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軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11−1)

2018/09/23 15:27




 「軍産複合地域としての昭和十年代多摩」と題して、昭和10年代の多摩武蔵野地域の軍産複合地帯化状況について記してきた(カテゴリー「多摩武蔵野軍産複合地帯」記事参照)。

 特に「武蔵野」の名を冠する武蔵野美術大学所在地である小平地域に焦点を当てることで、総力戦下でこその軍施設の様相、軍施設設置がもたらす軍施設関係者のための集団住宅建設の必要性、軍施設及び集団住宅への水源確保に際して機能した「大きな力」としての軍の姿も再確認することが出来た。前回は食糧増産を求められる農家と集団住宅住民の育児支援のための託児所の設置にも触れたが、これもまた総力戦状況が生み出したものであった。

 

 今回は、戦時期の小平地域の景観の変化について記してみたい。もちろん、軍施設の進出、それに伴う集団住宅建設自体、それまでの農地と山林で構成された地域景観を大きく変えるものであった。

 今回は、「こだいら 水と緑の会」による『用水路 昔語り』と題された聞き書き集(2016)から、戦時期における青梅街道の景観の変化―木材供出による欅並木の伐採―について確かめることとしたい。

 

 

 まず、関連した証言を(気付いた限りではあるが)抜き書きしてみよう(太字化は引用者によるもの)。

 

 

馬場:草はどうですか、昔はこんなのが生えていたとか。
荒井:大体同じだけど洋物が増えたね。日本タンポポは無くなった。藪、昔は竹藪が沢山あった。真竹が随分あったけど今は殆ど無いね。
馬場:伐採ですか?
荒井:いや、自然に枯れた。「竹は百年に一度花が咲いたら終わり」と言うが、本当に花咲いてそれで終わりだったね。植物が無くなったから環境も悪くなったって言えるよ。だって昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。
馬場:燃料として切られたんですか?
荒井:いや船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。それだけだってえらく環境が違っちゃったのよ。子供の頃はクーラーもないから夏は木陰で涼んだもんだが。
馬場:交通量なんかはどうですか?
荒井:昔はめったに車が通らなかった。道路にしゃがんで話していて、車が来たらどくかって感じね。戦後の変り様は凄いね。
馬場:青梅街道の道幅は変わりないですか?
荒井:それは全く変わらない。昔っからこの幅。幹線道路だったけど、舗装されてたのは本の真ん中だけ。周りは砂利で草も生えてた。特に六番、七番の所は広いんです。あそこは馬の継ぎ場だったから。
馬場:馬の中継ぎ場というと何か特別なものがあったんですか?
荒井:青梅から馬で石灰を運んできて、そこで馬を替えるわけですよ。だから道幅が広くて、馬に水飲ませるために真ん中に川が流れていたって聞いてます。多分全て幕府が管理してたんだろうね。
     (『用水路 昔語り』 8〜9ページ)
     話し手:荒井利喜夫(昭五生 小川町)  
     聞き手:馬場淑子

 

 

馬場:青梅街道も随分と変わりましたでしょう。昔は欅のトンネルだったとか。
関根:そうです。欅もだけど、裏にはずーっと竹林があった、真竹のね。一斉に花咲いて全滅ね。「竹は百年に一度花をつけて枯れる。」って言うけど本当ね。林は防風のためでもあった。冬は土埃で空が真っ赤になるくらいだったからね。子供の頃、舗装されたばかりだったかな。
馬場:この辺りは道幅が狭いですよね。
関根:そうね、この少し先の辺りから細いね。
馬場:子供の頃の交通機関は何を?
関根:人は徒歩か、自転車が少し。多摩湖線と西武新宿線はあったよ。でも一時間に一本くらいかな。
     (『用水路 昔語り』 10ページ)
     話し手:関根初男(昭十三生 仲町)

 

 

馬場:子供の頃は青梅街道沿いに欅もたくさんありましたか?
小柳:欅のトンネルでした。春になると完全にトンネルになってました。保存樹林がその面影をとどめてるけどね。ここから八番まで、踏切のこっちまではそうでした。戦争中に船材として切られたという話は聞いたことがあります。
馬場:竹藪はどうでした?
小柳:竹藪もずっとありましたね。屋敷の裏が竹藪でね。竹藪と畑の間に細い道があるんですよ。そこを通って第一中に通ってました。花咲かせ竹が枯れたという話は聞いた。
 中学の時青梅街道は砂利でね。土埃が凄かった。車が来るともうもうとして辛かったね。逆に雪が降ると膝の所まで積もってね、弟達を学校に行かせるのに雪掻きしたね,三十cmくらいあったかね。
     (『用水路 昔語り』 13ページ)
     話し手:小柳忠男 (昭十二生 小川東)

