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沖縄の二人の知事・・・泉守紀と島田叡

2010/03/04 00:40


←はじめにクリックをお願いします。具志頭の海岸大東亜戦争末期に行われた沖縄戦は、昭和20(1945)年3月23日の、米軍の延べ二千機の航空機による空襲からはじまりました。米軍が投下した戦力は、艦艇1500隻、輸送船450隻、兵員は54万8000人(うち上陸部隊18万人)にのぼります。日本側の兵力は、116,400人です。沖縄戦では、この兵員のうち 94,136人が、死亡、または行方不明となりました。そして沖縄戦で忘れてはならないのは、沖縄の民間人死者 94,000人です。当時の沖縄県民の人口は、約59万人です。人口の2割が戦禍の犠牲となったのです。大損害です。沖縄では、なぜ、そこまで莫大な民間人の被害者がでたのでしょうか。反日左翼のみなさんは、沖縄の日本軍が住民にヒドイことをしたのだとか、わけのわからない宣伝をしています。もっといったら、沖縄の日本軍がバカだったのだ、などという記述もあるようです。しかし、ほんとうにそうなのでしょうか。沖縄にいた日本軍が、トロかったから、沖縄県民が犠牲になったのでしょうか。沖縄戦に先立つ8か月前の、昭和19年7月に、サイパン島が陥落しました。このとき東条内閣は、緊急閣議を開いて「沖縄に戦火が及ぶ公算大」であるとして、沖縄本島、宮古、石垣、奄美、徳之島の五島から60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童の、本土及び台湾へ疎開を決定しています。決定は、その日のうちに沖縄県に通達され、開戦前の即時疎開目標は「本土へ8万、台湾へ2万の計10万」とされています。沖縄には、約49万人が沖縄本島に残留し、10万人が、周辺の島々に残留しています。このことは大切な問題なのですが、およそ軍にとって、実は民間人が、もっとも負担が大きい。そもそも何のために戦っているかといえば、民間人を保護するために戦っているのであり、その民間人は、規律と統制のとれた軍人とことなり、移動ひとつをとっても、散漫で遅滞しがちになる。被災場所から逃げ遅れた者がいれば、そのための捜索隊を危険を冒して出さなければならないし、戦傷者が出れば、そのぶん、余計に人手をとられ、軍の機動力も損なわれます。また、沖縄は、数々の離島で構成された島であり、周辺の島々に住民がいれば、日本側守備隊は、それぞれの島の防衛のために、ただでさえ少ない兵力を、余分に割かなければなりません。戦いは、戦力が集中した方が有利なのは、古来、戦場の常識であり、離党に戦力が分散し、また本島の民間人保護に戦力を取られたら、それだけでも、戦いは非常に不利なものになる。まして、高齢者や婦女子は、戦いの場にいたら危険なだけです。ともかく、日本国政府としては、一日も早く、沖縄県民を疎開させなければならない。上述の十万人疎開というのは、当面の課題であり、できれば全民間人を疎開させたいと考えるのは、当時にしてみれば、いわば「常識」の世界の話です。しかし、県の人口の大量疎開となると、種々の問題が発生します。ただでさえ船舶が不足し、輸送力が低下していることに加え、米潜水艦による輸送船への攻撃もあるのです。他方、県民自身の郷土への執着や、見知らぬ土地への疎開に対する不安に対する介抱も必要になる。手荷物の制限もしなければならない。住民にきちんと事情を説明し、理解を得がら、疎開誘導を円滑に進めるには、当然のことながら、現地の行政府の協力が不可欠となります。ことは迅速を必要としています。すでにサイパン島は陥落しているのです。米軍は、沖縄のすぐそこまで迫ってきている。時間がない。まさに官民一体となった、大規模疎開が必要となったそのとき、実はこれに「待った」をかけた者がいました。当時の沖縄県知事、泉守紀(いずみしゅき)です。この男、頭は空っぽだけど、態度だけはでかい。昭和18(1943)に、沖縄県知事に赴任したのだけれど、着任早々から、やれ「沖縄は遅れている」だの「だから沖縄はダメだ」などと、県の職員たちを見下し、こき下ろし、県庁職員たちの反感を買っています。この男は、沖縄県の離島民の疎開についても、「待った」をかけ、沖縄本島の老人婦女子の租界についても、「沖縄県が戦場とならないために努力するのが軍の仕事である」などと、わかったようなことを言い出して、県が疎開行動に協力するのを拒みます。風雲急を告げているときなのです。愚図愚図しているヒマはない。戦闘は、こちらが望んで起こすものではありません。