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高屋窓秋の「白い夏野」(八〜十)

投稿者:nangouanさん  2008/06/03 15:14  MLNo.1165   [メール表示]

高屋窓秋の「白い夏野」(八)



○ある朝の大きな街に雪ふれる
○朝餉とる部屋のまわりに雪がふる
○山恋わぬわれに愉しく雪がふる
○降る雪が川の中にもふり昏れぬ

この五句目の句についても、石田波郷の鑑賞文がある(『俳句講座六』)。

☆これも雪の連作だが、雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる。朝から夕べに至る時間的順序をふんでいるだけである。もちろん連作を考える必要はない。単独で秀れた句である。雪がしんしんと降りつつ次第に夕ぐれかかっている。その雪は川の中にもふり昏れている。どこと限定しない降雪を、しぼるように川の中にしぼってくるテクニックというか、感覚的な誘いというか、窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである。

 この波郷の、「窓秋がすぐれた詩人の目と手をもっていることを証するものである」という指摘は、これらの句だけではなく、窓秋の処女句集『白い夏野』の全般にわたって、このような感慨にとらわれてくる。そして、窓秋の句作りというのは、この波郷の、「雪のふる一日の身辺をかなり随意に写実的に詠んでいる」の指摘のように、「ある一日の身辺」を、「一句一句製図でもひくように」創作しているという感慨を深くする。詩人と俳人という違いはあるけれども、窓秋と道造との資質やその創作姿勢は極めて近似値にあるという思いを深くする。そして、例えば、道造の次の詩に、窓秋の掲出の四句目の句を添えると、道造と窓秋の唱和を聴く思いがするのである。

浅き春に寄せて(立原道造)
 
今は 二月 たつたそれだけ
あたりには もう春がきこえてゐる
だけれども たつたそれだけ
 
昔むかしの 約束はもうのこらない
今は 二月 たつた一度だけ
夢のなかに ささやいて ひとはゐない
だけれども たつた一度だけ
 
そのひとは 私のために ほほゑんだ
さう! 花は またひらくであらう
さうして鳥は かはらずに啼いて
 
人びとは春のなかに笑みかはすであらう
今は 二月 雪に面(おも)につづいた
私の みだれた足跡……それだけ
たつたそれだけ――私には……

―― 降る雪が川の中にもふり昏れぬ(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(九)

夜の庭

○菊の花月あわくさし数えあかぬ
○月に照る木の葉に顔をよせている
○月光をふめば遠くに土応う
○月あかり月のひかりは地にうける

夜の庭で

○月夜ふけ黄菊はまるく浮びたる
○菊の花月射しその葉枯れている
○月光はあたゝかく見え霜ひゆる
○虻いまはひかり輝きねむれるか

 掲出の「夜の庭」の四句と「夜の庭で」の四句とで、窓秋が何故これらを別々の題のもとにまとめられたのか、その意図は分からない。これらのことには直接は触れていないのだが、石田波郷は、掲出の「夜の庭」の三句目について、窓秋・窓秋俳句を知る上で極めて示唆の含む次のような鑑賞文を残している(『俳句講座六』)。

☆「夜の庭」と題された連作の一句。月光に冷えてピンとはった空気が感じられる。月光をふむと、遠くで土が応える。この句はたしかに俳句でない条件はなにもないが、俳句であるままに短詩である。窓秋はもはやその異質が、『馬酔木』にいることに耐えないようになりつつあった。俳句と訣別するという遺志を示しさえしていたが、むしろ『馬酔木』を去るためのポーズだったようだ。彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよいのである。彼の句の対象をひろってみると興味ふかい。雪と月と花が極めて多いのである。花鳥諷詠を否定しようとする新興派の中で、彼はあえて雪月花を詠もうしたのか。否、彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである。

