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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (9−1)

2018/07/30 21:35




 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩(武蔵野)地域が軍産複合地帯化していたことについて、「多摩(武蔵野)地域」の全体を視野に入れつつ、特に(「武蔵野」の名を冠した)武蔵野美術大学の所在地でもある現・小平市に焦点を合わせながら、既に8本のブログ記事としてアップしてきた(記事カテゴリーとしては「多摩武蔵野軍産複合地帯」)。

 小平に設置された軍事施設の特質(「近代総力戦状況」の中でのそれらの施設群の持つ意味)を明らかにする(「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (5)」参照)と共に、軍事施設、軍事施設の立地と地勢的条件の関係を、より具体的なものとして理解することに努めてもきた。

 

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (4)」では、矢嶋仁吉氏の1939(昭和14)年の論文を読むことで、40年代に本格化する小平地域の軍事化の直前の小平の状況を、地理学者の眼を通して理解・把握することを試みた。

 小平地域の「地下水面の深度は大であって、著者の実測によれば、武蔵野台地に於て10−15mの深さの地域に属している」のであり、「大地の中央に近くて帯水層の深い本地域附近に於ては、一井の掘削にも技術上の困難と多大の費用とを要する」のであって、居住者にとって「飲料水問題」が切実であることを矢嶋氏は繰り返し指摘していた。

 そのような地勢的条件を前に、「小平地域の軍事施設化の中心となった陸軍(ここでは陸軍が「開発事業主」と位置付けられる)は、それぞれの施設に自前で給水塔を設置」する形で対処したことを示しておいた。

 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」では、再び小平地域での地下水源の確保と給水能力の問題について、より詳しく取り上げた。矢嶋論文の指摘するように「10−15m」の地下水面への到達さえ困難であったのが、近代以前の小平地域での井戸掘削の状況であった。しかし、昭和10年代の小平に設立された軍事施設では、「深井戸」の掘削による(100メートルを超える深度からの)被圧地下水を確保・供給したのである。

 

 

 

 今回は、あらためて小平地域における「水の確保の困難」の問題について、そして自ら深井戸を掘削し給水システムを整備した「大きな力」としての軍と民間土地開発事業者について記しておきたい。まず取り上げるのは『小平市三〇年史』(1994)の記述である。

 

 

