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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7) 後

2017/09/20 19:44


 「使用に耐え」なかった営団住宅内の「浅井戸32井」、そして旧・東部国民勤労訓練所内の「深井戸」と、旧・陸軍兵器補給廠小平分廠内の「給水施設」については、今のところ、その詳細について記述した史料を探し当ているところまでは進んでいない。しかし、周辺地域の給水施設について知られているところから、ある程度の推測は可能である。

 


 まずここでは、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」で紹介した矢嶋仁吉氏の論考に立ち戻りたい。

 

  本地域は、武蔵野台地の南半部の狭山丘陵と多摩川とのほぼ中間地域で海抜高度は90−70mで西部より東部に至るに従って緩傾斜を示している。地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10−15mの深さの地域に属している。即ち、該台地南半の中間地域たる小平村を中心として、その西部の砂川村、霞村新町及び多摩村五ノ神附近がこれと同じ階級に属し、東部に於ては小金井村梶野新田、関野新田及び小金井新田に至る地域であって、小平村はほぼその中間に位している。
  尚、地下水の水深(この場合の「水深」は地下水面深度と井底面深度の差を示す:引用者)は、大部分2.5−5mであり、特に本地域より東方、田無町附近に至る地域は地下水同水位曲線の緩慢なことは著しい現象である。
  かかる地域であるから、集落立地の根本要因たる飲料水の採取に困難を感じたことは、既報(矢嶋先行論文:引用者)の諸新田の場合と同様である。それ故、井戸掘削の技術の進んだ今日に於ても、同村一帯に井戸の数の少ない事は注目すべき事実である。
  井戸の掘削は山麓又は河川の沿岸地域の如く帯水層の比較的浅い所では、左程困難ではないが、大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する。
  又、井戸掘削の難易はただに帯水層の深度関係するのみならず、その場所の地質の関係する所が大である。例えば武蔵野台地の東部の如く、ローム層の比較的厚い地域では、その井戸の内壁も掘ったままで良いが、該台地の西部、又は秋留台地に於ける如くローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない。
  それ故その費用も極めて莫大である。かかる関係から帯水層の深い所では、特にその困難は著しいのである。それ故台地内部に於ては、何処でも戸別毎に井戸を所有するという訳には行かず、共同井戸を使用する所が多い。
     矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 (『地理学評論 11』 1939 17〜19ページ)

 

 矢嶋氏は、このように小平地域における井戸掘削の困難について語っていたのであった。小平地域は「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10−15mの深さの地域に属している」のであり、しかも「ローム層が比較的薄く直ちに厚い礫層に及んでいる地域では、井戸内壁の崩壊を防ぐ為、玉石を以て畳むか、又は材木を以て組み上げなければならない」という二重の「困難」である。15mとは、ほぼ5階建てのマンションの高さに相当する「深度」である。「手掘り」による「掘削」であることを考えれば、それだけで十分に「深い」と思われるだろう(その深度での掘削では、加えて酸欠の危険も問題となる)。

 しかし、戦後の仲町住宅住民が頼りとした「隣接の厚生省職業補導所(現在東京都身体障害者職業訓練所)の深井戸」の「深さ」は150m前後であったはずだ。

 地下水には浅層のものと深層のものがあり、その性質を異にするのである。より詳しく言えば、

 

