松下幸之助の研究

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30分で語る「エッセンス松下幸之助論」

投稿者: さん  2002/09/25 14:39  MLNo.1   [メール表示]

 熱田善男です。

 先日、地元・八千代市のロータリークラブから、30分の卓話で「松下幸之助」を
語ってくれと依頼をうけて、30分ではうまく喋れるかなあと心配もありましたが、
やってみました。満足できる結果だったので、記録をまとめてみました。

 PHP、"Peace and Happiness through Prosperity"のことで、「繁栄なしに
は、平和も幸福もない」という意味です。昭和21年(1946年/幸之助・51歳)、松下
幸之助は敗戦で荒廃した日本を憂慮してPHP研究所を設立して、翌年月刊「PH
P」を創刊します。この「PHP」誌は、今は1冊190円、駅の売店で必ず見かけ
ますが、150万部発行といわれているベストセラー・ロングセラー月刊誌です。こ
のPHP研究所は、幸之助が社会に向かって発言と行動をするために起こしたNPO
の器ですが、今では、出版事業教育事業など、企業としても大成功しています。
 PHPの本部は、東京は皇居のお濠ばたに近い三番町に、京都はJR京都駅の直ぐ
向かいにあります。過日、その京都のPHPを訪問しました。きれいな7階建てのビ
ルです。
 ビルの中の一隅に根源の社というのがありました。伊勢神宮に模した白木づくりの
小社です。幸之助の考えの大本に「根源」という思想があるのです。「宇宙根源の力
は、万物を存在せしめ、それらが生成発展する源泉ととなるものです」という。私は
新日鉄のOB、これを鉄にちなんで翻訳すると、「同じ鉄鉱石からつくっても、自動
車用の鉄板のようにプレスで加工できるやわらかい鉄から、鉄道のレールのように固
くて磨耗しにくいものまで、多種類の鉄をつくりわけることができるのですが、それ
は人間の力でできるのではなく、それは鉄が持っている根源にあり、人間はそれを引
き出しているだけである」となります。このように宇宙のあらゆるものに、根源とい
う自然の理法が備わっている。だからこの根源の力に感謝して祈念する、と、幸之助
はいいます。
 幸之助はここへ来たときは必ずお祈りをしてから、その日の仕事に取りかかった。
時間がある時は、ワラの円座に座り時間いっぱい瞑想をしていたのであった。

 もう一つ、たいへん印象に残ったのは、書庫です。この会場ぐらいの広い部屋に、
松下幸之助の書いた本、松下幸之助について書かれた本、資料、記録、テープ、C
D、等々、松下幸之助に関する全資料が、保存されているのです。それを見て、私
は、幸之助は、記録魔・保存魔だとおもいました。私の推測ですが、幸之助は、成功
の実績を積みながら、「これこそが経営のコツだ」、「これこそが人間の知恵だ」、
と、自信を持ちはじめたのではないだろうか。そして、ある段階からは、何かに啓示
を受けて、それを記録に残し始めたのだとおもう。「松下幸之助発言集」、これは戦
前戦後の記録類、それも一部をまとめたもので、死後発刊されたハードカバーの本
で、45巻、総額にして約16万円の膨大な資料です。この本のある巻に、昭和8年
(1933/38歳)から昭和16年(1941年/46歳)の約9年間、自社の朝会で発言した内
容が克明に再現されている。こんな内向きの日常のものは、強い思いがなければ絶対
に残せないとおもう。

 幸之助は「思わなあかん」と言います。こんなエピソードがあります。昭和40年
(1965年/70歳)、幸之助は「ダム経営」という考えを説きはじめます。外国の援助
で復興した日本の経済が高度成長を旗印に進んでいる時です。経営者として日本経済
や日本企業の実態を見るにつけ、「これは実力ではない、水膨れではないか、このま
までは、いつかはじけるのではないか」と危惧の念にかられます。
 このように、幸之助の先見性はずばぬけて凄いのですね。事実その水膨れが30年後
にはじけて、日本全体がいま苦しんでいることで実証されています。
 さて、「ダム経営」とは、「経営にもダムのゆとり」ということで、努力して実力
を蓄え、経営指標に余裕を持ち、経済の状況が悪くなっても耐えられるだけの力をつ
けようという意味です。この頃は、会長職にあった幸之助は、この考えを打ち出し
て、松下グループに聞かせるだけではなく広く日本の財界や企業にも広める活動をし
ていました。
 ある時、京都で、「ダム経営」の講演をしました。終わって質問に入ったところ、
広い会場の前の方で聞いていた中小企業の社長さんらしい方が、「ダムを持てればい
いのですが、どうすれば持てますかなあ」と、こんな趣旨の質問をしました。
 幸之助は、一瞬キョトンとします。「エッ、この人なぜこんな質問をするのだろう
か」と、意外そうな表情をして、立ち尽くした感じ、一瞬の沈黙が流れる。
 「そら、思わなあきまへんな」と、言ったそうです。その答えには、ノウハウを聞
き出したかったらしい質問者は不満な顔したようです。幸之助にすれば、自分の会社
のことだから、いちばん知っているのは、その社長さんだ。社長が思いさえすれば、
できるのではないだろうか。そんな気持ちだったと、想像します。
 同じ会場の後ろの方に、若いころの京セラの稲盛さんが聞いておられました。稲盛
さんは、「そうか」と膝をたたいて納得されたそうです。

