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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11−3)

2018/09/23 18:50



 吉川由美子論文の要約に戻ると、

 

 

  1942年3月、戦時標準船(以下、戦標船と略す)の建造と計画造船の実施が決定された。しかし、同年12月のガダルカナル島攻防戦による船舶の損失も加わって、43年度は船舶増産の強化が急務となった。そのため43年に入ると、上記船標船とは異なり、急速な増産に重点を置いた第二次戦標船が設計された。その中でも特に重視されたのは、船舶の簡易化と大量生産に適した改E船(第一次戦標船のE型の改良型)であった。改E船の構造は、既造船所以外の新規で簡易に新設された工場、即ち東京造船所・播磨松ノ浦、三菱若松、川南深堀の4造船所で集中的に建造された。これらの造船所は大量生産方式、流れ作業、ブロック建造法、電気溶接(三菱若松)などの新しい生産技術体系を導入したため、簡易工場にもかかわらず、かえって時代の先端を行く工場となった。

 

 

このように、戦時標準船の先端的側面が示されている。その点について、後藤伸氏の論考にも触れておきたい。後藤氏は戦時標準船について、

 

   統制が始まる以前、平時の商戦の注文はおおむね一隻ごとの個別注文であり、造船所は契約成立ごとに詳細な設計図面を作成し、資材と部品を調達し、それを船台で組み立てていくという、典型的な受注生産を行っていた。このような造船業に対して、昭和14年(1939)9月以降、臨時船舶管理法によって、新造船に際しては事前に逓信省の承認を受けることが規定されたが、これが新造船に関する統制の始まりといえる。この事前承認性は、翌15年2月の海運統制令により逓信大臣の許可制となり、統制が強められた。このように事前の承認や許可が必要とはいえ、建造される船舶についてはなお船主の希望なり裁量の余地が働き、また造船所もそれに対して従来の個別注文的な方法で対処しえた。もっとも、この時期まで、強制ではなかったが、建造される船舶の一定割合は、すでに船型、構造、主要性能などを標準化した船舶によって占められていた。この平時における標準船型は、船舶改善協会が中心となって昭和14年4月に選定したものであるが、後述するとおり、これら船型は戦時標準船(第1次)の原型となった。
     (後藤伸「戦時期日本造船業の生産技術に関する一考察―戦時標準船の建造をめぐって―」1992 『国際経営論集(神奈川大学経営学部)』 3  85〜86ページ)

 

  組立産業における大量生産の歴史を顧みると、量産システムの確立のためには、生産種類を限定するとともに、部品を規格化して製品の標準化をはかり、また設計をできる限り簡素化することが必要であった。戦時造船における多量生産は、標準型船の設計とその簡易化という形をとった。ここでいう標準船とは、船体、機関、艤装品などの形状や構造を規格化し、同一資材や部品を使用するよう設計された船舶であり、工期の短縮、工費の低廉をもたらすという意図から発想されたものである。
     (後藤伸 前掲論文  97〜98ページ)

 

  このことは、船型の簡易化が使用鋼材料の節約をとおして工数短縮=建造期間の減少をもたらすとともに、それと同等あるいはそれ以上に、建造工程における簡易化(=改善)をとおして工数の減少をもたらしていたことを示唆する。
     (後藤伸 前掲論文  105ページ)

 

  第一に、戦前と戦後の造船技術の連続性について。戦後の造船業の技術革新が溶接ブロック建造法に求められるとすれば、この建造法は戦後日本の造船業にまったく新規の工法であったということはできない。既にみたように、王手の象zsん除では1920年代初頭から溶接技術の導入、開発を手掛け、戦標船の建造では溶接による接合が船体のかなり広い範囲にわたって用いられた。また、ブロック建造についても、自然発生的におこなわれていた部材の小組立程度の段階から、さらには先行艤装方式さえもが意識的に試みられ、そしてそれは大量生産という点ではかなりの成果をおさめることができたのである。
 第二に、戦前と戦後の造船技術の格差について。戦時に試みられたこれら建造方法は、まさに戦時という特殊事情のもとで採用されたものであり、平時での建造方法としてそのままで通用するわけではなかった。たとえば、電気溶接一つ採り上げてみても、これが戦時に急ピッチで採用されたのは、鋼材の節約もさることながら、鋲打ちのための熟練工が不足し、まったくの素人でも扱える接合技術として導入されたという事情は無視できない。しかも、手動ないしせいぜい半自動の溶接機によって接合された船舶は、戦標船という船体構造が極度に簡易化された小型船舶が主であり、戦後展開されるような大型商船の溶接ブロック建造を可能とするには、船舶設計、溶接技術、使用鋼材、運搬設備、工程管理など多方面にわたるいくつもの困難な技術的ハードルを超える必要があった。
     (後藤伸 前掲論文  119〜120ページ)

 

このように、戦前期は「契約成立ごとに詳細な設計図面を作成」することから開始される個別の受注生産品であった船舶が、規格化されることによって大量生産を容易にし、戦時の船舶需要の急増への対応が試みられたこと。そして、戦時標準船製造の経験には、戦後の造船業への連続的側面があることが主張されている。

