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千の証言:大阪大空襲 地下の静寂、救援電車 地上は猛火、両親と逃げた6歳

2015/05/15 14:20

大阪市の中心を南北に走る御堂筋。現在では百貨店やブティックが並び、若者が行き交う心斎橋は、1945年3月13日深夜から翌未明にかけての大阪大空襲で火の海となった。当時6歳で両親と一緒に逃げ惑った経験を持つ真鍋弘子さん(76)=大阪市阿倍野区=は「竜巻のような熱風だった」と恐怖の体験を「千の証言」に寄せた。一家は猛火の中、大阪市営地下鉄の「救援電車」で難を逃れた。(18、19面に大阪大空襲、神戸大空襲特集)

 真鍋さんは当時、御堂筋から西に数十メートル入った長屋(現在の大阪市中央区西心斎橋)に両親と3人暮らし。姉2人は親類宅に疎開していた。空襲警報を聞いた両親に連れられ、近くの地下鉄心斎橋駅に避難し、構内通路で身を寄せ合った。

 構内にあかりはあったが、外の様子は一切分からなかった。次第に煙が充満したため、地上に戻ると、御堂筋はリヤカーを押して北に向かって避難する人であふれていた。焼けた家屋の残骸が爆風にあおられて飛び交っていた。真鍋さんは「あちこちで火があがり、熱くてとてもその場にいられなかった」と話す。

 しかたなく地下に戻ると、改札口が開いていた。母におぶられてホームに行くと、電車がやってきた。真鍋さんは「車内はぎゅうぎゅう詰めではなく、人を押しのけるような混乱もなかった」と記憶している。

 後から聞いた話では一家は本町駅で降りたという。空襲が落ち着き、真鍋さんが「おなかがすいた」と言うと、父はくすぶっている家屋の残骸から火をおこし、リュックから鍋やわずかな米を取り出して雑炊を作ってくれた。

 しばらくして心斎橋に戻ると一帯は焼け野原。自宅の痕跡を示すものは、そばにあった大きな防火水槽のコンクリート片だけだった。炊き出しを求め、近くの小学校へ向かった。はぐれてしまった我が子の名前を連呼し、教室を捜し回る女性の姿が今も脳裏に焼き付いている。

 真鍋さんは、両親が無事だったこともあり、周囲に戦時中の話をすることはなかったが、戦後70年を迎え「戦争は嫌だという気持ちが一層、強くなった。自分の経験を知ってもらうことで、少しでも平和を考えるきっかけになれば」と話す。【山口朋辰】

 ◇現場の機転で運行か

真鍋さん一家が地下鉄心斎橋駅から乗ったのは「救援電車」とみられる。公的な記録は一切残っていないが、大空襲で大阪市中心部が猛火に包まれていた3月14日早朝、比較的被害の少なかった梅田駅に向け、心斎橋駅から少なくとも1本の臨時電車が避難者を乗せて走ったという。


 戦時中、空襲時の地下鉄の運行や構内への避難は禁じられており、救援電車の存在については断片的な証言しかなかった。1997年、市交通局の労働組合でつくる公営交通研究所(大阪市)と毎日新聞が当時の証言を集め、状況が明らかになった。

 研究所によると、救援電車は、始発前に職員輸送のために走行させる「お送り電車」を現場の機転で避難者のために運行したものとみられる。始発電車が救援電車になった可能性もあり、救援電車が何本走ったかは定かではない。職員OBの聞き取りによって変電所は被害を免れ、空襲後も電気を送り続けたことが判明している。


「毎日新聞」 2015年3月17日


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