先生さんのマイページ

昨日の現代仏教塾「チベットの浄土信仰」についての補足

2017/04/17 16:18

昨日の高明寺・横浜聖地霊園における第15回現代仏教塾「チベットの浄土信仰」を聞きにきてくださった皆さま、本当にありがとうございました。

昨日は中山駅からの道が大渋滞で、会場に着くまでが大変だったと思います。ズーラシア(動物園)とそのお隣の里山ガーデンでおこなわれている緑化フェスに大勢の人出があり、それで渋滞になっていたようです。
私は、タクシーだったのですが、前に進まず、おまけにカーナビがついていなかったので、携帯で地図をみて迂回路を探し、なんとか10分前に到着しました。ばたばたしていて、講演のなかで説明を飛ばしてしまったところがいくつかあり、わかりにくかったと思います。申し訳ありませんでした。

(昨日でていない方は、下のメモ書きを読むだけではちんぷんかんぷんだと思いますが、2時間半のお話しを文章にまとめるのは困難です。昨日の講演は主催者によって録画がおこなわれており、いずれYoutubeで動画が公開されると思い ます)
追記:公開されました。
https://www.youtube.com/watch?v=HdQKKEyXWRc
https://www.youtube.com/watch?v=SE3bVsqmU2k

本来、こうなるはずだった話の組み立ては、

・チベットで阿弥陀仏の信仰盛ん。特に在家信者は、家督を譲ったあと、阿弥陀仏の極楽に生まれること願って修行。

・チベットと日本の仏教は同系統(インド・ナーランダー僧院の伝統)
 浄土三部経のうち、『観無量寿経』を除く、『大無量寿経』『阿弥陀経』、チベット大蔵経にはいっている。
 基本的に考え同じ。

・チベットでは密教の実践盛ん。たくさんの本尊、その数だけ仏の世界。なぜそのなかで阿弥陀仏の極楽が願われるのか?
 仏教では私と私が捉えた対象の実体視が苦しみの真の原因とする。そこから解放されたのが仏陀で、その仏陀に現われる世 界が「仏の世界」=実体視に捉われた「凡夫」(=普通の人)の段階では、生まれることできない。
 阿弥陀仏の世界は例外。阿弥陀仏が前世で別の仏にめぐり合い、あなたのような仏になると誓い(讃仏頌)、最高の仏の世界を作って衆生を救うと誓願(弥陀の本願)。仏に能力の差はないが、どういう救い方をするかは、仏陀になると決意したときの誓願により異なる(釈尊は、穢土で教えを説くという誓願をたてた仏)。
 その誓願の働きで、凡夫であっても死後(何度も何度も生まれ変わって修行をつづけなくても)直ちに往生可能。
 ただ、「あらゆる世界の衆生が自分の世界に生まれたいと心から願うならば、その願いをかなえる」という誓願があっても、望まない者を無理やり連れ去ることはできない。凡夫=対象実体視。見たことのない阿弥陀仏の世界より、家族が恋しい、お金が恋しい、となるため、誓願あっても生まれることむつかしい。

(話し忘れて、後半冒頭で付け加えた箇所)
<<・日本の浄土宗・浄土真宗では、仏の世界について上のようなイメージないかもしれないが、仏の世界の基本は『華厳経』。そのなかの「普賢行願讃」で、前半は自/他を実体視する思いから離れた仏とその世界が讃えられ(それをあらわしたのが東大寺の大仏。宇宙大の仏)、後半ではその境地を体験する具体的な手段として、阿弥陀仏の世界に生まれてお顔を拝すること願われている。
 チベットでは「普賢行願讃」とてもポピュラー。ダライラマ法王も東日本大震災の追悼法要で『般若 心経』などと共に。日本でも、東大寺では今も法要で唱えられている。>>

・以上が(日本・チベットに共通する)阿弥陀仏の世界とそこへの往生についての理論的説明。ただし、往生に知識が必要とか、知識が増えると往生しやすくなる、ということではない。むしろ知識は妨げになることも(ドゥッパクンレーの警句。日本でも妙好人の多くは、文字も読めないような人々)。一番大切なのは疑いのない信。疑いあると、極楽の蓮の花の中に生まれても、なかなか花開かない=阿弥陀仏のお顔を拝むことできない、といわれている。
チベットで、死に関する密教の実践(ポワ・『チベットの死の書』)あるのは、そのこと関わる。(以上、前半分)

・ポワ・『チベットの死者の書』の紹介(省略)

・阿含経典で釈尊は、くりかえし「作られたもの(有為)は無常、苦、無我」で あると説く。

(とばしてしまった箇所)
<<→釈尊が到達した苦しみからの解放の境地は、作られたものではない。それは作られたものである言葉によって説明することできない。→教えの言葉は、言葉では説明できない、作られたものではないものを指し示すための手がかり、クイズのヒントのようなものでしかない。しかも、解答者(教えを受けるもの)はその正解をまだ見たことがない。=正解にたどり着くこときわめて困難。
 顕教が、言葉を手がかりに、言葉で説明できない作られたものでない境地を発見することを目指すものであるのに対して、
 密教の実践は、作られたのではないもの(チベットで言う「心の本質」(←→作られたものである「心」)) に関わる実践=知識で理解すること100パーセント不可能。すでにその境地を体験している師から灌頂、伝授など受けてその境地に触れる必要。本=知識で密教を学ぶことできない。そのため、秘密の教え。>>

 高度な密教の実践をしていない者でも、死の際には厚い意識の層(「心」)解体。それを利用したのが上記の実践。

・「私」(「心」)が信じる=変わることありうる。疑いの要素なくすことできない。疑いのない信は、作られたものである「心」ではなく「心の本質」による

・そのこと踏まえると、親鸞聖人の「他力」ただしく理解できる。修行しなくても救ってもらえる、修行したらだめ、というのではなく、仏の世界に生まれるのは、作られた修行や知識ではなく、完成された(=作られたのではない境地に到達した)仏の誓願の働きによる、ということ。
 親鸞聖人の空と雲のたと え(正信偈)、チベットの奥義と同じ。(空=「心の本質」=「作られたのではないもの」。雲=煩悩=「作られたもの」)
 私たちに浄土に生まれたいという気持ちが生じるのは、阿弥陀仏の誓願の働きかけによる。その働きに気づくことが、「作られたのではないもの」に触れること。体験すれば、疑いなくなる。

<<言葉は、「言葉で表すことのできないもの」という言葉で、言葉で表すことのできないものをあらわしてしまうこともできる。しかし、その言葉を知っていることと、本当に「言葉で表すことのできないもの」を知ることは、まったく別。「心」は、自分が捉えることできないものを認めたくないので、その説明でわかったことにしてしまう。その危険性が 、知識が往生のプラスにはならず、妨げになることすらある、ということ>>


Binder: ナーガールジュナ仏教研究所(日記数:88/全体に公開)
このエントリーをはてなブックマークに追加

Mail Address(GMO ID):

Password:

自動ログインパスワードを忘れた方

最近書いたブログ


https://www.freeml.com/feed.php?u_id=6894599&f_code=1



Copyright(C)2017 GMO Media, Inc. All Rights Reserved.