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戊辰戦争での、分捕りと虐殺

2013/01/21 21:51

■■牧原憲夫『全集 日本の歴史 第十三巻 文明国をめざして』(小学館、二〇〇八年)の「幕末の激動と民衆」(五十五頁)では、

 戊辰戦争が激化すると、住民は双方から軍夫に駆り出され、食糧・金銭を徴発された。女性・子どもは山に逃れたが、田畑は踏み荒らされ、家や店は焼かれた。たとえば郡山町(福島県郡山市)では、会津軍の放火・強奪と新政府軍の強奪が繰り返され、その間に町民の一部も酒屋・米屋の蔵から品物を持ち出した。 鹿児島(薩摩)軍には「分捕隊(ぶんどりたい)」さえあったといわれる。戦乱をかいくぐりながら生糸の買い付けをしていた近江商人の小杉元蔵も、鹿児島藩に荷物を奪われて<血を吐くほどの思い>をさせられたが、旧領主<彦根藩の御本営>に駆け込んで、なんとか取り戻した。 また、新政府軍に随行したイギリス公使館のW・ウィリスは、<私は一度も捕虜を見ていない><日本政府が敵対する大名の家臣を見さかいもなく殺害していることを世界の国々が聞けばぞっとするであろうし、とりわけ文明国は・・・憎悪心をたぎらせるであろう>と、繰り返し警告している。 兵士だけでなく、軍夫や道案内に連れ出された住民も容赦なく殺された。たとえば、会津藩の前線拠点のひとつだった那須軍三斗小屋宿(栃木県)では、一進一退の攻防戦のなかで、旧幕府軍の軍夫にさせられた農民が畑の中に立たされ、新政府軍(黒羽藩士)の一斉射撃の標的にされた。近くの元名主は自宅が旧幕府軍の仮陣屋にされたのち、新政府軍が来て道案内を強制された。だが、ふたたび戻ってきた旧幕府軍は彼を柱に縛りつけ、股(もも)の肉を焼いて食べるなどして虐殺したという(田代音吉『三斗小屋誌』)。 二百数十年ぶりの戦争であり、薩長と会津は数年来の「宿敵」とはいえ、戦闘能力を失った敵兵を殺害し、食糧・物資を住民から奪い、敵性住民と見なした者に凄惨なリンチを加えるといった、後年の侵略戦争と少しも変わらぬ所業が、戊辰戦争のなかですでに繰り返されていたのだ。また、「諸方より女郎がおびただしく入り込んで賑々(にぎにぎ)しい」と小杉元蔵が記していることも見落とせない。

 そのうえ、新政府軍は「賊軍」の遺体埋葬を禁じた。見せしめとはいえ、腐乱する遺体を横目に生活せざるをえない住民の苦悩は計り知れない。とくに会津若松城の内外には無数の遺体が散乱し、雨に打たれ野犬やカラスがたむろするままに放置された。 パリ・コミューンを制圧したフランス第三共和国政府も埋葬を禁じたというから、日本だけがことさら野蛮だったともいえないが、こうした凄惨な光景が語り継がれるなかで、後述のようにからなずしも会津藩支持ではなかった地元の人びとにも、「官軍」憎しの感情がつくりだされたのかもしれない。 なお、戊辰戦争は近代的な銃撃戦・砲撃戦が主体でありながら、敵兵の首を斬り取ってその数を競い合う風潮が両軍に強かった。しかも、鳥羽・伏見の戦いの幕府側総指揮官松平正質は、敵兵の頬肉(ほおにく)をあぶって酒の肴にしたという。こうした事例もまた両軍に共通するが、とくに薩摩藩兵から「肝(きも)を煮たから喰おう」と誘われた話が多いようだ。ただし、薩摩には薬用に牛肉を食べる習慣があったともいわれる。もっとも、脳や肝臓を「妙薬」だとする観念は広く浸透しており、政府は明治三年(一九七〇)四月、<人肝或いは霊天蓋(脳髄)・陰茎等密売致す>と聞くが<効験これ無き事に付>厳禁するとの通達を出している。しかし、作家長谷川時雨が明治時代中期の体験を回想した『旧聞日本橋』には<肺病には死人の水 −火葬した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが・・・これは脳みその焼いたのだよ>と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった話が出てくる。


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