 それでは、だだ「思えばいいのか」、幸之助は、思った後、行動に先立って考える
時には、「素直な心」が大切だといいます。「素直」という言葉には、「親のいいつ
けを素直に聞く」とか「先生に素直に従う」といった受け身のイメージが強いのです
が、幸之助の言う「素直な心」はそうではありません。習った事を捨てて、経験を捨
てて、成功体験も捨てて、すべてから脱却して、「なにものにもとらわれない強い
心」、真実を見抜くことのできる心、これが大切だと言います。
 本田宗一郎が「真実は権力より強いのだ」と言ったといわれていますが、おなじこ
とを言っているようにおもいます。
 私の翻訳では、「色眼鏡はあかん」「眼鏡に、ちょっとでも色がついていたらあか
ん」「素通しの眼鏡や」。「かたよらない心」「とららわれない心」「こだわらない
心」である。
 さらに、「素直な心」で「衆知」を集める必要があると言います。そのために人に
聞くのである。幸之助は、誰にでも、地位のあるなし、有名無名に関係なく、意見を
聞いておられました。しかし他から聞いたことにとらわれず、自分の体験や知識にも
こだわらず、「素直な心」で真実を見極めて、かたよらない判断をして、行動を起こ
して、成功してこられたのだとおもう。
 幸之助は「素直な心」になるのは簡単ではない。囲碁で1万局ぐらい打って初めて
初段になれるそうだが、「素直な心」の初段になるのも同じだ。朝昼晩、1日に3
回、「素直な心」になろうとねがって、それを1万回ぐらいつづけてやっと「素直な
心」の初段だ、といいます。これを計算すると10年ぐらいかかることになります
ね。それほどしないと「素直な心」の境地には到達できないのです。

 明治37年(1904年/9歳)、小学校4年を中退して、和歌山から大阪へ丁稚奉公に
きました。母親のことを思い出して毎晩シクシクと泣いたそうです。お店に奉公して
最初の給料日の15日がきました。「幸吉どん、だんなさんが呼んだはるで」と、だ
れかが、言いにきました。
 幸吉どんは、幸之助のことです。丁稚に入ると、「幸之助はおさむらいの名前やか
ら、幸吉にしょう」と言われたのです。丁稚という身分では親からもらった名前では
呼んでもらえないのだった。
 だんなさんの前にいくと、「これ給料や」と、丁稚の給料、五銭白銅貨を一枚与え
られた。和歌山では、小学校から帰ると、お母さんが、1厘(1厘が10枚で1銭)銅
貨を1枚くれた。駄菓子屋へとんでいくと、これでおやつのアメ玉が2つ買えたの
だ。5銭玉は、貰ったことも、見たこともない大金だった。こんなにたくさん貰える
のかと、非常にうれしかったそうだ。それからはシクシク泣かなくなったと言いま
す。
 幸之助はこのエピソードを何度も何度も語っている。また、あの本にもこの本にも
書いているが、それほど語り書くからには、この事実が何か強いものを幸吉少年の心
に刻み込んだに違いないとおもう。私は、ニュートンがリンゴが落ちるのを見て万有
引力を発見したと同じように、幸吉少年が5銭玉を初めてもらって、お金と人生の関
係、働いてお金を稼ぐことの意味をを悟ったのだとおもう。それが、後年、事業をし
てお金を儲けることに進化していったのだろう。

 昭和20年8月15日、日本は戦争に負けます。

 大正6年(1917年/22歳)会社を起こして16年目、昭和8年(1933年/38歳)、
門真に大工場をつくった幸之助は日本の戦争にともない、軍需に応じて大陸にも東南
アジアにも進出します。家電の箱の合板の技術でプロペラも製造するようになりま
す。そして、国からの要請で、木造の輸送船もつくることになりますが、家電の流れ
作業の方式を取り入れて、すばらしい生産実績をあげます。挙げ句の果てには、飛行
機までもつくるようになります。飛行機の時は、技術担当の中将に呼ばれて協力要請
をされる。幸之助は、「わしは電気屋や、飛行機のことは知らない」と断ります。し
かし技術は軍が教える、お金は国が責任をもって支払うと口説かれてとうとう協力し
ます。この飛行機は木製のもの、金属材料がなくなったからです。試験飛行までこぎ
着けるのですが、終戦になります。こんな状況ですから、敗戦は松下に過大な損失を
与えます。
 ところが、終戦の翌日、8月16日、幸之助は幹部を集めて、これからは松下の時代
だ、民生用の電気器具をつくることが松下の本業ではないか、がんばろう、といった
主旨の檄をとばします。この割り切りの良さもすごいとおもいます。普通の人なら、
数週間は放心状態に陥っていたとおもいます。私は小6でしたが、こどもでも、なに
も手につかないような心理でした。まして過大な損失をこうむったのですから、並の
人間なら落ち込んでしまい立ち直れなかったとおもいます。この割り切りの良さも成
功の一因だったとおもいます。割り切ったらけっしてクヨクヨしない人なのです。
 こんなエピソードがあります。戦後、大型コンピューター時代に入ります。日本の
各社も開発競争に走ります。松下も多額の開発費を投入して進めていましたが、幸之
助はこれが気になっていました。そのころチェースマンハッタン銀行の副頭取が来日
されました。幸之助も財界人の1人として副頭取にあう機会がありました。真先にこ
の事を聞いたとおもいます。「アメリカでも3社です、日本が7社もやるというのは
無理がある」との意見でした。それを聞いて、それまでに多額の資金をつぎ込んでき
たのは捨ててもよいと、あっさり割り切って、すぐに撤退を決めてしまうのです。

