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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10−2)

2018/08/31 15:43


 

 多くの男性が兵士として前線へと送られる状況の中では女性の積極的雇用にしか選択の余地はない。それが「近代総力戦」の現実であった。

 米国でもその状況にかわりはなく、そして、実際に多くの既婚女性が、保育所に支えられながら、それまで「男の仕事」とされていた職務を男性に遜色なくこなしたのであった。

 ここでは先の記事(「フォードの爆撃機、あるいはロージーのリベレーター」)でも参考にした松本園子氏の論文から、既婚者女性の戦時動員と保育の問題について、同時代の米国の状況を見ておきたい。

 

 

   1941年、ランハム法(Lanham Act)として知られるコミュニティー施設法が成立した。これは軍需生産のために新しく出来た工場地帯において、学校、上下水道、病院、リクリエーションセンターなど公共施設の設置に国費を補助するものであった。
    ランハム法を保育施設設置に適用することは、翌1942年の報酬制によって可能となった。この業務を管轄したのは連邦職業庁(FWA、ニューディール政策により設置された職業促進局WPAの後進)であり、FWAはこの法により保育施設設置を促進することを主張した。しかし、社会保障庁、児童局はランハム法のプログラムにより質の低い保育を提供することに反対し、設置に消極的であった。
     (松本園子 「第二次世界大戦期アメリカ合衆国における保育問題」 2005 『淑徳短期大学研究紀要』 44  68ページ)

 

   1941年6月、児童局の後援で「働く母親の子どものための保育に関する会議」が開催された。ここでは、家庭で育児をしている母親こそが本質的な愛国的責務を実行している、という考えのもとに、母親と子供の福祉を考慮する政策を提示することが要求された。
   この会議で承認された総合的なスタンダード集が1942年1月に公刊された。ここには、グループデイケア、フォスターファミリーデイケア、ホームメーカーサービスについてそれぞれの基準が示されたことに加え、次の原則が明らかにされた。
   1、就学前児童の母親に働くことを奨励すべきではない
   2、母親が働きに出る場合は、コミュニティーは子どものケアの計画について親を援助する義務をもつ
   3、乳児は集団保育すべきではない
   4、もし必要ならば、2歳以下の子どもは、自宅でホームメーカーサービスを提供されるか、あるいはフォスターファミリーホームでで世話されるべきである
   5、州と地方自治体は、保育の充分な基準を監督し維持する責任がある
     (松本園子 2005  70ページ)

 

   児童局の保育観は、以上のように基本的に母親の労働および、それを奨励する保育所を否定するものであった。そのため、できるだけ働くことを思いとどまらせるよう母親へのカウンセリングが勧められた。また集団保育が否定され、やむを得ず保育する場合は家庭保育に近いフォスターファミリーデイケア(少人数の子供が日中、女性によって彼女自身の家庭でケアされ、ソーシャルワーカーが監督するというシステム)、あるいはホームメーカーサービス(=ホームヘルパー、子供の家庭に出向いて保育する)をすすめた。また特に、2歳以下の子供の母親が働くことを否定し、集団保育を否定した。
   児童局は理想を掲げ戦争の波から子供を護るべく闘ったのであるが、これらは、戦時の社会的要請に合致しなかったのみならず、次章でみるように、働く母親の実態と気持ちにもそぐわぬものであった。ローズは児童局のスタッフは「児童保護の高い基準と、多様なサービスを主張し、保育は長期の問題であることを理解していたのであるが、母親の労働を必要悪とする見解が、彼らが保育の向上に取り組むことを阻んだ。働く母親の子どもが容易く入れる集団保育施設の創設に抵抗することによって、児童局における児童福祉擁護者は状況を現に悪化させることとなった。……保育はかくして、増加する戦争産業の慈悲にゆだねられた}と問題を指摘している。
     (松本園子 2005  71ページ)

 

   戦時労働力委員会は公式には児童局の立場を採用し、幼い子供を持つ母親の雇用に否定的であった。しかし、それは軍需産業側、軍需生産を厳しく求める他の政府機関、そして次章に述べるように、戦時雇用を自分たちの生活とよりよい子育てのチャンスととらえた母親たちのニーズにも衝突した。
   世論も変化した。1936年の調査では、既婚女性の労働に対しては不賛成が82%であったが、1942年のナショナルオピニオンリサーチセンターの調査では、既婚女性も軍需工場で働くべきだという回答が60%であった。
   こうした中で、軍需生産を行う私企業自身が、女性労働者の募集と保持のために保育所を運営する場合もあった。例えば1942年秋、サンタモニカのダグラス飛行機工場は工場の4マイル以内で、しかし「敵の目的の範囲外」に保育所を開く計画を発表した。女性労働者をバッファローの飛行機工場に募集するために、カーチスライト会社は工場ナースリースクールの大きさを二倍にすると発表した。オレゴン州ポートランドのカイザー造船所も保育センターを開いた。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 興味深いのは、児童局の一貫した態度であろう。松本氏は、ローズ論文に依拠しながら、公的な保育の実現事例として、フィラデルフィアの経験に焦点を当てているが、ここでは、女性労働力を必要とした当事者としての私企業の取組事例を引用しておきたい。

 

 

