星谷 仁さんのマイページ

俺は宇宙の常識人!?

2008/05/19 09:41

子どもの頃、自分がいる世界がホントなのかどうか漠然と疑問を抱いていた時期があった。
自分が見ているものはホンモノなのか?
自分が信じていることはホントなのか?

例えば、僕は自分以外の人間であった事は一度もない。なのに、周囲の人にもみんな同じように「心」や「意識」があると思い込んでいる。なんで、そう言い切れるのか?
自分の周囲に広がる世界が今で言うバーチャルな世界なのではないか……そうではないという確証はどこにあるのか?
そんな不安にも似た気持ちにつきまとわれていた時期があった。

また、自分に赤く見えているものが他人にも赤く見えているのか……疑問をもっていた。他人になったことがないから、ひとの頭の中で赤い物が赤く見えているのかどうか確かめる事はできない。
もしかしたら、僕が「赤」と認識している色が、他人には「青」に見えているかももしれない──そんな妄想(?)につとりかれたこともある。
他人は「赤いもの」を見たとき頭の中には「青」く写っているかもしれない。だけど、その人は頭の中の「青」をしめす言葉として「赤」という言葉が対応しているから、表現上は「赤」となって、認識の違いがあって表面化はしない。
「赤い」ものを見て皆が「赤い」と言ったからといって、それぞれに同じように見えているとは限らない。じつは全然違ったものに見えているのかもしれない……そうした思いを抱いていたわけである。

もちろん「他人にも心がある」「赤いものはおおむね多くの他人にも赤く見えているだろう」ということは、あるていど知恵がついてきてから納得できる解答をみつけることができたわけだが、似たような思いは小学校に上がる前からずっと続いており、高校卒業のアルバムには、
「僕に見えるのは相手の顔と僕の心。相手に見えるのは僕の顔と相手の心。それぞれ互いに見えない部分を見て互いを認識をしている」みたいなコトを書いている。

大人たちから正しいと教えられてきた事が本当に正しいのかどうか、あたりまえのように信じている事がホントかどうか……疑問を抱くようになったのは小学校に入る以前からだったと思うが、その頃は自分の価値観が不安になることで、妄想にも似たシミュレーションを幾度と無く頭の中に展開していた。

たとえば、今いる世界から全然ちがう世界へ僕ひとりが迷い込んだとする。
道徳観や法律などが整備されていない(?)異世界である。僕の世界で教えられてきた「正しい事」「悪い事」、「犯罪」と言われている概念・判断基準が、はたしてその異世界でも通用しうるのか?
異世界では、他人を殴ったり、他人の物を盗むことが平気で行われているかも知れない。そこで、「それはしてはいけない行為。【悪い事】だから」と注意したら「なんで?」と問い返されるかもしれない。
「この世界では、それが常識」と言われたら、それを否定する回答や根拠を自分は持ちあわせているのだろうか?
「おまえも他人から盗んだらいいだろう」「盗まれるヤツがマヌケなんだ」なんて逆に意見されるかもしれない。
「親や先生がそう教えたから」「法律で決まっているから」などと言う言い訳は異世界では通用しない。だとしたら、正しさとは何だろう? 正しさの概念は、幻想なのだろうか?

「正しい」ことの証明(説明)ができないのに、「これが正しい事、これは悪い事」と主張していたのだとすると、異世界の人たちが異世界のルールにしたがってそれを正しい・悪いと主張しているのと何ら変わらない。
僕が刷り込まれてきた「正しさ」は本当に正しいか、それを僕はきちんと検証してきただろうか──という「根本的価値観への不安」のようなものを感じていた。

(異世界で)みんなが「正しい」と言えば、それが「正しい」ことになるのか──といえば承服できない部分がある。
物事を決めるのに多数決という手法が使われることは子どもでも知っているが、多数決で決めたことが即正しいとは限らない……ということは子供心にもわかっていた。
例えば皆がいやがる掃除当番。1班から6班が交代でやっていたとする。あるとき誰かが「これからは1班がずっと掃除当番をやればいいと思います。多数決で決めましょう!」と提案し、2〜6班が賛成したら、1班の永久当番が決まってしまうことになる?──これが正しいのか? といえばフェアではないことは直感的に誰でもわかる。

「正しさ」とは文化の違いに関わらず「証明」できるものであるべきだ──と僕は考えた。色々細かいことを書くと長くなるので、おおざっぱな所を言うと、

「フェアである事(利益・不利益にかたよりがない事)」
「ある前提(ルール)から出発して論理的矛盾がおこらなければ、その前提(ルール)は正しいと認められる。また、認めなければならない」
「正しい理論(ルール)は一つとは限らない」
「正しい理論(ルール)の中からどれかを選択するさいに、多数決は使われるべきである(正しさを決める手段ではなく、適正を選択する手段)」
「たとえ多数派が支持する意見であっても矛盾のある理論(ルール)は正しくない」

実際に起こるトラブルなどを考えるとき、漠然とした「道徳観」、「法律論」みたなものをよりどころに判断とようとすると、白黒つけにくいことが多々ある。「道徳観」は人によって同じではないし、「法律論」は色んな権利の主張があるからどの権利を優先するかによって判断が分かれることも少なくない。

個人的にはトラブルの本質を分析し、処理テーマの優先順位に沿ってシンプルで普遍性の高いルール(論証可能な理論)で判断していくやり方がが適正だろうと思う。

余談だが……再審のたびに異なった判決が頻繁に出たり、雇った弁護士によって判決や量刑の差が出るような法律は正直言ってあまり良いルールとはいえないのではないか──と疑問に感じることがある。国選弁護人だろうが敏腕弁護士だろうが、資格を持った法律家が担当したなら、おおむね同じような判断を下せるシンプルで普遍性の高いルールが良いルールなのではないだろうか。
今の裁判の判決の出し方というのは、そのトラブルを論理的に分析・判断・解決しているというより、現行の法律の整合性を保つための(法律ありきの?)判決──という気がしないでもない。その問題がどう解決されるべきかを純粋に検討すべきところを、過去の判例と矛盾しないように……という意図や配慮が感じられる。
個々の問題に対して格差のない判決を出せるルールが正しいルールだと思うが、それはあくまで個々の問題に対して純粋に取り組んだ結果が矛盾しないということであって、最初から矛盾しない結果になるよう操作しながら結論(判決)を導き出す事で整合性を保とうとするのは本末転倒。我田引水めいていて、疑問を感じる所である。

話がそれたが……子どもの頃から、そんなシミュレーションをしながら自分なりの判断基準や価値観のようなものを構築してきたようなところが僕にはある。
そのせいか、親や先生の言う事を良く聞き、その教えを理解し、疑う事無く既存の良識(?)に則した判断基準の中で暮らしている人たちとは、「なんだかちょっと文化が違うなぁ」と感じる事がしばしばある。
そんなときは、「キミたちの常識は地球の常識、俺の常識は宇宙の常識」なんてうそぶいてみたくなるのである。


Binder: 星谷 仁のバインダー(日記数:25/全体に公開)
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