 幸之助は、「企業は公器」であると主張する。私企業であっても、その本質は、
「天下の金、天下の人、天下の土地」、この公共のものを、社会からお預かりして、
経営しているのだから「企業は公器」である。だから「会社は儲けなければならな
い」、会社は利益をあげて税金として社会に還元するのが当然の義務であると主張す
る。ここまで言い切る経営者は他にはいない。経営は何をしてもよいという日本の風
潮。このような時に、松下幸之助のこの考えを学ぶ必要があるのではないだろうか。

 政治に対する関心も、たいへん強かった。「政治は結局、お互いの幸せを高めるた
めにある。過去には政治によって苦しめられ、血を血で洗うということもあったが、
それは政治の本来の姿ではない。政治は本来、お互い人間のそれぞれの活動をスムー
ズに進めるために、利害を調整調和させ、共同生活の向上をはかって、一人ひとりの
幸せを生み高めることをその使命としている」という主旨の主張をする。
 そして、新政治経済研究会を発足させる。昭和27年(1952年/57歳)に、幸之助の
呼びかけで、財界人、知識人ら25人を常任世話人として発足する。毎月集まって、
政策提案を検討するなど、熱心に活動をすすめます。しかし、日本政治が利権汚職政
治から脱却できない現実、また日本国民の有権者意識も確立しない現実、期待した成
果が上がらないので、昭和41年(1966年/71歳)に解散します。この時、政経塾構想
を提案したのです。「松下はん、政治みたいなもんに、手をだしたらアカン、あんた
の名がすたる」と諌められて実現しなかった。ところが、この構想は幸之助の心のな
かで発酵をつづけて、とうとう、昭和55年(1980年/85歳)、私財70億円を投じた
「松下政経塾」が開塾される。
 新政治経済研究会発足から約30年、政経塾構想提案から約15年、強い強い熱い熱
い、ただならぬ思いを持ちつづけたのが、とうとう実現したのでした。
 そして、毎月のように「松下政経塾」に来て、声帯萎縮のために出ににくくなった
声をふりしぼって、自分の思いを若い塾生に伝えていたといわれています。

 平成元年(1989年/94歳)、4月27日、1月に崩御された昭和天皇の後を追うよう
に、松下幸之助は、太くて長い人生を終えて、逝去されました。完



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  • MLNo.2   さん  (0) 2002/09/27 15:44  [メール表示する]
    熱田善男です。

    はじめに、松下幸之助と関係のないことを書きます。
    横浜ベイスターズの森監督が解任されました。西武ライオンズの黄金時代を築いた大
    監督も横浜ではダメだった。以前、古場監督が、広島カープで大きい成績を挙げて横
    浜ホエールズへきたが、うまくいかなかったのとよく似たケースである。
    では、本当の名監督とはどんなのか。昔の西本監督、今は仰木監督。どこへいって
    も、そのチームを優勝させる、優勝請負人のような監督が名監督なのでしょう。

    幸之助は、「素直な心」が大切だといいます。「素直」という言葉には、「親のいい
    つけを素直に聞く」とか「先生に素直に従う」といった受け身のイメージが強いので
    すが、幸之助の言う「素直な心」はそうではありません。習った事を捨てて、経験を
    捨てて、成功体験も捨てて、すべてから脱却して、「なにものにもとらわれない強い
    心」、真実を見抜くことのできる心、これが大切だと言います。

    ダメ系の大監督は、過去の優勝経験にとらわれて、失敗したのです。古場さんは、広
    島からコーチ陣を引きつれて移籍したし、森さんも2年目の今年は森繁和と辻発彦を
    コーチに呼んで必勝を期したのですがダメでした。過去を再現できなかったのです。
    名監督は、移籍したチームを素直な心で見ることからはじめた。「素直な心」=「と
    らわれない心」+「こだわらない心」+「かたよらない心」で、自然にそのチームに
    合った指導ができて、成功するのです。
    やはり、素直な心です。
     



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