米軍が、米軍の都合で、日本本土占領の戦略上、仕掛けてくる戦闘なのです。こちらの都合で決まるものではない。12月になると、敵上陸が眼の前に迫ってきます。この時点でも、離島も本島も、疎開は遅々として進んでいない。敵が完全に過剰封鎖をしてしまったら、もはや取り返しがつかないのです。もはや、内地や台湾への疎開は、このままでは間に合わない。やむをえず沖縄守備軍は、「南西諸島警備要項」を作成して60歳以上と15歳未満の老幼婦女子を沖縄本島の「北部」に疎開させる計画を作り、泉知事に提示します。ところが、泉はこれにも反対した。「山岳地帯で、耕地もない北部へ県民を追いやれば、戦争が始まる前に飢餓状態が起きる」というのです。しかもただ反対するばかりで、対案はいっさい示さない。あげくの果てが、現地軍との交渉不調であるとして、この問題を内務省と陸軍省に棚上げしてしまいます。つまり、沖縄県の民間人の疎開や、戦災に関する責任を負わず、いっさいを東京に丸投げした。さらに泉は、翌、昭和20(1945)年1月12日には、「現地軍から要請のあった県内疎開を政府と協議する」と言う名目で東京に上京しています。そして、裏から手をまわして、香川県知事の発令を受け、結局沖縄から逃げてしまう。ちなみに、当時の県知事というのは、いまのような公選制ではありません。中央の内務省からの辞令を受けて、赴任した。そもそも、泉は、在任一年半のうち、三分の一近い175日間もの間、沖縄県を留守にしています。どこに行っていたのかと言うと、東京との調整と称して、風雲急を告げる沖縄をほったらかして、ずっと中央に逃げていた。そもそもこの男、昭和19(1944)年3月に、沖縄防衛軍である第三十二軍が着任すると、すぐに軍の幹部と揉めています。なにを揉めたのかというと、軍が若い兵士たちのために「慰安所」の設置を求めたのに対し、「皇土の中にそのような施設をつくることはできない」と、これを断固拒否した。「慰安所」というのは、要するに売春宿です。たしかに「売春宿を皇土にもちこむのはよくない」といえばそれまでです。言っていることは、ご説、ごもっともです。ただ、ひとついえることは、このての、いっけんもっともらしい理屈をいう人間に、ろくな奴はいない、ということです。10月10日の那覇空襲のときには、逃げまどう市民や県庁職員をほったらかして、自分だけさっさと防空壕に隠れてしまった。職員すらほったらかしです。自分だけ逃げた。さらに空爆が終わると、被害現場もほったらかして、黒塗りの乗用車でこっそり那覇を脱け出し、本島中部の普天間に立ち去っています。そして年が明けて米軍上陸必至の情勢になると、大蔵省幹部の実兄に宛てて転任工作を依頼する手紙を出し、自らも上京して、沖縄を去り、見事、裏からの根回しを成功させて、香川県に去ってしまった。悪く考えれば、泉知事は、沖縄がヤバイとなったとき、県知事という職を利用して、中央や軍、あるいは県庁職員の疎開案に、ことごとく反対し、そのことで沖縄県民の安全を人質にして、自分ひとりだけ、そこからうまく逃げ出す算段をしたとすらいえる。結果、沖縄県では、東條内閣の決定以降、沖縄を脱出し、疎開できたのは、わずか三万人です。そして、逃げ遅れた沖縄県民は、戦禍の中を逃げまどい、人口の2割の九万人を死傷させるという大惨禍を被った。ちなみに、泉は、香川県知事として終戦を迎え、その後も団体役員などを歴任したうえ、昭和59年、86歳で天寿をまっとうしています。そういえば、亡くなる前には、北朝鮮への拉致被害者救出のための会にも名を連ねていた。こういう前歴を持った男が、実際に拉致被害者の救出に真剣に取り組む意思があったかは、わかりません。こういうもっともらしい理屈をいう卑怯者というのは、古来、どこの世界にもいるものです。こういう連中には共通点があって、何かあると、問題点を指摘するにとどめて、具体的意思決定は、次々と先送りする。そして成功すれば、その会議に自分も出席していたことで、成功の恩恵にあずかり、失敗したら、「だからあのとき自分は、こういう問題点を指摘したのだ」と失敗を「他人のせい」にする。この「他人のせいにする」というやり口は、この泉知事のような卑劣漢に、共通の事象ということができます。たったひとりのろくでもない県知事のおかげで、疎開が大幅に遅れた沖縄では、事態の打開のため、泉知事解任後、海軍陸戦部隊の大田実少将が、「肝胆相照らす」仲であり、尊敬するしている島田叡(しまだあきら)を沖縄県知事にと、推薦します。沖縄戦開始の二カ月前の昭和20(1945)年1月末のことです。この時期、沖縄に行ってくれ、というのは、実質「死ね」というものです。