働者」ではなく「軍関係施設に勤務する人たちのための住宅」であったところに特色がある。

 ちなみに、小平の南の国分寺には軍需工場として銃砲生産の中央工業南部銃製作所があり、西の東大和には発動機生産の日立航空機株式会社がったが、それぞれに「軍需工場に勤務する労働者のための住宅」を自社で用意している。

 

  この地域で軍の主導で設置された軍需工場に国分寺の中央工業南部銃製作所がある。1917(大正6)年に東京砲兵工廠の技術者70人で中野区に創設されたが、1929(昭和4)年に国分寺に移転し、小銃の生産を行った。板橋の陸軍造兵廠の指導を受けていた。中央線の北側の台地端に工場、中央線南側に工員宿舎・食堂・浴場・青年学校校舎などが並んだ。1936(昭和11)年大倉財閥系となり、規模拡大、拳銃・軽機関銃・航空機搭載用機関砲などを生産した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 126ページ)

 

  国分寺町内最大の軍需工場は中央工業南部工場でした。工場は現在の早稲田実業学校の場所にあり、中央線の南側、現在の東京経済大学のある場所には工場で働く人達の宿舎や食堂がありました。最大で6,000人以上の人が働いていたとも言われています。戦争末期になると、労働力の不足を補うために町内の国民学校の生徒も動員されています。
     (『武蔵国分寺跡資料館だより 第22号』 2015 2ページ)

 

 

  立川飛行機の北約2kmの大和村南部の玉川上水にそった赤松の平林地のなかに、1938(昭和13)年、東京瓦斯電気株式会社の立川工場が建設され、従業員1,000人が大森から移動してきた。東京瓦斯電気(略称ガス電)は、1910(明治43)年荏原郡大森町大森海岸に創設の総合機械メーカーである。その航空機部門の発動機製造工場の整備拡張のため立川に新設され、陸軍航空廠と立川飛行機へエンジンを納入するべく、大和村の赤松林が選ばれた。当時大和村には零細な食品や絣織の工場があるのみの純農村地帯であった。ガス電進出地域は武蔵野台地の中央部で地下水面は深く集落はなかった。僅かな桑畑のほか赤松林や雑木林がひろがる土地であった。ガス電はここに工場用地50万坪に社宅・診療所・郵便局・幼稚園・公民館・浴場・映画館・迎賓館・グランド等諸施設のための50万坪計100万坪を計画した。実際は工場は翌1938(昭和13)年に完成するが、後に南街と称せられる住宅団地は未完で終わった。それでも戸数は600戸を越えた。工場の制服を着用した従業員が住宅と工場を毎日往復する生活を送った。大和村字芋窪の地名にある工場であるが立川へ納入する製品をつくり、立川工場の呼称があり、人々は立川をむいていた。工場は陸軍の方針で日立製作所の系列に置かれることになり、社名を日立航空機株式会社と改称した。工場は拡大され、軍管理工場となり最盛期徴用工・動員学徒も含め13,000人に達した。1944(昭和19)年、西武鉄道小川駅から工場へ引込み線を設け蒸気機関車で材料と製品を搬入し、国鉄の川越線と中央線に連絡した。この路線は戦後西武鉄道が上水線として復活した。工場は1945(昭和20)年2月17日と4月24日の空襲で壊滅した。
     星野朗 「昭和初期における多摩地域の工業化」(『駿台史学 第105号』 1998 130ページ)

 

   ドイツナチスによるジードルングのユートピア運動というのがある。労働者に職を与えて安定した生活をつくり上げる。労働者は一日の労働に疲れて家に帰り、新鮮な空気を吸い、和やかな家庭的慰楽の生活にひたり、新しい明日への活力を回復するという考えに基いた都市構想、これが「ジードルング」で当時ドイツの企業経営に多く採用されていた。
   ジードルングというのは、つまり、都市郊外に一団として建設される企業を中心とした、集合住宅という意味である。ドイツで昭和七年、住宅法が制定され、特にその政策を工業を主体とする企業が採り入れていた。
          (元日立航空機専務 内山 直 手記)
  ジードルング構想に瓦斯電の重役が着目し、航空機部門を拡大するに当って、郊外に広大な土地を取得して、そこに立派な工業都市を創設したい。生産を主体として、そこで働く人びとの福祉も考えた工業都市。ジードルングよりもさらに一歩進んだ内容をもった夢を描いていた。
     (『東大和市史』 2000 337ページ)

 

  ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画は、工場を中心として、
   ・総坪数  十万坪
   ・工場   五万坪
   ・福祉地区 五万坪
     ○社宅・寮 ○物品販売所 ○郵便局 ○診療所 ○映画館 ○幼稚園 ○公民館 ○共同浴場 ○スポーツ施設
   ・給水 給水塔から工場・社宅などへ給水設備による給水完備による近代都市化。
   ・社宅 社員は一戸建て 浴室付
       工員は二戸建て (日立になって四軒長屋に変更)
  住宅施設は昭和十三年十二月から建て始め、第一住宅、第二住宅、第三住宅と工場から遠い順に名称が付けられ、計画的に区画された住宅街が建設されていった。
   ・住宅総数 五五四戸 ・独身寮=親和寮(職員) 純和寮(女子) 明和寮(準職員) 温交寮(製造) 青年学校寮
     (同書 338〜339ページ)
 