 

 

馬場:かなり大きな家ですものね。
田中:大正七年に、屋敷森の欅を切って建てたんですよ。材料は周りの木を切って、大黒柱は欅でね。
馬場:昔の青梅街道は欅のトンネルだったと聞いています。
田中:そうです、欅のトンネルでした。夜はフクロウが鳴いてたし、子供の頃は兎がいたからね。だって大正十四年に一反歩を九百円で売買し油ようとしたら、不景気で五百五十円になったって聞いてます。そういう時代でしたからね。
     (『用水路 昔語り』 21ページ)
     話し手:田中次男(大五生 小川町)

 

 

馬場:子供の頃この辺りはどんなでした?
浅見:畑ばっか、家は無かったね。道も砂利で真ん中だけアスファルト舗装してあって、側溝が付いてたね。欅はこんもりと繁って緑のトンネルよ。屋敷森があって家があって、畑が玉川上水のとこまであるの。その頃の川は防火用水としての意味合いが強かったね。井戸あったし、幅も今より広くて七十cm位ありましたよ。よく盥を浮かべて舟ごっこして遊んだもの。広かったし水も多かった。
     (『用水路 昔語り』 39ページ)
     話し手:浅見清子(昭六生 小川町)

 

 

馬場:戦争と言えば、昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね?
岩淵:そう、もう両脇に欅が聳えていてね、本当にずっと緑のトンネルだった。その下がヒイラギの垣根ね。夜なんか真っ暗。
馬場:その欅が戦時中供出で切られてしまったと聞いてます。
岩淵:枝下のある欅は皆切られたね。それからどこの家にも「伝次丸」って柿の木があったね。何代も前からあったようで、今は家のも無いけどね、新田だった三百年続いてるわけだから、きっとずっと昔に植えたもんだったんだろうね。
 家は皆藁屋根、東向き。うちは昭和三十三年に茅の丸葺きにしたんですが、他の所は藁の上にトタン被せちゃったりしてね、そのうちにはポチポチ建て替えになってね。
     (『用水路 昔語り』 48ページ)
     話し手:岩淵ヨシ子(昭四生 天神町)

   【枝下】 樹木の最も下の枝から地表までの長さ(『広辞苑』)

 

 

金豊:うちは高台で隣と三尺も違うから、そういうの利用して水車も回したんだろうね。ここは昔から「坂」って呼ばれてました。「坂」って位だから一番高かったんでしょうね。親戚も「坂のうち」ってね。三里四方、四里四方行ったって家の欅見えたから、昔だから高層住宅なんて無かったからね。
馬場:その欅も目立ったでしょうね。
金桃:いっぱいあったんですよ。戦争中全部供出させられて、これ一本きり残ったんです。
金豊:船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。
金桃:そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。
金豊:みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。
     (『用水路 昔語り』 80ページ)
     話し手:金子豊(大六生 小川町)
          金子桃代(大十生 小川町)

 

 

馬場:昔は青梅街道は緑のトンネルだったそうですね。
金子:夜は真っ暗になりましてね、街灯ついてなかったし、本当に真っ暗。道の真ん中にアスファルトがあって、あとは砂利でね、掘があって、のどかでしたね。秋になると農家の人が道の所で色々干すんですよ、筵で。大根の切り干しとか、昔は車もそんなに通らないしね、幅は昔からこのままですから。
     (『用水路 昔語り』 98ページ)
     話し手:金子光子(昭十一生 小川町)

 

 

馬場:青梅街道には昔雨水を流すための側溝がありました?
清水:道路のはじと家の前に少し溝があって、ほんの小さい橋が掛かってましたね。多分細い、何の囲いもないから、そこが崩れていたり、ちょっと澱んでいたりしてましたね。
馬場:その青梅街道は緑のトンネルだったとか?
清水:昔、私が子供の時分には道路の両側から大きな樹が植わってますから、樹が生い茂って、夜なんか本当に真っ暗で、鼻つままれても分からない位でしたよ。特に私の実家はお寺さんが側だから、夜なんて一人で歩くと、駆けると誰か後ろから追っかけて来るような気がして怖かったですよ。ここに来てからも、家の周りにカシの木あったり、隣りにも大きな木あって、庭は真っ暗と言ってもいい位ですね。
馬場:青梅街道には街灯はなかったのですか?
清水:うーん、子供の頃実家からここに用事で行かされた時も、真っ暗な中をとことこ歩いたような記憶しかないですね。昔は今と違うから。自転車の乗り方なんかも青梅街道でやりましたからね。車もめったに来ないから。
     (『用水路 昔語り』 103ページ)
     話し手:清水恵美子(大十五生 小川町)

