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尾崎放哉の俳句(その五)

投稿者:nangouanさん  2012/01/13 10:08  MLNo.1226   [メール表示]

(その五)

小豆島・南郷庵時代の作品(その一)

眼の前魚がとんで見せる島の夕陽に来て居る
西瓜の青さごろごろとみて庵に入る
町の盆燈ろうたくさん見て船に乗る
島の小娘にお給仕されている
漬物石になりすましは墓のかけである
すばらしい乳房だ蚊が居る
足のうら洗へば白くなる
海が少し見える小さい窓一つもつ
とんぼが淋しい机にとまりに来てくれた
井戸のほとりがぬれて居る夕風
自分をなくしてしまって探して居る
一日風ふく松よお遍路の鈴が来る
白々あけて来る生きていた
蜥蜴の切れた尾がはねている太陽
木槿一日うなづいて居て暮れた
道をおしえてくれる煙管から煙が出ている
朝靄豚が出て来る人が出て来る
迷って来たまんまの犬で居る
夕靄溜まらせて塩浜人居る
障子あけて置く海も暮れ来る
大晦日暮れた掛け取りも来てくれぬ
元日の灯の家内中の顔がある
風にふかれ信心申して居る
淋しい寝る本がない
雀等いちどきにいんでしまった
いれものがない両手でうける     (「尾崎放哉記念館」収載句)

 この末尾の「いれものがない両手でうける」の句は、放哉の傑作句の一句とさ
れ、しばしば例句としてとり上げられる。しかし、それはあくまでも、定型律俳句
のそれではなく、自由律俳句のそれとして、とり上げられ、鑑賞されるのが常であ
った(仁平勝著『俳句が文学になるとき』)。

 しかし、この句は、「いれものがない /  両手でうける」と、まさに、「七・
七」の、連句の短句(七七句)、さらに言えば、川柳でその例を多く見る「十四
字」の世界そのもののようにも思えるのである。そして、問題はここからなのであ
る。この放哉の句は、それらの「七七句・十四字」の「定型律」の世界のそれでは
なく、すなわち、平畑静塔の言葉を借りてするならば、「十七字」あるいは「十四
字」という、定型が本来有している「曲譜」に因らず、その「曲譜」を拒否して、
「いれものがない」状態にしておいて、「両手でうける」と、「己の肉体」をあた
かも、いわゆる「曲譜」・「いれもの」・「うつわ」・「型」として、そこに、あ
たかも、「定型」の「影」のような「不実の世界」を現出して、それを「パントマ
イム」のように、無言で演じきっているように思えるのである。

 これは、容易ならざることである。「己の肉体を責めに責め、極限状態にしなけ
れば、この緊張状態は生まれてこない」。 そして、井泉水、放哉、山頭火、はた
また、橋本夢道、さらに降って、住宅謙信らの、いわゆる「自由律俳句」の傑作句
とされているものには、この「己の肉体を責めに責め、その極限状態のような、緊
張関係の、張り詰めた」トーンというものを有している。これらのことからして、
「定型律俳句」の「定型」という、いわゆる「魔法の壺」によらずして、それと同
じような「俳句」という「世界」を「創造」・「創作」・「現出」・「作品化」し
ようとする、いわゆる「自由律俳句」に身を投じることは、それだけの覚悟と、そ
れだけの犠牲を強いられるということは、よくよく心しておくべきことなのであろ
う。


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