 確かに、生産技術の観点からは、そのような評価も可能なのであろう。

 しかし、「船舶の簡易化」すなわち船体構造の極度な簡易化は船体の強度を犠牲にしたものであり、それは洋上で船舶を運用する船員を犠牲とするものであった。

 

 

 第二次戦時標準船について、大内健二氏は以下のように指摘する。

 

 


  艦政本部は第二次戦時標準船の設計に際し、徹底した工期短縮を行なうために建造予定の各形式の船について、抜本的な対策としてかなり強引な設計の簡略化、それに伴う強引なまでの工作の簡略化を実施したのである。この抜本的な対策とは次のようになっていた。
  (イ)、早期完成のために量産化に適した構造の船であること。
  (ロ)、材料と工数の徹底した節約と節減。
  (ハ)、(ロ)項の要求から完成した個々の船舶の寿命は短期であっても可とする(戦争期間だけ持てば良い)。
  (ニ)、運用効率の上から一隻当たりの載貨重量は極力大きくする。
  (ホ)、個船には高性能は求めない。従って機関の低馬力と低速力は容認する(量産の利く低価格、低性能の機関の搭載が前提条件)。
  第二次戦時標準船に貫かれた建造方針は、一にも二にも徹底した簡易・簡略構造による建造機関の短縮であった。そして結果的にはこの第二次戦時標準船こそ、後に粗製濫造の見本として周知された、いわゆる「戦標船」なのである。
  第二次戦時標準船に採用された主な簡易・簡略化は次のとおりであった。
  (イ)、全船種からの二重底の廃止。
  (ロ)、船体のシーアやキャンバーの廃止。一部を除き曲面加工の廃止。
  (ハ)、ブロック建造方式の大幅採用。
  (ニ)、電気溶接工法の大幅採用。
  (ホ)、付属装置や機器の簡素化。
     (大内建二 『戦時標準船入門』 光人社NF文庫 2010  75〜76ページ)

 

  この徹底した簡易構造の中でもその際たるものは船舶の安全の基本に関わる二重底の廃止であった。二重底とは船底を二重構造に組み上げ、船舶が座礁などしたときに船底の決定的な破損を少しでも軽減し沈没の危機から救うこと、また船体の強度を高めるための基本的な構造として採用されている、船舶の構造上必要不可欠なものである。
  二重底の組み立てはその船が起工され船台上で工事が始まった直後から開始される最重要の工程で、確かに多くの鋼材と多くの作業を要する複雑な工程である。この複雑な工程を排除することは船の建造のスピードアップには確かに極めて効果の大きなものであるが、その反面、船の安全性を根底から否定することでもあり、特に用船者側から見れば信じられない暴挙であった。
  二重底の撤廃に対しては航海の安全が保証されず、任務の遂行も保証できないとして各海運会社等からは、設計主務者である海軍艦政本部に対し厳しい批判と苦言が呈された。しかし艦政本部はこれら全ての批判や苦言を黙殺し二重底撤廃を強行したのである。つまり第二次戦時標準船は大小全ての船が二重底を装備していないという、信じられない構造の船となったのであった。つまり各船の船底は十〜二十ミリの鋼板一枚だけであったのである。
  徹底した簡略設計や工作が強行され、また作業工程が簡略化されて完成した船はその後それぞれに多く問題を残すことになった。その代表的な例が水密性の欠陥であった。
  造船所で完成した船が、竣工検査で必ず実施するものに船体の水密性に対する検査があった。これは船体の吃水線以下の船体の漏水の検査で、不良工事は将来的にその船の沈没も招きかねず、事前に徹底的に検査することが決まりであった。ただこの検査は多くの時間を要することになり、不良個所の改修作業も決して容易ではなかった。第二次戦時標準船では完成時のこの検査を極めて簡単な簡易検査だけにとどめてしまったのである。
  このために信じられないことではあるが、完成直後から直ちに輸送任務に投入された各船では、しばらくの間は乗組員による漏水個所の手直し作業が行われるという、異常な状態が続くことが多かったのである。また甲板の鋼材の電気溶接個所も、工作不良により船内に水漏れが生じることは日常的で、就航後は当分の間、乗組員による様々な手直し作業が続くのは当たり前というのもこれらの船の特徴でもあったのである。粗製濫造の極みともいえる状態は確かだったのである。しかしこの混乱は設計だけに原因があるのではなく、後述するように多くの部分が造船作業員の技量の大幅な低下に由来していたのであった。
     (同書 80〜82ページ)

 

 

 ここに、戦時標準船の姿から明らかになる大日本帝國の総力戦状況がある。戦時標準船は、それが鋼船であっても、船員の犠牲を前提にして成り立っていたのである。戦時日本において、鋼船建造能力の限界が生み出したのが「木造船建造緊急方策要綱」による木造船建造であった。

 それこそが、かつては「緑のトンネル」であった欅並木が「大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ」という戦時期の小平の経験の背景ということになる。

 

 

 

 

 










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Binder: 現代史のトラウマ(日記数:686/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2018/09/23 19:41
    「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11−2)」の続き。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2018/09/23 22:32
    三回の記事を一本にして、加筆修正の上、
    ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてもアップ。


     軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html

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