赴任に反対する家族に島田は、次のように述べています。「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか」「俺は死にとうないから、誰か行って死ねとはよう言わん」「断るわけにはいかん。断ったらおれは卑怯(ひきょう)者や」「沖縄軍司令官の牛島(満)さんから赴任を望まれたんや。男として名指しされて、断ることなどできやへん」そして島田は、家族に「断」の字を残し、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせ、死を覚悟して沖縄へ飛びます。このとき島田、43歳でした。島田叡(しまだあきら)氏着任した島田は、すぐに、沖縄駐留軍との関係改善を図り、前任の泉知事のもとで進まなかった北部への県民疎開や、食料の分散確保など、喫緊の問題を迅速に処理していきます。海上封鎖されれば、県民の食糧難の危機が想定されると、島田は、着任後すぐにアメリカの潜水艦や偵察機がうようよする中を、自ら台湾に渡って総督府に頭を下げ、3000石の米を沖縄に輸送した。また戦場化が避けられない沖縄で、せめて県民に楽しみをと、戦時体制化で全国的に禁止されていた歌舞音楽を開放し、自ら酒を持って農村の民の輪に加わることもあった。三月になって、米軍の空襲が始まると、県庁を職員らとともに首里に移転し、地下壕の中で執務を執ります。戦火の下ででも、食糧の確保、避難者の受け入れ、壕生活の改善、治安維持、防諜など行政の任務は数限りなくあります。県知事はそのひとつひとつに判断と執行令を与え、ときに自ら率先してその任にあたった。そして島田は、沖縄戦の渦中を通じて、常に軍と密接な連携を保ち、壕を移転させながら指揮を執り続けます。島田は、明治34(1901)年に、神戸の開業医の長男坊として出生しています。旧制神戸二中(現:兵庫県立兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、大正11(1922)年東京帝国大学法科へ入学した。勉強もできたがスポーツも万能で、中学・高校・大学と野球に熱中し、二中時代はキャプテンとしてチームを県下のトップクラスに引き上げています。東大時代は神宮球場のスター選手でもあった。しかも東大では、ラグビー部の選手まで掛け持ちしています。要するに、勉強もでき、スポーツも万能、というすごい奴だった。親分肌できっぷもよく、およそ横柄なところのない人物だったそうです。沖縄の防空壕暮らしの頃の逸話があります。女子職員が汲んできた水で洗顔を勧めると、「お前が命懸けで汲んできた水で顔が洗えるかい」と、笑顔で答えたのだそうです。そして島田は、最後まで他の職員と同様に、米の研ぎ汁に手拭いを浸して顔を拭いた。やわらなかな神戸弁と、笑顔のとても素敵な人だったそうです。島田が沖縄県知事を務めたのは、沖縄戦の直前からのわずか五カ月にすぎません。しかし、その五カ月間に島田と接した全員が、島田のことを心から慕った。陸軍守備隊が首里を撤退するときのことです。島田は「南部には多くの住民が避難している。軍が首里から南下すれば、住民が巻き添えになる」と猛反対したそうです。五月末の軍団長会議に同席した際も、島田は、「軍が武器弾薬もあり装備も整った首里で玉砕せず、摩文仁に撤退するなら、それは住民を道連れにすることになる愚策である」と憤慨したといいます。しかし、このとき牛島司令官は、「第三十二軍の使命は、本土作戦を一日たりとも有利に導くことにある」と説いて会議を締め括りました。沖縄の民間人の安泰の優先を願う島田知事と、日本国軍全体の動静を背負った牛島司令官の意見対立ですが、「公」を重視する当時の考え方により、島田は撤退を了承しています。そして意見は徹底して具申しても、決まれば、それに従って必死にその方向で働く。じつに男らしい男です。6月9日、島田は、最後まで残っていた行政組織「警察警備隊」に解散を命じます。「島田知事のためなら生死をともにします」と付き添ってきた二人の属官にも「脱出」を指示した。二人は「一緒に死なせてください」といったそうです。その二人に島田は、「なにがあっても、どんなことがあっても、きみたちは命を永らえて欲しい」と突き放すように壕の外へ出してしまった。そのとき、島田はポツンとこう言ったそうです。「俺はこれだけの県民を死なせておいて、生き残ることはできないよ」そしてなお断末魔の戦場を、北東方向の具志頭方面に向かっていった。同年6月26日、島田は具志頭の海岸にいました。このあたりは、琉球石灰岩の地形で、断崖には大小多くの洞窟があります。