umasica :桜里さんのマイページ

軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (10−3)

2018/08/31 15:50




 再び、津田こどもの家に戻ろう。

 

 「校舎と道を隔てた三〇〇坪の校地に、総工費四千六百円、建坪七〇坪の園舎」(『小平市史』)、「校内の雑木林三〇〇余坪の林の間に新築された木造平屋五四坪の建物(『小平市三〇年史』)」と建物の坪数に異同はあるが、いずれにせよ、昭和14(1939)年に津田こどもの家は完成し、託児所として開設される(ちなみに、『小平市史』『小平市三〇年史』共に「津田こどもの家」表記だが、金慶玉論文では基本的に「津田子供の家」表記が用いられている)。

 金慶玉論文には、

 

   託児所を開所してから一ヶ月が経った1939年10月1日、託児所委員会は、戦時物価高による建築費の高騰を背景とする1939年10月から1949年3月までの「経営費の不足は四、五百円見当と目される」と述べている。
     (金慶玉 2017  31〜32ページ)

 

とあるが、「建築費の高騰」は、事変拡大がもたらしたものであり、戦時動員の帰結でもあった。

 

  日中戦争期における生産力拡充の根本的な制約要因は、外貨不足であった。国際収支改善の観点から輸入制限と配給統制の必要性が生じたが、木造住宅の主要な建築資材の1つである木材については、1938年7月、米松販売取締規則の施行により使用制限が開始された。1940年の「外材ノ輸入ハ前年[1939]ニ比シ著減シ、殊ニ米材ハ外貨節約ノタメソノ輸入ハ昨年ノ約六割ニ減少」した。1940年度の木材需給は「内外地ヲ通ジテ生産ハ需要ヲ賄フ事ヲ得ズ、相当量ノ手持ヲ喰ヒ込ンデ辛ジテ需給ノ均衡ヲ保ツ」状況であり、翌41年度の見通しとしては、「木材ノ需給ハ今年[1940年]以上ニ逼迫ヲ告ゲルニ至ル」ことが想定された。したがって、木材の「配給機構ヲ整備シ不急ノ需要ヲ抑圧スル」ことが求められた。この「不急ノ需要ヲ抑圧スル」手段の1つとしてすでに実施されていた政策が、建築統制であった。
   1939年11月、木造建物建築統制規則が施行された。同規則により、延床面積が30.25坪を超える住宅[共同住宅を除く]を新築する際には、原則として、地方長官の許可が必要となった。この背景にある問題は資材不足、とりわけ主要な建築資材である木材不足の深刻化であった。
     (小野浩 「戦時総動員体制下の住宅供給」 2017 『産業経営研究』36  6ページ)

 

  住宅建設の建築技能者(大工、左官、現場監督者等)は、兵士にとられたり、また賃金の高い軍需産業及び生産力拡充産業に転職する傾向にあり、またそれが容易であったため技能者が減少した。建築技能者の徒弟制度は崩壊しつつあり、技能者が養成されなかった。そのため絶対数の減少は、必然的に建築技能者の賃金の上昇をまねいた。
     大本圭野 「戦時住宅政策の展開過程(2)―日本的住宅政策の原型」 (『季刊・社会保障研究 Vol.19 No.4』 1984  439ページ)

 

 建築資材不足も建築技能者の絶対数の減少も、「事変完遂」の国策が招いたものであった。このような条件下での「津田こどもの家」の建設であり開所であった。金慶玉論文によれば、

 

   ところが、特に目立ったのは東京府からの助成金である。…(金額の詳細は略)…。当時「津田子供の家」の託児所委員であった三上加那於は、「学校の附属といふので特別に奨励便宜」が与えられたと述べている。社会事業法の下で運営された託児所の拠り所として、東京府からの支援が機能していたことがうかがえる。
     (金慶玉 2017  31〜32ページ)

 

公的助成金による資金面での支援は重要であった。さらに、

 

   食糧や物資が不十分であった戦時期にも拘らず、「津田子供の家」の子どもの健康が良好で、しかも全国の子どもと比べても優っているのはどういうことであったのか。そこには、配給における便宜が与えられていた点を見逃してはならない。「副食物給与に関しては不自由のない様、村で醤油味噌砂糖特配の便宜をはかつて」くれたと、当時の「津田子供の家」委員長の三上加那於は述べている。さらに、農村という特性もあって、「農家からは野菜、魚屋さんからは魚といふ風に新鮮なものがに入るし、役場の特別臨時配給として醤油味噌砂糖等入要だけ頂けるので今でもちつとも不自由なしでやつて居」り、「おやつは府の社会事業協会から配給されるぱん菓子飴の他甘藷、じやがいも、おにぎりの加工したもの、蒸パン、焼パン、ホツトケーキなど工夫してやつて居」たと保育主任の横澤は説明している。このように食糧配給においても特配という名目で便宜がはかられていたのは、「津田子供の家」が東京府社会課と社会事業協会から持続的に支援されるほどの関係にあったためである。1939年10月の開所式で朝原が述べたように、戦時厚生事業として食糧増産に役立つ託児所の設置が打ち出されていた状況下、一つの託児所もない小平で、全ての施設と人材を備えた女学校が国策に沿って運営されるということは、「表面的には目立たぬ事業であるが、国花桜花の裏をなす梅花の」ようなものだと期待されていた。
     (金慶玉 2017  35〜36ページ)