  開拓当初の小平では玉川上水から水を得たが、時がたつにつれて飲用水は個々の井戸から得るようになった。まだ小平が純農村のころの話である。
  大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である。終戦後急激に居住者が増え、施設を拡充する必要に迫られ、給水申込には権利金が必要とされるようになった。
  昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた。その関係者で地元に住んだ人は、普通農家に間借りしたり、その宅地内に住んだりしたので、とくに水に対する新たな配慮は要らなかった。
  続いて終戦前後相次いで建設された集団住宅はどうであったのか。日本住宅営団による集団住宅は桜上水(二一六戸)、旭ヶ丘(七七戸)および中宿(二一四戸)に建設され、それぞれ昭和一八年(一九四三)、二一年及び二二年に合計五〇七戸が入居した。
  桜上水と旭ヶ丘では四軒に一井の割で井戸が掘られた。桜上水の井戸は水脈に当ったせいか、水の出はまことに良かった。最初は手押しポンプであったが、昭和二四(一九四九)ころからモーターによるポンプと台所までの給水管が設けられ便利となった。一方、旭ヶ丘の井戸は水の出が悪かった。水の不足を訴える家はかなりの数にのぼり、夜間水の出の良い井戸のある家に水をもらいに行ったり、洗濯には近くの玉川上水や新堀用水の水を使ったりしてしのいだ。深い玉川上水に綱のついたバケツを下げてくみ上げるときの苦労を語る女性もいた。小平の地下水は深いところにしかないのを知らない人が掘ったのではないかともいわれた。
  中宿では浅井戸三二井が掘られたが、これも地下水が深くてほとんど使いものにならなかった。いち早く自治会が結成され、対策が練られた結果、隣接する厚生省職業訓練所(前東部国民勤労訓練所・現東京職業能力開発短期大学校)の深井戸から水を運ぶことになった。人手による根気のいる作業だった。その後関係者の好意で中宿住宅の中央部まで一本の給水管が延長されて共同水栓が設置された。しかし、その後も居住者は増える一方で、この共同水栓だけでは賄い切れなくなった。そこで、自治会より広い組織の中宿居住者組合で水対策を検討、坂北の旧兵器補給廠小平分廠の給水施設を利用したらどうかということになった。早速坂北、本町、旭町地区の代表者の賛同を取りつけ、小川中宿居住者組合と坂北生活協同組合の名で大蔵省東京財務局に使用許可の申請がされる。昭和二四年(一九四九)八月に許可が下り、それを受けて各地区の代表者によって給水事業計画が練られた。このとき「小川給水組合」として発足できるよう努力を重ねたが、施設費用などの負担問題で組合の結成には至らず「小川給水組合」の名目で実質経営は各地区代表者(発起人)が当たることとなった。そして昭和二八(一九五三)に関係自治会長を中心に協議した結果、「小川給水組合」を発展的に解消し、新たに「小川水利協会」を結成、翌年一月から新しい機構で運営することになった。(付図は略)
  給水人口は一九九〇人、一日最大給水量五〇〇立方メートルであった。
  しかし水道事業の重要性を考えると、任意団体の運営では住民の福祉向上を図るには困難な点が多い。役員会議でも水道施設を町に移管し、町営水道として経営するのがよいとの意見の一致をみて、その体制の整備を念頭におきながらの経営となった。また小平町のほうでも大蔵省から、水源施設を民間の任意団体に貸与するのは好ましくないので、早く町営にするようにと指摘されていた。
     (大日本印刷株式会社CDC事業部年史センター編 『小平市三〇年史』 1994  329〜331ページ)
 

 

 

 「昭和一七年(一九四二)に開所された東部国民勤労訓練所を始めとする公共施設(陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠など)は大きな力で、それに必要で十分な深井戸による自家水道を設けた」とある。「大きな力」を背景として「必要で十分な深井戸による自家水道を設け」ることをなし得た「公共施設」として、東部国民勤労訓練所と陸軍経理学校、陸軍兵器補給廠小平分廠が示されているが、その背後にあった「大きな力」とは厚生省であり帝國陸軍である。そもそも厚生省は陸軍の要求により設置されたものであることを考えれば、ここでの「大きな力」を「軍」として理解することも出来る。

 『小平市三〇年史』には、「大正一四年(一九二五)ごろから分譲が始まった小平学園地区には、分譲元の箱根土地株式会社(昭和一九年国土計画興業株式会社と商号変更)が造った水道があった。水源は深井戸である」との記述があることも見落とさないでおきたい。民間の開発事業者の「力」もまた、「深井戸」を「水源」とした「水道」を実現していた(「小平簡易水道」と呼ばれていた)のである。

 昭和10年代の小平地域には、公共インフラとしての(すなわち村営あるいは町営の)「水道」は存在しなかった。

 

 

  市では予想を超える人口増加に伴い、市制施行直後の昭和三七年(一九六二)一一月に全市水道構想を見直し、水道事業変更認可申請を厚生大臣に提出した。すなわち昭和三八年度から実施する給水区域を拡大、市域のうち小平簡易水道区域を除く区域とするもので、昭和四四年度の給水目標人口を六万人と設定、一日最大給水量を一万九二〇〇立方メートルとし、深井戸一三井と浄水場を一か所建設するという計画であった。
  一方、これまで学園西町と学園東町を給水区域として経営してきた小平簡易水道(国土計画株式会社)は、昭和四〇年(一九六五)一月三一日までという期限付で東京都知事の許可を受けて行われたため、当然、期限が来ると市への移管となるべきもので、水道法により公営事業の経営主体は地方公共団体がなすべき事柄であった。
  その上、簡易水道の給水区域の学園西町、学園東町は人口の急増地域でもあり、その施設の老朽化に伴い、住民側から市営統合を望む声が次第に大きくなり、昭和四〇年二月一日市営水道への移管が実現、ここに全市域が市営となった。同年度末の行政人口は一〇万八九四九人、給水人口は三万八五〇四人で、普及率をみると三五・三%であり、今日の一〇〇%と比較すると隔世の感がある。この三八年度から開始された水道拡張事業は、後に第一次拡張事業と名付けられた。
     (『小平市三〇年史』  575ページ)
 