 

 

角:欅は大きくなるのが早いですか?
小川:早いですよ。この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。
     (『用水路 昔語り』 139ページ)
     話し手:小川善一(大十生 学園東町)
     聞き手:角早桐

 

 

馬淑:小平の方でも巨木とか雑木林とかありますが・・・。
村野:青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。
馬淑:ヒイラギを植えるというのは何か意味があった?
村野:別にないけど、まぁ、刺があって垣根代わりになったんじゃないでしょうか。
須賀:結構密集してますよね。
村野:結構丈夫な木なんですよ。
馬政:小平の竹内家の大欅はご存じですか?市の天然記念物ですが。
村野:小平の欅ってのは全国的に有名なんですよ。地に合っていてね、「曲がっている苗木が、ここでは伸びると真っ直ぐになる。」って話あるんです。
馬政:緑のトンネルと言われてますよね、昔の青梅街道はどんな具合でしたか?
村野:家の前に欅伸びてるでしょ、あれが両側にあると思って下さい。
須賀:竹内家の大欅は目印だったって聞いてます。それを見ると、この辺りは小平だって。
村野:そうでしょうね。東村山に行くと万年欅って言うのがありますね。あと有名なのは府中の大国魂神社の欅。八万太郎義家が植えたというやつです。
     (『用水路 昔語り』 159〜160ページ)
     話し手:村野啓一郎(昭六生 久留米市柳窪)
     聞き手:馬場淑子
         須賀美佐子
         馬場政孝

 

 

 以下の言葉を読むことで、全体像もつかめるだろう。

 

 

  青梅街道沿いにはずっと欅の並木があったんですよ。ある時ぱっと切っちゃいましたが。当時覚えていますけど、大きな欅の並木があり下にはヒイラギの垣根があったんですよ。道も勿論舗装もしていなくて、いい雰囲気だったんです。

  この辺は大きい欅がいっぱいあったんです。防風林になるし、落ち葉は出るし六十年周期で製材所に売ってたんです。船材とか電柱に使ったんです。戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった。

  昔はこの青梅街道は欅のトンネルだったんだよ。竹内さんとこにはちょこっと残ってるけど、もうずーとあんな感じでトンネルだった。子供の頃から戦争中までね。

  船材として全部供出ですよ。大きいのから強制的に切られた。それで無くなっちゃったんだ。

  船材にされちゃったんだね。昔はこの青梅街道沿いにずっと欅があったんだけど、陸軍大臣の代理の人が来て、管理して切ったんだよ。

  そしたら持っていかないうちに終戦になっちゃってね。

  みんなデカイ欅でね、それ全部切っちゃったからね、それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ、まったく悲しいよね。

 

 

 「昔はこの青梅街道は欅のトンネルだった」ものが、「戦中、終わる頃に供出で全部切られてしまった」、そしてそれは「船材として全部供出・船材にされちゃった」もので、しかも「それを利用する前に終戦でしょ、倒しっぱなしですよ。それを今度は業者が来て、細かく切っちゃったんだ」という「まったく悲しい」顛末として、古くからの住民には記憶されていたのである。

 

 

 この聞き書きには「戦中、終わる頃」とあるだけで、年代の詳細はわからない。探せば、当時の公文書も見つかるものと期待するが、今回はそこまでは踏み込まない。

 しかし、「船材として全部供出・船材にされちゃった」とあることから、戦時期の船舶建造政策との対応関係を確認することで、年代の推定も可能ではないかと思う。

 

 

 

 神戸大学附属図書館が電子データ化した「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 造船業」の中に、「木造船急速増強 きょう建造緊急方策発表」と題された大阪朝日新聞記事がある(1943(昭和18)年1月21日付)。

 

 

 木造船急速増強
 きょう建造緊急方策発表

大東亜戦争の長期化に伴いますます深刻化する船腹戦争の事態に対処し、海上輸送力の積極的増強をはかることは緊急焦眉の国家的課題であり、政府はこれがため夙に鋼船による計画造船と並行して鉄鋼資材関係より簡易な設備をもって、しかも急速に建造され得る木造船の増強をはかるべくかねて木造船戦時標準船型の制定、木造船別の企業合同などの措置をとってきたが時局の緊迫にかんがみ昭和十八年度において木造船の飛躍的増大を目途とする「木造船建造緊急方策要綱」が二十日閣議決定をみた、右要綱中とくに注目すべきは