 

 現在の東京経済大学の地に、かつて存在した「工員宿舎」がどのような建築物であったのか? 独身者向けの寮形式の建物が中心であったのか? 家族持ち向けの住宅も用意されていたのかどうか? いささか気になるところではある(今後の課題の一つとしたい)。

 

 東京瓦斯電気工業の壮大なジードルング構想には誰しも驚かされるであろう。

 星野論文と『東大和市史』では敷地の規模が異なるという問題は残るが、星野論文が参照している『東大和市史資料編 1』(1995)にも「住宅地などを含めた総面積は、一九〇万八四七平方叩別鷂渕桂五〇〇〇坪)というぼう大な土地で、工場用地は、公称七万二六〇〇平方叩別麁鷸曜坪)」とあり、『東大和市史』の示す敷地規模には説得力があるように感じる(もっとも私には、このような規模の面積の感覚がないという問題がある)。

 一般的には、「ジードルング」という語で思い浮かべるのは、ナチスではなくワイマール期の近代主義的集合住宅建築の方であろう。バウハウス関係者をはじめとした、後にナチスにより排除されることになるモダニズム建築家たちにより設計された集合住宅群である。

 ナチスのジードルングは、ワイマール期の近代主義的集合住宅建築とは一線を画した、持ち家としての戸建て住宅建設計画構想であったようである。瓦斯電の構想した戸建て住宅群は、ワイマール期の近代主義建築とは異なり、ナチスの「ジードルング」に近い。


 同潤会も住宅営団も海外の住宅政策の研究をしており、その中ではナチスのジードルング政策についても紹介されている。まさに同潤会も住宅営団も、ナチスと同時代の住宅政策の試みであった。ワイマール期のジードルング構想も試行錯誤の続く段階でナチスの時代を迎え、ナチスのジードルング政策も敗戦により未完のままで終わっている。

 

 

 瓦斯電の構想も未完に終わってしまったが、それでも現在の東大和市の「南街」と呼ばれる地区には当時の地割が残されており、かつてのジードルング構想の一端を偲ぶことは可能である(註:1)。

 「ジードルング主唱者の内山直専務の下で作成された地域社会計画」を描いた当時のイラスト(そこには「昭和25年度完成予定」と記されている!)の中の「スポーツ施設」に「テニスコート」が含まれている点に、個人的な感慨を覚えたことを、今回記事の最後に記しておきたい(「芦原義信のテニスコート」参照)。

 

 

 

【註:1】
 現時点(2017/09/17)での『ウィキペディア』の「住宅営団」の項には、


  住宅営団が戦中・終戦直後の時期に建設した住宅地では、東京都区内では同潤会から引き継ぐ千住緑町、新宿区百人町住宅(後の通称越冬住宅)、東京都現市域では旧北多摩郡武蔵野町(現武蔵野市)の関前字千川堀附住宅(現八幡町住宅地)吉祥寺野田町南・吉祥寺駅北方住宅(現緑町)武蔵境上水北小金井公園東側住宅、旧大和村南街住宅、など、飛行機製造業工場の従業員用の住宅を多く供給した。


このように記されている。「旧大和村南街住宅」が住宅営団の事業として記されているが、「南街」はまさに東京瓦斯電気工業(及び継承した日立航空機)によるジードルング構想に基いて建設された集団住宅地であり、『ウィキペディア』の「住宅営団」の項の現状は誤りを含むものと言えそうである。












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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2017/09/17 15:32
    とりあえずの続き。


    ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてもアップ。


     軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-8e6b.html

  • Comment : 2
    Mr.Dark
    Mr.Darkさん
     2017/09/19 18:41
    (かつて栄えた)企業とその労働者の集合住宅、というと、軍艦島の光景を思い浮かべてしまいました。

  • Comment : 3
    umasica :桜里
     2017/09/19 19:32
    「軍艦島」は一種の頂点という感じですが、
    「炭坑住宅」ってジャンルが、
    その後の労務者用集合住宅のモデルとなった的な評価されてますね。

    「同潤会」は、職工用住宅と勤人向住宅というカテゴリー化して、
    ブルーカラー用とホワイトカラー用の集団住宅を作ってます。
    同潤会の職工用住宅の延長に住宅営団の集団住宅があるってイメージ。

    ただ、こっちは平屋かせいぜい二階建ての一戸建てか長屋。

    軍艦島の方は鉄筋コンクリートの高層集合住宅ですからね。
    ま、「島」という敷地条件では、平屋ってわけにはいきませんけど。

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