   オレゴン州に大規模な戦時市民住宅団地バンポート・シティーが建築されたが、そこに住み、造船所で働く25,000人の女性労働者のために、カイザーは、二つの大きな保育センターを建てた。所長には、コロンビア大学児童発達研究所前所長ルイス・ミーク・ストールズが就任した。
   建物は「コミュニティーの外ではなく、しかも造船所の入口の前に】配置し、仕事の行きかえりの母親の便宜をはかった。1,125人の幼い子ども一人一人に、あるいは一日三交代の375人それぞれに適応するような広さがあり、斬新な舵輪のデザインは、広い芝生の遊び場と、四つの子供用プールと、一五の保育室を囲んでいた。広い保育室の窓から、子供達は母親が働く船を見ることができた。
   各センターには、訓練されたナースのいる診療所、ソーシャルワーカー、充分なスタッフのいる調理室が備えられた。
   子どもたちの食事に加えて、勤務を終わった母親の家族のための持ち帰り食もここで用意された。「ホームサービスフード」と呼ばれたこのプログラムはエレノア・ルーズベルトによって示唆されたものであった。食事は、栄養バランスがとれ、きっちり包装され、「再加熱してサラダと野菜を加えることによって完全なディナーになります」、という注意書が入っていた。一人前50セントで、一食で大人ひとり子どもひとりを満足させた。
   カイザー保育センターにおける入所数は最高時1944年9月に1,005人となった。当初の目標には到達しなかったが、カイザーセンターは、私企業がなしうることの見本とされた。とはいえ、これは純粋に私企業が行なった取り組みではなく、連邦政府が間接的に資金補助を行い、合衆国海運委員会が建設費を負担した。
     (松本園子 2005  72ページ)

 

 

 用意された保育施設のレベルの高さには驚かされるしかない。

 このような国との全面戦争を選択したのが、わが大日本帝國なのである。

 

 

 その日本での戦時託児所開設を支えたのは、以下のような論理であった。

 

 

   戦時保育の第一の特徴は教育と保護の機能が一体化した点である。当時、東京市健民局母子課長を務めてた苅宿俊風(1998−?)は、東京市が推進した戦時託児所という名称につき、「保育所といふことにすると、外来の思想の臭気がするし、託児所といふと、従来の貧困階級のことを思はれて、この度の設置方針が諒解せられないのではないかと憂ひましたが、戦時と託児所と離れてゐるのではなく、一気に一つの概念として戦時託児所」としたと、苦心の跡を述べている。その対象を見ても、

     ここには入つてくる子供は、従来東京市がやつてゐたやうに、生活に余裕のない庭を対象にしてゐるのでもないし、又従来の幼稚園といふののやり方、それはやはり生活に余裕のある家庭の子弟を見るといふことにあつたやうに思ふが、これでもないのである。(後略)
    (前略)全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる施設にして行かうといふ新しい性格を持つているのである。

と所信を披歴している。
     (金慶玉 「総力戦体制期における「戦時保育」と保育施設の変容」 2015 『アジア地域文化研究』No.1 26〜27ページ)

 

   東京市はまず、1943年に既存の方面館などの公立保育施設46ヶ所の名を戦時託児所と替え、一ヶ所につき予算年額8千円を設定して166ヶ所の設置を目標にし、その性格も時局に対応したものとした。戦時託児所の設置方針は次の通りである。

    一、時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに。戰時生産に役立つやうに。
    二、働くと言つても工場だけでなく、種々の職場に於て働く。都市に於ては、知識階級の方面の婦人も大いに働いてゐるから、かういふ方面にも役に立たせるやうに。
    三、大東京の外周には農業を営んでゐる所がかなりあるので、食糧増産といふ方面にも役に立つやうに、季節託児所といふことも都市では考へる。

戦時期「銃後の努め」の完遂を求め、都市と農村を含んだすべての職場において、戦時生産に全力をあげるように、これが設置方針であった。さらに食糧増産のため設けられた季節託児所も戦時託児所と同じ方針の下に、都市に於いても設置が進められていた。
     (金慶玉 2015  30〜31ページ)

 

 

 戦時動員として目指されているのが、「時局の要請に副ふべく、みんな働けるやうに」という状況であり、それは「全体を対象として一人の有閑者をも無からしむる」ところまで徹底されなければならない。そのための戦時託児所なのであった。

 

 

 小平地域について言えば、今回の主役である「津田こどもの家」に加え、『小平市史』には1945年3月に開設された「小平戦時託児所」の存在が記されている。

 

   一九四五年三月、小川一番に都立小平戦時託児所が開設されたが、空襲の激化から戦時託児所制度自体の廃止とともに、同年六月に閉鎖された。小平戦時託児所は戦後、都立小平保育園となった。

 

 この二ヶ所とは別に、小平青年学校が関与した農繁期託児所の存在が、青年学校教諭であった伊藤為次氏の日記に登場する。

 

   五月四日 (木) 農繁期託児所を青年学校で開設するため、女子職員、校長が青梅に行き見学
   六月十四日 (水) 託児所開設、幼児四十五名が集まる。
     (伊藤為次 『小平戦中日記』 昭和19(1944)年の条 『そのとき小平では 此戞。横娃娃検 。横粥腺横汽據璽検

 

内容からすると、例年のものではなく、昭和19年に新規設置されたものに見える。『そのとき小平では 此戮坊悩槓では、翌昭和20年の日記には農繁期託児所についての言及がない。しかし、そもそもが抄録なので、現状では昭和20年の託児所設置の有無については結論めいたものは言えない。19年に幼児45名の利用があることからすれば、地域として必要な施設であったようにも見える。一方で、開設に先立ち「青梅に行き見学」とあるところからすれば、小平地域には参考となる事例がなかったことを推測させる。

 いずれにせよ、小平地域での託児所には需要があった、とは言えそうである。



 再び、津田こどもの家に戻ろう。








(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10−3)」へと続く)








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