(一)造船統制会傘下の軍管理以外の主要造船、造機工場および新設工場を逓信省において管理
(二)木船建造促進に関する主要事項の審議機関として木船建造促進委員会(仮称)を逓信省に新設
(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する
(四)豊富な木材資源を擁する大東亜地域の木造船工場を全面的に活用する

など時局の新段階を反映した英断的措置を決定した諸点であるが、右のほかすでに実施されつつある措置には

(一)木造貨物船型の五種より三種への整理とともに大型木船の建造促進のため三百トンおよび五百トンの木鉄交造船の試作
(二)造船造機施設の拡充のためには既存施設の統合整備および主として産業設備営団による新設整備のほか現存の不急または遊休産業施設の転換利用のためには例えば自動車工場のごときが造機工場に転換することも可能となる
(三)資材、労務の確保についても物動その他において割当を確保し優先的入手のために各般の措置を講ずる

などであり、本要綱の目標達成のためには政府のみならず関係業者はじめ一般国民の絶大なる理解と協力が要請されねばならぬ

木造船建造緊急方策要綱(情報局発表)

一、建造目標 昭和十八年度における木造船建造目標(外地、満洲、支那および南方諸地域を除く)は昭和十七年度に比し画期的増大を期す
二、船型 (イ)木造貨物船の船型は極力これを整理するとともに大型木船の建造を可能ならしむるごとく措置す
(ロ)戦時標準船型をさらに簡易化するため各般の措置を講ず
三、造船および造機施設の拡充
(イ)既設の造船および造機施設を統合整備するとともに資材、労務などの立地条件を考慮し、所要数の造船および造機工場を新設し所要生産量を確保す
(ロ)造船および造機施設の拡充にあたりては関係各官庁協力のもとに現存施設の転換、利用などの措置を講ず
(ハ)造船、造機施設の整備ならびに新設は必要に応じ産業設備営団をしてこれに当らしむるとともに右施設は営団よりこれを政府の指定するものに譲渡し、貸附または出資せしむるごとく措置す
四、造船および造機施設の管理 主要既設工場(造船統制会に属するもの)にして軍の管理に属せざるものおよび新設工場は逓信省においてこれを管理す
五、資材の確保 木船建造用ならびに施設拡充用の資材、動力、機械、器具類などの割当は物資動員計画および電力動員計画において極力これを確保するとともに、これが優先的入手については関係各庁協力のもとに各般の措置を講ず
六、労務の確保 右計画遂行に必要なる労務者は造船および造機施設の拡充に伴い逐次これが充足を行うものとす
七、大東亜地域における木造船工場の活用 大東亜地域における木材資源豊富なる地の造船工場に機関、□装品などを供給し、かつ技術上の援助を供与し、計画造船の一環としてこれを全面的に活用するため関係各庁協議のうえ速かに具体策を決定し、即時実行に着手す
八、木船建造促進委員会(仮称)の設置 木船建造促進に関する重要事項を審議するため逓信省に木船建造促進委員会(仮称)を設く
九、木船建造促進に対する挙国的協力措置 木船建造の促進に関しては関係各官庁は緊密なる連繋協力のもとにそれぞれその所管事務の迅速処理をはかるとともに政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す

 

 

この記事中にある、「(三)木材確保のために政府の国有林供出とともに翼賛会等による全国的な木造船用木材供出の国民運動を展開しその運搬についても地元の勤労奉仕を期待する」、そして「政府はとくに国有林材を供出し、かつ大政翼賛会などをして全国的に木船建造用木材供出国民運動を展開せしむるとともに木材その他の資材の搬出、工場の新設などについては青、壮年団、在郷軍人会などをして奉公的協力をなさしむるごとく措置す」との「木造船建造緊急方策要綱」の方針こそが、戦時期小平地域での青梅街道の欅並木の運命の背景であろう。

 

 

 実際、小平地域だけの問題ではなかった。












Tags: なし
Binder: 現代史のトラウマ(日記数:696/全体に公開)
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最新コメント

  • Comment : 1
    umasica :桜里
     2018/09/23 16:39
    今回も字数制限の関係で分割掲載。
    「軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11−2)」に続く。

  • Comment : 2
    umasica :桜里
     2018/09/23 22:31
    三回の記事を一本にして、加筆修正の上、
    ココログ版の「現代史のトラウマ」記事としてもアップ。


     軍産複合地域としての昭和十年代多摩 (11)
     http://uma-sica.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-152e.html

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