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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11−2)

2018/09/23 16:35

 

 実際、それは小平地域だけの問題ではなかった。

 

 

 情報局編輯になる『寫眞週報』(写真週報)の第263号(昭和18年3月17日)には以下の記事がある。

 

 

 寫眞週報 263号 2〜3ページ

 

 

 時の立札
皇土に根ざし
風雪に耐へて二百年三百年を
今日のひのために
生きぬいてきた巨木だ
その命を捧げる日の壮絶さを想へ
我等その心をくみ、その心に應へ
木もて船を造らう
皇國の幸をはこぶ船を
     (表紙裏に位置する2ページ)

 

巨木擧ってお召しに應じよう
     岡山縣
     撮影 入江泰吉
(以下、キャプションは新字体で表記)
岡山県県社木山神社の神木は、国難打開のため軍需資材として応召する。この大樹は同神社の祭神須佐之男大神のおひげが自生したものといはれてゐたものである
     (3ページ)

 

 


 寫眞週報 263号 4〜5ページ

 

 

巨木擧ってお召しに應じよう
 『神木が供出された』『五代にわたつたあそこの欅林も供出された』かうした氏子や篤志家及び団体などによる木材の供出は、いま、広く全国的に行はれてゐます。いふまでもなく、供出された木材は戦局の進展に伴つてますます必要となつてきた兵器や艦船、車両等の資材として、勝つための有力な力となつてお役に立つわけです
 しかし、この供木といふことは、もうわが国には軍需品の資材となる木がないといふわけではなく、それらの用途に向けられる木材の伐採が到底需要に足りないのです。欅や樫などの特殊材は山奥には相当あるのですが、それを刈つて運び出すのには相当の時日が要る上に人手も多くかかり、ソレッといふ間に合ひません
 そこで供木運動も運搬が比較的楽にできる屋敷林や公園、神社仏閣の境内林とか、街道の並木、平地林等を伐採することが対象となつてゐます
 これらは、或ひは父祖伝来のものであつたり、或ひは史跡名勝天然記念物として由緒ある並木であつたり、平時であれば決して伐れないものばかりでありませうが、一人息子さへお国に捧げるときです。戦力を増すためにこの際、進んで供木に応じませう
 勝つためだ、村民の決意は固く岡山県県社木山神社の神木が村民歓呼の声に送られて『応召』しました
(写真キャプション)
 参道の老杉は地響きを打つて倒れた
 参道並木の伐採は境内の森厳をそこなはぬために十分な調査が行はれた
 樹齢三百五十年の樅も村民の斧によつて応召する
 刈り倒された樹齢約三百五十年の老杉この杉の伐積は―直径一メートル八十センチ、高さ四十メートル、重量七千貫である
 神木は悠々と応召する

 

 


 寫眞週報 263号 6〜7ページ

 

 

應召の木材は続々木船に
     ―大阪―
 畏くも天皇陛下には、戦時下における木船の重要性を思召され、木船材を御下賜あらせられました。聖慮の程、まことに畏き極みであります
 このありがたき聖慮に感激、感泣した政府は、勿論木船建造のため各地の国有林をどしどし伐り出してゐますが、さらに全国的に木船用木材供出が国民の盛り上がる力として行はれてゐることはご存じの通りです
 かうして供出された木材は、直ちに造船材に使用され、去る一月に戦時標準型貨物船の第一船が大阪で進水してから、続々と標準船が全国の造船所で造られ、各方面の海域に就航してゐます
 ここ大阪の造船所では木材供出者の意気に感じて、一日でも二日でも早く標準船をつくり上げようと、夜に日をついで造船の斧を振つてゐます。次々と進水する木造船は敵殲滅戦に、或ひは大東亞の建設戦に、堂々日の丸の旗を押し立てて大洋に乗り出してゆきます
(写真キャプション)
 肋骨は次々と組み立てられてゆく
 肋骨に外板をくつつける作業は、寒中もいとはず進められてゐる
 外板のつぎ目から水がはいらないやうに充填物をつめてゐる
 予定より三日も早かつたぞ! 標準型木船は進水した
 天を衝くやうに木船の意気は高く肋骨の組立も終り、一日も早く海洋に出る日を待つてゐる

 

 

 

 昭和18年の時点で、全国的には、御神木も伐採されるようなところにまで追い詰められていたのである。小平地域では青梅街道の並木で済んだという意味では、まだ軽かったのかも知れない。

 

 せっかくの機会なので、「木造船建造緊急方策要綱」に至る、戦時期日本の造船関連の政策の推移について、吉川由美子氏による「アジア・太平洋戦争中の日本の海上輸送力増強策」(2004)と題された博士学位申請論文からの要約(「博士学位申請論文審査報告」2〜3ページ)を用いて、確認しておきたい。

 

 

  1939年11月、造船業を対象とした統制策である「造船事業法」が成立、41年8月には造船の発注統制を強化した「戦時海運管理要綱」が成立し、翌42年1月には造船統制会が設立された。こうして、海運も造船も強力な国家統制下に置かれることになった。
  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。しかし、これらの工場の労働力の主力は囚人であった。
  1944年に入ると、造船用鋼材の不足が深刻になった。この鋼材不足の対応策として考案されたのが、藤原銀次郎による「雪達磨造船」である。即ち、船舶で鉄鉱石を輸送し、その鋼材で船舶を建造し、その船で鉄鉱石と石炭を再び運ぶという循環構造によって造船量の拡大を図るというものであった。しかしこの「雪達磨造船」は、戦況悪化による国力崩壊を食い止める突破口とはならなかった。
  造船用鋼材不足が対応策としてもう一つ考案されたのは、「雪達磨造船」より前のことになるが、木造船の建設であった。1943年1月の閣議決定「木船建造緊急方策要綱」がそれである。木造船はあくまで鋼船の補完的役割を期待されたが、鋼船と同様、戦時標準型が決められ大量生産がおこなわれた。しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した。
  戦争末期には鋼材の入手が激減して新造より修理が優先される一方、鋼材節約のためにベニヤ板を材料とした合板船や、コンクリート船が検討され試作がなされたが、実用化されるには至らなかった。

 

 

 先の『寫眞週報』記事(御神木の伐り倒し)を読んだ後で、そして「みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね」との小平のお年寄りの嘆息に共感を持った後で、「しかし、急な大量生産のため浸水するものが続発し、木造船建造の目標は烏有に帰した」との

顛末に眼を通すとき、実際、「まったく悲しい」気持ちを抱くしかないだろう。


 

 

 

 

 











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Binder: 現代史のトラウマ(日記数:686/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2018/09/23 16:57
    「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11−1)」の続き。
    「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11−3)】に続くはず。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2018/09/23 22:30
    三回の記事を一本にして、加筆修正の上、
    ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてもアップ。


     軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html

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