そこで球一八八○部隊独立機関銃隊の連絡係だった伍長の山本初雄さんが島田知事に出会っています。以下、山本初雄さんの述懐を引用します。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧さがしに海岸沿いを糸満方向へ約二百メートル行った。海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて「知事さんがはいっておられますよ」という。奥行き六メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。「知事さんだそうですね」とたずねると、「私は島田知事です」と胸から名刺を出した。「負傷しているんですか」ときくと、「足をやられました」といわれた。知事さんが「兵隊ん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい」と言った。何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。二つもらって「元気にいて下さい」といって自分の壕に戻ったのを忘れません。その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。ところが、先日と同じ地方人が「知事さんはなくなりましたよ」という。壕にはいるとヒザのそばに短銃があった。右手から落ちたような感じで、「ああ自決したんだなあ」と思った。合掌して知事さんの壕を出ました。知事は、白の半そでシャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜島田の亡くなった最後の壕は、「轟の壕」です。最後の沖縄県庁という呼び名もあります。昭和20(1945)年7月9日、島田の殉職の報に際して、安倍源基内務大臣は、行政史上初の内務大臣賞詞と顕功賞を贈りました。「其ノ志、其ノ行動、真ニ官吏ノ亀鑑ト謂フベシ」内務大臣が一知事に対して賞詞を授与することは、これが最初で最後の出来事です。昭和26(1951)年、県民からの浄財の寄付によって、島田をはじめ死亡した県職員453名の慰霊碑が摩文仁の丘に建立されました。「島守之塔」にある慰霊碑いまでも、高校野球の夏の沖縄県大会を制した高校には、「島田杯」が授与されています。また、沖縄・兵庫高校テニス選抜大会にも、「島田杯」の名が冠されています。島田叡の座右の銘です。「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」沖縄戦では、約十万人の沖縄県民の死者を出しました。しかし、ひとつはっきりといえるのは、それだけの損失を出した原因のひとつに、沖縄県民の疎開(避難)を、人質に、自分だけが助かり、いい思いをしたいという卑劣漢がいた、ということは、忘れてはならない事実だと思います。泉という前任の沖縄県知事が、故意に住民の避難を遅らせたために、沖縄には、多数の高齢者や婦女子が残り、さらに沖縄が離島を多く含むために、第三十六軍は、ただでさえ少ない戦力を、それぞれの島に分散する他なくなった。加えて、沖縄本島を含め、それぞれの島の住民の避難誘導や食糧・水の手配、あるいは戦傷を負った民間人への手当て等、軍は、そのための要員を大量に割かなければならなくなった。それら一連の諸問題は、泉守紀という小役人のボンクラが引き起こした問題です。一方、後任の島田知事や第三十六軍の将兵は、そうしたボンクラのしでかした最悪の事態について、最後まで愚痴も文句もいわず、死力を尽くして戦い、散華された。いまどきのマスコミ関係者、反戦平和主義を叫ぶ市民団体等は、非戦闘員が日米両軍の地上戦闘に巻き込まれた全責任を、日本軍(第三十二軍)せいにしようとしています。けれど、これは間違いです。約十万人の沖縄県民を死に至らしめた全責任は、疎開を故意に遅らせた泉沖縄県知事にある。泉沖縄県知事の問題を出すと都合が悪いのです。なぜかというと、泉知事の問題を出すと、当然その後任の島田知事の話題が出る。島田知事は、軍と連携を密にして、沖縄戦の最後の最後まで、県民の保護のために尽力された。そして島田知事と親交のあったのは、大田実海軍少将であり、牛島満陸軍中将であった。そうなると、いきおい、彼らがいかに立派に最後まで戦ったのかという話になってしまう。しかしねずきちは思うのです。歴史の真実を、政治で誤魔化してはいけない。歴史は常に真実を語り継がなければならないと。 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