  地下水の種類(地層の状況による分類)
  ○砂や礫砂利などの「比較的地下水が流れやすい地層、言い方を換えると「地下水を通しやすい層」のことを帯水層(たいすいそう)とよびます。
   一般に、地下には、浅い帯水層や深い帯水層など、複数の帯水層があり、帯水層と帯水層の間は、粘土層などの水を通しにくい「難戸透水層」と呼ばれる地層により分け隔てられています。
  ○降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層などを不圧帯水層、また、ここを流れる地下水を不圧地下水とよびます。
  ○地表面付近の帯水層と難透水層で分け隔てられている「深い」帯水層などで、帯水層が地下水で満たされており、上部の難透水層との境界面に上向きに水圧がかかっているような圧力状態の帯水層を被圧帯水層、また、そこを流れる地下水を被圧地下水とよびます。
   一般には、被圧地下水は標高の高い山地などにつながっており、山地などで地表から浸透してきた水が地下水となり、被圧帯水層の中を平野部まで流動しています。このため、被圧地下水には、水源域の高い標高に相当する高い水圧がかかっています。
   下流の平野部で被圧帯水層まで井戸を掘削すると、高い水圧のため、地下水位が地表面より高く、水が湧き出たり噴出する場合があり、このような井戸を「自噴井(じふんせい)」とよびます。
  ○「深い」帯水層の場合でも、その帯水層の上部に難透水層がなく帯水層が地表までつながっている場合、あるいは、帯水層が満杯ではなく地下水面がある場合には、被圧されていないため不圧帯水層であり、ここを流れる地下水は不圧地下水となります。
     「地下水の基礎的事項」(『地下水マネジメント導入のススメ 技術資料編』 内閣官房水循環政策本部事務局 2017 57ページ)

 

このような構図となり、「深井戸」から汲み上げられる(湧き出す)のは「被圧帯水層」の地下水なのであり、小平地域の深さ15mの井戸は「降水や河川水、貯水池等の水が地表面から浸透してそのまま地下水となるような、地表面付近の「浅い」帯水層の地下水を汲み上げるものなのである。

 

  武蔵野台地の地質構造の基本的な形態を概観すると、地表から5m〜10m前後の厚さでローム層が覆い、その下位に10m前後の厚さで砂礫層が連らなり、さらにその下に砂、シルト、粘土の互層よりなる海成の東京層上部が広がっている。この東京層上部が難透水層を形成し、その上の砂礫層およびローム層に不圧地下水が存在する。
          水谷淳 「武蔵野台地黒目川流域における不圧地下水の水質に及ぼす都市化の影響について」(『環境問題シンポジウム講演論文集 Vol.10』 土木学会 1982 28ページ)

 

この「砂礫層」まででも、小平地域附近では15mの井戸の掘削が必要となったのである。しかし、そこに問題も生じる。

 

  一方これらの集落の家々では、家庭下水を排出する先がなく、そのため、いわゆる”逆さ井戸”(吸い込み槽)と称するものを設けて、ローム層中へ浸透処理する方法が一般に用いられてきた。
     水谷淳 (同論文 27ページ)

 

インフラとしての下水道が未整備な段階では、不圧地下水は家庭下水による汚染と隣り合わせだったのである。

 

 

 先の「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (6)」では、現在では「南街(なんがい)」と呼ばれる東大和市内の、かつての東京瓦斯で機工業(後に日立航空機)が建設した従業員用集団住宅地について触れたが、その工場と住宅街への給水問題がどのように解決されたのかについて見ることにしよう。

 

  一九三八(昭和一三)年一月には、土地買収交渉が始まった。第一回八万坪の敷地買収にかかった。
  しかし、水の件が最後に残った。最重要条件である。貯水池からや玉川上水からの給水は絶対だめと分かった。水がないために人が住まなかった土地である。どこを探しても水気さえも見つからない。困り抜いたはてに、当てなしに試掘することにした。
  第一回目に現在の給水塔のある位置で試掘を始めた。水気を含んだ土が上がってきた。少し水らしいものが出てだんだん増してきた。当った、当ったと立会人はほっと安心。試掘一五〇辰泙之,辰燭箸海蹐如⊃紊湧き出るようになった。テストには一日二〇〇石(約三十六立方叩砲陵水が出て、関係者全員大喜び。これでいよいよ本格的建設も可能となった。
     (『東大和市史資料編 1 軍需工場と基地と人びと』 1995 27ページ)

 

「試掘一五〇辰泙之,辰燭箸海蹐如⊃紊湧き出るようになった」という記述に注目して欲しい。150mという「深さ」であり、「水が湧き出るようになった」という記述に反映されている「自噴」の状況である(不圧地下水を利用する井戸では、たとえ15mの深さかあrのものでも「自噴」することはなく「汲み上げ」が必要である)。そこに給水塔を用意し、工場と住宅街に水を供給したのである。