 

様々なルートでの便宜供与による支援があった。地元小平にとっても、支援すべき施設と認識されていたことがわかる。

 

 津田側も、ただ外部からの支援に頼るだけではなかった。

 

   1939年7月10日の学業終了後、生徒は通学生も教師もみな班別に分けられ、寮舎に泊まりながら、夏季集団勤労を実施することになる。

    各生徒は必ず五日間寄宿舎に止宿し、二名乃至四名づつの指導教師監督の下に班長、副班長及び各係を定め、十一より厳粛に勤労生活を始め

ている。生徒たちは、

    朝五時半の起床より夜九時の就床まで、規律正しきプログラムにテニスコートの草取り、託児所の基礎工事(石運び、タコツキ)、硝子洗ひ(五番町で使い古した硝子障子がこんど託児所の戸になります)さては薯掘、食事の用意、舎内外の掃除

などをやっていた。全校三百数十名が参加した当時の状況を『朝日新聞』は、「テニスンやワーズワースの詩集代わりにスキやクワを握ってその一振り一つきに尊い汗の奉仕を続けてゐる」と述べている。
     (金慶玉 2017  36〜37ページ)

 

基礎工事の段階から、生徒が積極的に参加しているというのである。

 

 

   津田英学塾は英語専門の女学校だったので、学校のカリキュラムには保姆養成や保育と関連する科目はなかった。文部省は1932年、高等女学校の既設科目から、専門的な知識だけを授け実際生活に適切ではないという理由で「法制」と「経済」を削除し、代わりに公民科を設立した。また1936年からは体錬と教練、家事、裁縫が重視され、1943年には外国語が任意の科目となり、代わりに家政科に主力を注いでいた。こういう時局を背景にして、藤田は1941年の『社会事業』で、津田英学塾が「新学期より児童心理学を新たに教科内容に加へこの託児所を生徒の実験室とする計画をとつてゐる」と述べている。
   実際に1941年の春から学科の変更があり、国語は週一時間、東洋史は週二時間増加し、新たに二年生を対象に児童心理学が週一時間、三年生を対象に科学の時間が設けられ、優生学と遺伝学を教えていた。それは戦時という時局において、銃後部隊としての役割が期待された女学生への教育であった。同時に作業の時間も設けられ、校舎、寮舎内外の掃除と、約千五百坪の畑への種蒔きと除草が女学生に課せられた。1941年3月18日に結成された津田英学塾報告会は、前述のように銃後奉仕部を設けて映画会などを開催し、託児所援助や傷病兵慰問、出征軍人遺家族慰問なども行った。「津田子供の家」は1942年の時点で二人の保姆と一人のお手伝い、そして塾の女学生が交替で手伝っていた。女学生は託児所の建設当初から建設の後まで、勤労奉仕という名目の下、労働力を提供し保育を援助する役割を果たした。また保育報国が唱えられていた時代を反映して、学校の側でも児童心理学の科目が開設され、女学生には託児所がその実験室として提供されていた。
     (金慶玉 2017  37〜38ページ)

 

 科目としての児童心理学の追加は、託児所を、学校との関係においても、より実質的なものとしていこうとする方向性を示すものだろう。また、新たに設けられた「科学の時間」の内容が「優生学と遺伝学」であった。先に紹介した「人口政策確立要綱」の「第五 資質増強の方策」の項には、「資質の増強は国防及び勤務に必要なる精神的及肉体的の素質の増強を目標として計画す」とあり、「(ト) 優生思想の普及を図り、国民優生法の強化を期すること」と記されている。まさにその方向性の下での「科学の時間」であった。

 

 

 戦争の進展の中で(より直截に表現すれば、戦局の逼迫の中で)、津田英学塾も戦時日本により大きく組み込まれることとなる。

 

 

   津田塾の女子学生たちも学徒勤労動員で、軍需生産に携わった。一九四四(昭和一九)年三月から校舎は日本航空機立川工場の分工場となった。ある教員は「厚い板金からのゲーヂ作り、複雑な電纜組立作業、精密を要する諸検査、写図、扨は物理科一年生による合金鋳造部の御仕事。これ程に充実した内容をもつ学校工場は他に存在しないであらう」と「津田塾工場」の充実ぶりを誇っていたが、工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当しており、「マコトに純真な学徒が責任を与えられてする仕事ぶりの素晴らしさには頭が下がる」と語っていた。またある学生は「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」と述べている。しかし学業への思いも捨てがたく、学生たちは昼夜三交代制で働きながらも、特に希望をして、一日一、二時間の授業を受けたという(『津田塾六十年史』)。
   以上のように、「女性も労働力に」との国家からの働きかけに応える中で、女性たちは職場で働くことの誇りや喜びを味わい、男女対等の意識を芽生えさせていったが、同時にそのことが戦争を支えることにもつながっていった。
     (『小平市史』  329〜331ページ)

