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飛虎隊伝説 (6)

2010/08/26 22:41

 「米国陸海軍航空隊に所属していた一癖も二癖もあったならず者の現役戦闘機パイロット約100名と、整備士等の地上支援要員約200名をもって創設した傭兵戦闘部隊(AVG)」の実態を考える上で、部隊に参加した「一癖も二癖もあったならず者」の一人に焦点を絞ることで、

 

 

 エイジャックス・ボームラー大尉もそのひとりであったが、米義勇航空群に送られた他の操縦者とは違って、彼には戦闘経験があった。まず1930年代中盤、米陸軍航空隊に奉職、その後退職して1936〜1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ。前線での7カ月間で、撃墜4.5機を報じた後、ボームラーは帰国し米陸軍航空隊に復職した。1941年、米義勇航空隊に参加するため、ふたたび辞職しようとしたが、中国に向かう最初の試みは真珠湾攻撃によって妨げられ、かれは陸軍航空隊に戻った。しかし、彼は、まだ紙上の存在でしかなかった第23戦闘航空群の隊員として、まんまと中国への派遣割り当てを獲得した。1942年5月、ボームラーはとうとう昆明に到着し、翌月、もっと東にある米義勇航空隊の基地、衡陽へと向かった。

 

 

…というエピソードに出会うことが出来た(カール・モールズワース 『太平洋戦線のP−40ウォーホークエース』 大日本絵画 2002)。あくまでも、「このような隊員もいた」ということであって、ボームラーが隊員を代表するというわけではないのだが、この時代相を見事に反映した人物でもあるとも思われる。

「1936〜1937年、スペインで人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年に「米義勇航空隊に参加」しようとし、1942年に実際に隊員となった経歴には、時代の中での一貫性があると言わねばならない。1936〜1937年のスペインで、独伊の援助を受けたフランコと闘うために「人民戦線の戦闘機乗りとして飛んだ」経歴と、1941年の中国で、独伊の同盟国である日本の軍隊と闘う国民政府のための「米義勇航空隊に参加」した経歴の持つ「一貫性」の問題である。

 

 

その「一貫性」について考えるために、もう一人の戦闘機パイロットの姿を見ることにしたい。

そのために開くのは、ロベルト・グレツィンゲル/ヴォイテック・マトゥシャック『第二次大戦のポーランド人戦闘機エース』(大日本絵画 2001)のページである。

 

 

 ポーランド人は、ドイツ及びイタリアとはヨーロッパと地中海のほとんどあらゆる前線で戦っていたが、3番目の枢軸国にはずっと少ない注意しか払われなかった。事実、ポーランドを代表して日本との戦いに実際に参加した人間は、たったひとりだけだった。

 1942年6月以来、ヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐はワシントンでポーランド大使館付空軍武官補佐官を勤めていた。そこで彼はコシチュッシコ飛行隊の創設者で、1940年に英国で会ったことのあるクーパー大佐に再会した。中国でアメリカ人義勇兵グループ(American Volunteer Group : AVG)「フライング・タイガース」の創設を手伝ったことのあるクーパーは、ウルバノヴィッチュを同部隊の司令官シェンノート将軍に紹介した。ウルバノヴィッチュはシェンノートに対し、AVGで飛んでみたいという希望を表明し、1943年も遅くになって、彼は中国に送られた。公式には、地上作戦への空からの支援について実戦経験を得るためというのが理由だった。はじめは呈貢の第16戦闘飛行隊と昆明の第74戦闘飛行隊で、それから衡陽の第75戦闘飛行隊に移り、1943年の11月から12月にかけて、ウルバノヴィッチュは12回の作戦に出動した(飛行時間にして約26時間)。

 1944年1月11日、シェンノート少将はウルバノヴィッチュに航空殊勲賞を授与した。その勲記には中国での彼の活動が簡潔に述べられている。

「1943年10月23日から12月15日までのあいだ、ウルバノヴィッチュ少佐は在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加し、空中戦において賞賛すべき業績をあげた。この期間中、少佐は戦闘機操縦士として低空地上攻撃、爆撃、および空中護衛任務に約34時間飛行した。大部分は洞庭湖地域で日本軍に圧迫された中国軍地上部隊を空から支援するための任務であった。1943年12月11日、少佐は基地へ戻る途中の日本軍機編隊に対する攻撃に参加し、続いて起きた空戦で敵戦闘機2機を撃墜した。軍務全期間を通じて、少佐は敵をものともせぬ勇気と優れた戦闘技術を発揮した。その戦いぶりは少佐自身のみならず、ポーランド軍、またアメリカ軍の名誉の記録となるものであった」

 

 

ドイツに(そして続いてソ連に)、ウルバノヴィッチュの祖国が侵略されたのは1939年のことであり、以来ウルバノヴィッチュの祖国は占領下にあった。

日独伊による三国同盟は、ポーランド人ウルバノヴィッチュにとって、祖国ポーランドを侵略し占領した国家との「同盟」を意味するのである。「3番目の枢軸国」の軍隊と現に戦っている中国のために、「在中国アメリカ陸軍航空隊に志願して参加」することは、ウルバノヴィッチュにとって「理に適った」行為であったに違いない(ただし、ウルバノヴィッチュが「志願して参加」したのは、退役米陸軍大尉シェンノートのAVGではなく、米軍に編入後のシェンノート将軍指揮下の「在中国アメリカ陸軍航空隊」なのである―引用記事では、その点が曖昧なので注意が必要であるが、枢軸国対連合国の構図がウルバノヴィッチュの動機の底流にあることへの理解を持つことが、ここでは重要なのである)。

 

 

 

スペイン戦争、支那事変、そしてヨーロッパの戦争、そしてアジア太平洋での戦争。そこに一貫する対立軸の存在が、エイジャックス・ボームラー大尉そしてヴィルトウッド・ウルバノヴィッチュ少佐とクレア・リー・シェノールト(シェンノート)のフライング・タイガースを結びつけていたことに気付くことで、日中・日米という対立軸のみで問題を考えようとしてしまう視野狭窄状態から逃れることが可能になるはずだ。

 

 

 

 

 





Binder: 現代史のトラウマ(日記数:667/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2010/08/27 00:34
    1940年、英国でのウルバノヴィッチュは、
    「バトル・オブ・ブリテン」に参加し、15機撃墜のスコアをあげている。
         (その時点で32歳!)
    英国上空でドイツ空軍と戦うことと、
    中国上空でドイツの同盟国の日本軍機と戦うことに、
    ウルバノヴィッチュは一貫性を見出していたということだろう。

  • Comment : 2
    Mr.Dark
    Mr.Darkさん
     2010/08/27 18:25
    「敵の敵は味方」という感覚は、古今東西、人類の共通項ですからね。

  • Comment : 3
    umasica :桜里
     2010/08/28 00:06
    Mr.Dark 様


    >「敵の敵は味方」という感覚は、古今東西、人類の共通項ですからね。

    …で、敵の味方は敵。

  • Comment : 4
    umasica :桜里
     2015/09/21 16:02
    加筆修正の上、ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてアップ。


     飛虎隊伝説 (3)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-c531.html

  • Comment : 5
    umasica :桜里
     2015/09/21 22:13
    《タイトルを変更した》

     飛虎隊伝説 (3)

       ↓

     飛虎隊(フライング・タイガース)伝説 3

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