 

 次は戦後の小平の畑作灌漑試験計画についての記事である。

 

  一九五二(昭和二七)年、東京都農業試験場は、これからの東京都の農業を支える畑作地域の経営改善と輪作体系の合理化をおこなうために、小平町で畑作灌漑試験計画(五か年)をたてる。都下では初の試みで、東京都、小平町、小平町農業協同組合は畑地灌漑連絡協議会を組織して、試験地を小川六番地区に選定する。小川六番地区は、冬作として麦、夏作として陸稲のほか、すいかなど蔬菜類を生産する町内で代表的な農業地域である。そこで灌漑施設を整備して、陸稲を主体とした蔬菜類の輪作経営の改善が目指された。灌漑栽培の研究のため、直径一二インチ(約三〇cm)、深さ四〇四尺(約一二四叩砲療兎哀櫂鵐徂佞の深井戸とコンクリート製の貯水槽などの施設が設置された。
     (『小平市史』 397〜398ページ)


注目して欲しいのは「深さ四〇四尺(約一二四叩砲療兎哀櫂鵐徂佞の深井戸とコンクリート製の貯水槽」との記述である。124mという深さは、それが被圧地下水であることを意味する。それが「コンクリート製の貯水槽など」と組み合わせられている。当時の写真を見ると、施設には二階建て相当の高さをもつ貯水タンクが含まれていることがわかる。その「高さ」には、南街に飲料水を供給した「給水塔」が持つのと同じ意味がある。

 

  サレジオ学園(小平市)西南角の「サレジオ通り」沿いに、異様な様相でそびえ立つコンクリートの塔。第5技術研究所敷地に建設。受水槽(126トン)を塔の上につくり、その圧力で送水した。現在は、大蔵省財務局が管理している。給水塔はもう1塔あった。新小金井街道沿いの学芸大学東門北側の、現「小金井市役所貫井北町分室」敷地内(190トン余)。
     板倉真也「市内の戦跡保存の取り組みに向けて」(2002/11/24)

 

高い位置に受水槽を設けることによって、低い位置にある多数の水栓への給水を可能にするのである。


 上水道インフラ整備の整わない戦後の小平のエピソードを加えておこう。

 

  鷹の台団地は昭和38(1963)年発足。発足当初から三角公園西側の共有地(国分寺市北町1−17−3)には井戸があった。敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた。とてもおいしい水で、よその地域からの来訪者にも「おいしいね」といわれたそうだ。
  それが昭和44年から50年にかけて、この地域一帯の配水が少しずつとの上水道に切り替わっていった。はじめて水道水を飲んだときに「まずい」と感じたそうだ。(もちろん今では浄水技術の革新により、東京都の水道水もおいしくなっている)
  この井戸は今も共有地内に存在している。
  敷地内にあるコンクリート基台の上に、地下150メートルの水脈に届く錆びた鉄管があり、その上部が90度曲げられている。近年、この井戸を整備して、災害時水源として使えるようにしようとの声が出ている。
     「鷹の台団地今昔物語(その1)―井戸から上下水道へ・私道から市道へ―」(『鷹の台団地40年』 2014 4ページ)

 

着目点は、「敷地内には大きなヤグラがあり、その上に巨大な貯水タンクが設置されていた。毎日大出力のモーターポンプでそのタンクに水をくみ上げ、そこから団地内の約200世帯に飲料水を供給していた」という記述。たとえ「自噴」する被圧地下水であっても、貯水タンクへの汲み上げには「大出力のモーターポンプ」を必要とするのである。

 

 被圧地下水層にまで達する井戸を掘削し、給水塔を建設する。(村であれ町であれ)戦時期の小平の行政にはその力はなかった(戦後になってもその状況が続いた)が、開発事業主としての軍には、資金面でも技術面でも可能であった、ということなのである。











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