 

 

 「工場は生産だけでなく管理運営事務もすべて学生たちが担当して」いたという点は重要であろう。動員による戦時協力は、必ずしも強いられたものではなく、女子が主体的に社会参加する経験をもたらすものでもあった。

 

 

   小平では戦時開発によって生まれた総力戦関連施設に、女学校や高等小学校を卒業したての女性の就職が増えたほか、小平農業会では最初の女性課長が誕生して新聞の話題となった。戦時の労働力不足が、結果として女性の就業機会を拡げていったのである。
   隣接する田無町で、ある女性が男の仕事とされていた郵便集配人に志願し、立派にその役目を果たしているとして新聞に紹介された。彼女は「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」と語った。ここからは、男性と同等に働けるという喜びや誇りをもち、あるいは男性同様に国家に貢献しているのだという思いをもって、働いていたことがわかる。
     (『小平市史』  329〜331ページ)

 

 

 田無町の女性の、「男に出来るのに女に出来ないといふことは無いと思ひましてやらしてもらつてゐます。〔中略〕女でも兵隊さんになったつもりで頑張る気ならなんでもないことで、米英相手の長期戦には当然女の仕事の範囲に入るものと信じて毎日を愉快に働いてゐます」に込められた自負には注目しておくべきだろう。

 戦時動員は、為政者の思惑を超えて、動員された女性達に、男性と女性である自分が同等であること(それは「男に出来るのに女に出来ないといふことは無い」という言葉に集約される)を経験させてしまったのである。

 

 

 

 戦後フェミニズムの起源は、GHQの占領政策の陰謀的性格にあるのではなく、それ以前の大日本帝國における戦時体験にあるというべきであろうか。

 

 

 

   こうした社会状況の中で、津田塾では昭和一九年(一九四四)の三月以降、体育館と生徒控室を工場に充て軍需品生産に当たっていたが、昭和二〇年(一九四五)四月、寮生はすべて東寮に移り、校舎本館の大部分と西寮と運動場の一部を東部第九二部隊に貸与することが決まった。移転を急いだ東部第九二部隊は、契約書も正式に作らないうちに五月六日到着、部隊は津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた。いわゆる門標紛失事件が起きたのはこの夜のことで、塾生四人が軍の門標をはずして玉川上水に流したのである。軍はこの行為を重くとがめて、軍法会議にかけるといきまいた。塾長の星野あいは生徒の不始末の責任者として軍に謝るとともに、軍の門標を片側だけにしてほしい、事件の起こったそもそもの原因は軍が塾の標札を取外したことにあるのだから、と条理を尽くして話した。その結果、軍の上司は塾長の願いを受入れ、四人の処分を学校に委ね、四人は塾長に始末書を書くだけで済んだのである。空襲は相ついだが、幸い塾は無事であった。
     (『小平市三〇年史』  258〜259ページ)

 

 

 「反戦的武勇伝」として取り扱うことも出来るだろうが、「男子学徒がペンを棄てて敢然壮途に立つを見送って以来、私共も又女性学徒として何か直接お国の役に立つ仕事をしたいとの願ひを長い間抱いてゐた。その日頃からの望みが容れられて学校工場の誕生をみた時私共はどんなに嬉しく張り切った事だらう」という、国策と共に生きる塾生の姿を見ないふりする必要もないだろう。

 日々、主体的に「何か直接お国の役に立つ仕事」をしている自負があればこそ、「津田塾の門標をはずして、部隊の門標を塾の正門両側に麗々しく掲げた」軍の行為に見ぬふりをするわけには行かなかった。そのようにも見える。

 いずれにせよ、当時の軍を相手にして譲ることなく塾生の側に立ち続けた、塾長の星野あいの姿には感銘を受ける。















Tags: なし
Binder: 現代史のトラウマ(日記数:694/全体に公開)
このエントリーをはてなブックマークに追加
最新コメント

このブログにコメントをつけるには、ログインする必要があります。
マイページをお持ちでないひとは「マイページを作成する」ボタンを押してマイページを作成してください。
不適切なブログを見つけたら、こちらからご報告ください!

Mail Address(GMO ID):

Password:

自動ログインパスワードを忘れた方

最近書いたブログ


https://www.freeml.com/feed.php?u_id=316274&f_code=1



Copyright(C)2019 GMO Media, Inc. All Rights Reserved.