 

 

 小川水利協会の給水施設(そもそもは軍の「大きな力」による施設である)は町営水道に統合され、国土計画株式会社の小平簡易水道(民間土地開発事業者の大きな力による施設である)が市営水道に統合されたのは昭和40年になってのことだったが、その時点での市内の水道普及率は35・5%にとどまっていた。もちろん、そこには戦後の小平地域での人口の急増という背景があることも確かではある。しかしいずれにせよ、昭和10年代の軍関連施設の給水設備が戦後小平の町営水道のルーツとなり、それに先立つものとして箱根土地株式会社による小平学園開発の際の小平簡易水道があった。

 

 

 ところで、矢嶋仁吉氏の論文では、小平学園地区の開発について以下のように記されている。

 

 

  尚、本地域の南部の一部に、碁盤目状の地割を施した所がある。この地域は同村の一部に過ぎぬもので、前述の如く、商大予科の校舎設定後、土地会社の手によって、区画された地域である。その計画では、商科大学予科の校舎を中心とし、その周囲に住宅地、焦点地域を区画し、国分寺駅より主要道路を設け碁盤型の3間道路を縦横に通じて、田園都市化せんとしたところである。そのため、新田開発当初よりの短冊形の地割は一部崩壊し、従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実である。かかる例は省線国立駅の南方、商科大学の校舎附近に於ても見るところであって、井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様である。本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要であろう。
     (
矢嶋仁吉 「武藏野小平村に於ける新田聚落の研究」 『地理学評論 11』 1939  24ページ)

 

  

 矢嶋氏は論文執筆当時の小平学園地区について、「従来の畑地に若干文化住宅の建設もあるが、未だ著しい発達を見ない。東京の都心地域より約1時間を以てして到達し得るところでありながら、その発達の見るべきもののない」とその開発状況を記し、その理由として最大の制約は前述の飲料水採取の不便という事実」だと主張している。同じ箱根土地株式会社による国立の学園都市計画についても「井然と区画された道路住宅予定地もほとんど省みられぬ有様」との評価を示しながら、「本地域に居住地域を発展せしめんには、先ず第一にかかる不便の除去が必須条件であって、例えば、埼玉県の所沢駅附近に於ける如く、動力による簡易水道の如き施設をなすか、その他の方法によって上水施設の完成を図ることが必要」との判断を加えている。

 しかし、実際には小平学園都市計画の下で、「土地会社」は小平簡易水道を用意していたし、国立学園都市においても、その計画の当初から、インフラとしての給水システムの整備は織り込まれていたのである。

 

 小平簡易水道については、「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (7)」をまとめていた時点で、『水道事業概要 昭和58年』(小平市水道業務課・工務課 1983)中に言及があるのには気付いていた。そこで早速、「小平簡易水道」をネット検索したのだが、一件もヒットしない状況であった(言うまでもない話だが、「一件もヒットしない」ことは、ある事実が存在しないことを意味するのではなく、まだ誰もその事実についてネット上にアップしていないことを意味するという可能性も考えねばならない)。小平市水道業務課・工務課による『水道事業概要』にある以上、その存在を疑う必要は感じなかったが、『水道事業概要』の記述からだけでは、小平簡易水道の設置年代が判然とせず、矢嶋論文執筆時点での給水システムの実状はわからなかった。今回、あらためて『小平市三〇年史』の記述を通して、矢嶋氏の認識に不正確なところがあったことが判明した次第である。

 

 












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