 この波郷の、「彼は俳句を作りながらすでに俳句と訣別していたといってもよい」という指摘は重みのあるものとの感を深くする。また、「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていないのである」という指摘も、これまた、波郷ならではの鋭い視点という感を深くする。
 この波郷の鑑賞文に接した後で、掲出の「夜の庭」(四句)と「夜の庭で」(四句)に接すると、窓秋は、前者で、「夜の庭」そのものを創作の対象に、そして、後者で、「夜の庭で」前者と同じ素材を作句していると、両者の違いを、例えば、前者を「主観的」に、後者は「客観的」にと、その創作姿勢を明確に別なものにものとして創作していることに気づかさせられる。そして、これらのことに、波郷の言葉を重ねあわせると、前者の「夜の庭」は、より「短詩」的に、そして、後者の「夜の庭で」は、より「俳句」的な、創作姿勢とはいえないであろうか。と同時に、これらの何れの立場においても、波郷のいう「彼の詠む雪や月や花には、伝統的な和歌や俳句の句は少しもついていない」ということは、窓秋が明確に、例えば、芭蕉や虚子の「俳諧・俳句」の世界と別次元での短詩形世界を模索していたということを語りかけてくれるように思われるのである。
 ここでも、立原道造のソネットの詩に、窓秋の一句を添えてみたい。

またある夜に(立原道造)

私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを
投箭(なげや)のやうにかすめ 私らをつつむであらう
灰の帷(とばり)のやうに

私らは別れるであらう 知ることもなしに
知られることもなく あの出会つた
雲のやうに 私らは忘れるであらう
水脈(みを)のやうに

その道は銀の道 私らは行くであらう
ひとりはなれ……(ひとりはひとりを
夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう 昔おもふ
月のかがみはあのよるをうつしてゐると
私らはただそれをくりかへすであらう

―― 月あかり月のひかりは地にうける(高屋窓秋)

高屋窓秋の「白い夏野」(十)

北へ

○海黒くひとつ船ゆく影の凍(し)み
○北の空北海の冷え涯ぞなき
○日空なく飢氷寒の逼(せま)るとき
○氷る島或る日は凪ぎて横たわり
○夜寒い船泊(は)つ瀬凍り泣き

 掲出の一句目について、石田波郷の鑑賞文は次のとおりである(『俳句講座六』)。

☆連作「北へ」の第一句。初期の連作は、外面的には写実的に見えているが、この頃になると、もう完全に抽象的であり、想念の造型である。私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である。窓秋は昭和十年、予定より早く『馬酔木』を去って沈黙した。しかし彼は十七字の詩形を捨てはしなかった。昭和十二年三月、彼には、河・葬式・老衰・記録・嬰児・少女・都会・一夜・回想など、九編約四十句の句を書き下ろし、句集『河』を出版した。『馬酔木』離脱以後、その胸中に構想していたものを一気に吐き出したもので、抒情者から批判者に転進している。しかし批判者となると、その抽象性は灰色で弱いことを覆い得ないように思う。しかも窓秋はさらにこの句集をのこして満州に渡り、再び抽象の抒情者となるのである。

 ここに、窓秋の第一句集『夏野』の全てが集約されている。また、窓秋が何故秋桜子の主宰する『馬酔木』を去ったかの、その真相をも語り掛けてくれている。波郷をして、「私など素朴なレアリズムしか方法を知らない者にとっては、窓秋俳句はこの句あたりが理解の限界である」と言わしめたほどに、もはや、この窓秋の処女句集の『白い夏野』の後半の頃になると、完全に「馬酔木」調を脱していて、そして、それは、波郷の言うところの、「完全に抽象的であり、想念の造型である」という異次元の世界に突入していったのである。そして、それは、同時に、二十四歳の若さで夭逝した詩人・立原道造らの世界の「若々しい希望と若々しい愛とそれらを追い求め続ける夢」との、その窓秋の青春の世界との訣別をも意味するものであった。そして、道造の詩が、瑞々しい青春の詩として、今になお、人の心の琴線に触れて止まないように、窓秋の『白い夏野』の句も、青春の詠唱として、今になお、愛唱され続けているのであろう。


はじめてのものに  立原道造

ささやかな地異は そのかたみに
灰をふらした この村に ひとしきり
灰はかなしい追憶のやうに 音立てて
樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた

その夜 月は明(あか)かつたが 私はひとと
窓に凭(もた)れて語りあつた(その窓からは山の姿が見えた)
部屋の隅々に 峡谷のやうに 光と
よくひびく笑ひ声が溢れてゐた

――人の心を知ることは……人の心とは……
私は そのひとが蛾を追ふ手つきを あれは蛾を
把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた

いかな日にみねに灰の煙の立ち初(そ)めたか
火の山の物語と……また幾夜さかは 果して夢に
その夜習つたエリーザベトの物語を織つた

―― 風吹けり林うるおい蛾の飛ぶ夜   高屋窓秋


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