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尾崎放哉の俳句(その六)

投稿者:nangouanさん  2012/01/14 10:44  MLNo.1228   [メール表示]

(その七)

小豆島・南郷庵時代の作品(その二)

つきたての餅をもらって庵主であった
夜中の天井が落ちてこなんだ
お金ほしそうな顔して寒ン空
咳をしても一人
麦がすっかり蒔かれた庵のぐるり
ゆうべ底がぬけた柄杓で朝
庵の障子あけて小ざかな買ってる
とっぷり暮れて足を洗って居る
雀が背伸びして覗く庵だよ
これでもう外に動かないでも死なれる
いつも松風を屋根の上にいてねる
身近く夜更けのペンを置く
月夜の足が折れとる
墓のうらに廻る
夜釣りからあけてもどった小さい舟だ
枯れ枝ほきほき折るによし
貧乏して植木鉢並べている
仕事探して歩く町中歩く人ばかり
いつも机の下の一本足である
手の指のほねがやせ出したよ
肉がやせてくる太い骨である
やせたからだを窓に置きむせている
すっかり病人になって柳の糸が吹かれる
春の山のうしろから烟が出だした    (「尾崎放哉記念館」収載句)

 「自由律俳句」について、「言う(『言える』)詩形」、そして、「一行詩である」と解すると、「自由律俳句」は、いわゆる、「俳句」ではなく、「詩」ということになり、その創作者は、「俳人」ではなく、「詩人」ということになる。すなわち、尾崎放哉は、「詩人」ではあるが、「俳人」ではないということになる。しかし、尾崎放哉は、紛れもなく「俳人」であって、一般的に「詩人」といわれている人達とは一線を画していることは、自他共に認めるところのものであろう。これらことについて、上記の放哉作品のうち、その傑作句とされている、「咳をしても一人」を例えて、これは、「俳句」であり、決して、いわゆる、「一行詩」ではないということを論証すると次のとおりとなる。

 この「咳をしても一人」という、たったの「九字(音字)」は、この作者の放哉
が、「俳句(十七音字)」という詩形は、何も、「言わない(『言えない』)詩形」
であるということを熟知していて、さらに、短いものを意識して用いることによっ
て、「俳句」の本来的に有している「象徴性」というものを最大限に引き出してい
るということが察知されるのである。すなわち、尾崎放哉の、上記の作品群という
のは、何も「言わない(『言えない』)詩形」の、いわゆる、「俳句」の世界以外
の何ものでもない。さらに、日野草城の言葉でするならば、これらの作品群は、尾
崎放哉の「本音のつぶやき」であり、その「本音のつぶやき」が、象徴化され、そ
の象徴化されることにより、普遍性を帯びてきて、その普遍性が、例えば、上記の
作品群のうちの、「咳をしても一人」でするならば、放哉の、この作品を作るとき
の、「言葉で表現できないような孤独感・淋しさ」を、万言の重みをもって、こ
の「九字(音字)」に接する人達に語りかけてくるのである。

 これは、紛れもなく、「俳句」の世界のものなのである。ただ、一般的な、いわ
ゆる、「俳句」(十七音字の定型律)と異質のところは、その定型の意識を前提とし
て、その定型という「魔法の壺」を、その俳句創作の曲譜とすることなく、いわ
ば、「自己の肉体」を俳句創作の曲譜とすることによって、全く、その出来上がっ
たものは、定型という「魔法の壺」に因ったものと同じようなものを現出している
という、この奇妙な、不可思議な、いわば、「自由律俳句」という幻影のような世
界を、これらの作品群に接する人に強烈に語り掛けてくるということなのである。
これらのことについて、俳句評論家の仁平勝は、もっと割り切って、次のように表
現している。

「自由律俳句のリズムは、これは定型のバリエーションとしてみれば、字余りとい
うよりは破調の手法にあたる(井泉水の文章では「奇調」と呼ばれている)。ならば
自由律俳句は、その破調という定型の手法とどう違うのか。それは後者が、ちょう
ど伸びたバネのようにまた五七五に戻っていくのにたいして、前者はけっして五七
五の原型には戻らないということだ。つまり、自由律俳句とは、恒常化された破調
にほかならない」(仁平・前掲書)。

 これを一歩進めて、先の知人のメモでするならば、「俳句には、定型律俳句と自
由律俳句とがあり、さらに、定型律俳句には、表の『正調的俳句』と裏の『破調的
俳句』とがあり、さらに、その表と裏との『正調的俳句と破調的俳句』 との「影」
のような『奇調的俳句=恒常的破調の俳句』とがあり、この『奇調的俳句=恒常的
破調の俳句』が、いわゆる、放哉らの『自由律俳句』と呼ばれるものである」とい
うことにでもなるのであろうか。いずれにしろ、放哉の「自由律俳句」は、「言わ
ない・言えない詩形」の「俳句」の範疇のものであって、「言う・言える詩形」の
「一行詩」のものではないことは、上記の放哉の作品群からして明かなところであ
ろう。

(追記 井泉水・放哉らの「層雲」の自由律俳句は、「一行詩」であるとのニュアン
スが強いとの指摘もあるが、仁平の前掲書によれば、より「俳句」のニュアンスに
近いものとされている。知人のこれらに関するメモは、いわゆる「一句一章体」の
説明で、このメモにある「二句一章体」が「俳句」の基本であるのに比して、「自
由律俳句」はより多く一句一章体のものが多いということを言っているように思わ
れる。そして、放哉の句は、「「咳をしても一人」のように、一句一章体のものが
多い。さらに、この「一句一章体」・「二句一章体」は、芭蕉の言葉でするなら
ば、「取合わせ」論であって、ここからしても、こと、放哉のそれは、「一行詩」
ではなく、より「俳句」の世界のものであるということがいえよう。)

(ひかるさんへ)

「皐月句会」で、放哉のことを思い出して、他のサイトのものにアップしたものを、「昔、どんなことに関心があったのか」と、それには良い機会でした。
「また、おいおい、やっていきたいと思います」。





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